第1話 ファインダーの中の空白
プロローグ
世界が始まる瞬間には、いつも決まった音がしない。
「はい、長回し入ります」
プロデューサーの佐伯が低く短い声をかけると、狭いリビングの空気がすっと張り詰めた。
カメラマンの拓海が、ファインダーに右目を押し当てる。レンズの先にあるのは、どこにでもあるファブリックソファと、そこに並んで座る若い夫婦。妻の手には、小さなプラスチックの棒が握られている。窓から差し込む斜光が、そこに刻まれた淡い二本の線を静かに照らし出していた。
「……できてる。本当に、いるみたい」
妻の呟きは、ほとんど吐息のようだった。隣で夫が、言葉にならない声を漏らしながら彼女の肩を抱き寄せる。
普通のテレビクルーなら、ここで「今の気持ちは!?」とマイクを突きつけるか、劇的なBGMを被せる場面かもしれない。しかし、録音技師のミチルはただ、ヘッドホンに意識を集中させ、二人の震える呼吸音と、遠くで鳴る踏切の遮断機の音だけを静かにミキシングしていた。
彼らは「十月十日」と呼ばれる小さな映像制作会社だ。
彼らが撮るのは、映画でもテレビの特番でもない。ある家族が、ただの「二人」から「親」になっていくまでの約280日間——その、あまりにも地味で、あまりにも奇跡的な日常の記録である。
1
「十月十日」の事務所は、古い雑居ビルの3階にある。壁には、これまで手がけた家族たちの写真が、まるで年輪のように飾られていた。
「今回の依頼人は、少し複雑だ」
デスクに資料を広げたのは、監督の槙野だ。元は硬派な報道ドキュメンタリーを撮っていた男で、深い眉間の皺がトレードマークだが、その眼差しは誰よりも優しい。
「依頼者は高橋美咲さん(28)。妊娠3ヶ月。旦那さんは半年前、彼女の妊娠が発覚する直前に事故で急逝している」
ミーティングスペースに、一瞬の沈黙が流れた。
産まれてくる子供は、父親の顔を知らない。そして父親もまた、我が子の存在を知らぬまま逝った。
「美咲さんの希望は『この子が大きくなったとき、パパはここにいたんだよと証明できる映像を残したい』とのことだ。だが……」
槙野は、カメラマンの拓海をまっすぐ見つめた。
「拓海。お前にこの家族のメインを任せたい。いけるか」
拓海はカメラのレンズを拭く手を止め、小さく息を吐いた。
「……僕で、いいんですか」
拓海には、かつて自分の不注意で家族をバラバラにしてしまったという、消えない傷がある。他人の「家族の始まり」を撮るたびに、自分の「家族の終わり」がフラッシュバックする。それでも、彼はカメラを手放せなかった。
「お前のカメラは、そこに『いない人間』の気配を撮る。この案件には、お前の目が必要だ」
2
撮影が始まった。
美咲の部屋には、至る所に亡き夫・和也の面影が残っていた。玄関に置かれた大きめのスニーカー、お気に入りのマグカップ、本棚に並ぶ趣味の文庫本。
拓海は、それらを決して「悲劇の遺品」としては撮らなかった。
美咲がキッチンでお腹をさすりながらお湯を沸かすとき、その背後に映り込む和也のジャケット。窓辺で風に揺れるカーテン。まるで、今もそこに誰かがいて、彼女を見守っているかのようなアングルを探し続ける。
「拓海くん、ご飯食べてる?」
ある日、撮影の合間に美咲がハーブティーを淹れてくれた。少しずつ膨らんできたお腹を愛おしそうに撫でながら、彼女は微笑む。
「和也がね、よく言ってたの。『記録に残らない毎日こそが、一番贅沢なんだ』って。だから私、この子が生まれたら、普通の毎日がどれだけ愛おしいか、このビデオで見せてあげたいの」
拓海の胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……美咲さんは、怖くないですか。一人で育てること、これから訪れる変化が」
美咲は窓の外の青空を見上げた。
「怖いですよ、もちろん。でもね、カメラがここにあると、なんだか一人じゃない気がするんです。十月十日のみなさんが、私と一緒にこの子の成長を待ってくれているみたいで」
その言葉に、部屋の隅でマイクを向けていたミチルが、そっと涙を拭った。エディターのケンジは、すでに頭の中で、この静かな会話のあとに、どんな生活音を繋ぐべきかを組み立てていた。
3
季節は巡り、十月が満ちようとしていた。
予定日を数日過ぎた雨の夜、佐伯の携帯が鳴った。「陣痛が始まりました」
「十月十日」のメンバーが病院へ駆けつける。
分娩室の緊張感の中、拓海はカメラを構えた。美咲の額に汗がにじみ、荒い呼吸が響く。彼女の手は、助産師の手を固く握りしめていた。本来なら、そこに夫の手があるはずだった。
「美咲さん、和也さんはここにいますよ」
監督の槙野が、静かに、しかし確かな声で言った。
「僕たちのカメラが、美咲さんの頑張りも、和也さんの想いも、全部ここに記録しています。安心して、新しい家族を迎えてください」
美咲の目に、涙が溢れる。最後の大きな波がやってきた。
心音モニターの規則正しいビートと、美咲の最後の叫び、そして——。
「——おぎゃあ、おぎゃあ!」
力強い産声が、分娩室を満たした。
拓海はファインダーが涙で滲むのを必死でこらえながら、フォーカスを合わせた。生まれたばかりの赤ん坊が、美咲の胸に抱かれる。その瞬間、窓の隙間から、雨上がりの柔らかな朝光が差し込み、母子を包み込んだ。
拓海は確信した。今、この光の中に、確かに和也もいたのだと。
4
一ヶ月後。
「十月十日」の事務所で、美咲を迎えての完成試写会が行われた。
画面に映し出されたのは、ドラマチックなBGMもない、ただの280日間の記録。しかしそこには、美咲が気づかなかった、彼女自身の優しい眼差しや、彼女を包む部屋の温もり、そして和也の気配が、確かに息づいていた。
映像が終わり、部屋の明かりが点く。美咲は、腕の中で眠る我が子を抱きしめながら、何度も何度も頭を下げた。
「ありがとう……本当に、ありがとうございました。この子は、寂しくないです。こんなに愛されて生まれてきたんだって、いつでも思い出せるから」
彼女が帰ったあと、メンバーは余韻に浸りながら片付けを始める。
拓海は、自分のカメラを見つめていた。他人の家族を救うことで、自分の傷が少しずつ癒えていくのを感じていた。
「よし、次の依頼人の資料だ」
佐伯が新しいファイルをテーブルに置く。次は「望まぬ妊娠に悩む女子大生」からの依頼だった。
「……重そうですね」とケンジが苦笑する。
「重くない命なんてないさ」槙野が煙草に火をつけようとして、事務所が禁煙になったことを思い出し、苦笑いで引っ込めた。
カメラをバッグに収めながら、拓海は窓の外を見た。街には、数え切れないほどの「日常」が行き交っている。その一つひとつに、それぞれの十月十日があり、家族の始まりがある。
「行こうか」
誰かの命が、物語に変わる瞬間を捉えるために。「十月十日」の旅は、これからも続いていく。




