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最終話 光を渡す人

1

「いつもは『おめでとうございます』って言う側なんですけどね。いざ自分のこととなると、こんなに情けないなんて」

白衣を脱いだ大野 冴子(おおの さえこ、35)は、照れくさそうにお腹をさすった。彼女は地域でも評判の総合病院に勤める、ベテランの助産師だ。これまで何百人もの命を取り上げてきた彼女が、今回は「撮られる側」として「十月十日」の事務所を訪れていた。

「助産師さんからの依頼なんて、初めてだな。どうして僕たちに?」

監督の槙野が尋ねると、冴子は少し真面目な顔になって、デスクの上のハーブティーを見つめた。

「仕事柄、私は『産声があがった瞬間』ばかりに立ち会ってきました。でも、退院していくお母さんたちを見送るたびに、いつも思うんです。この人たちの本当の戦いは、ここから始まるんだって。命が生まれる瞬間の劇的な感動だけじゃなく、その前にある、何でもない、だけど必死な日々を、一度客観的に見てみたかったんです。自分のこれからのために」

彼女の言葉に、プロデューサーの佐伯とエディターのケンジが深く頷く。まさにそれこそが、「十月十日」が結成以来、一貫して追い続けてきたテーマだった。

しかし、撮影が始まって間もなく、メンバーは別の「ノイズ」に気づくことになる。

冴子の夫である和真(かずま、36)は、優しく誠実な男だったが、冴子が仕事の話をするたびに、どこか一歩引いたような、腫れ物に触るような態度を見せていた。

「冴子はプロだから、僕が口を挟むようなことは何もないんです。全部、彼女の言う通りにしていれば間違いないですから」

和真のその言葉をヘッドホン越しに聴いた録音技師のミチルは、微かな違和感を覚えた。それは信頼というよりも、一種の「諦め」に近いトーンだった。

2

妊娠8ヶ月。冴子のお腹は順調に大きくなっていたが、彼女は産休に入る直前まで過酷なシフトをこなしていた。

カメラマンの拓海は、病院側の許可を得て、勤務中の冴子の姿も記録していた。

分娩室で、若い母親の汗を拭き、力強く励ます冴子。その姿は神々しいほどに頼もしかった。しかし、深夜に帰宅し、誰もいないリビングのソファに倒れ込む彼女の顔には、濃い疲労と孤独が張り付いていた。

「冴子、お風呂沸いてるよ。ご飯、温め直そうか」

和真が声をかけるが、冴子は目を閉じたまま首を振る。

「ごめん、今は無理。それより和真、赤ちゃんのベビーベッドの配置、私が言った通りに変えてくれた? 動線が悪いと危ないから」

「……あ、うん。明日やるよ」

「明日じゃ遅いの。いつ生まれるか分からないんだから」

冴子の口調は、完全に「ベテラン助産師」のものだった。彼女は無意識のうちに、家庭の中でも「完璧なプロ」であり続けようとし、夫である和真を「新米の部下」のように扱ってしまっていた。

ある日、拓海は買い出しの途中で、一人で公園のベンチに座る和真を見かけた。

声をかけると、和真は苦笑混じりに本音を漏らした。

「拓海さん。僕は、父親になるのが怖いんじゃないんです。冴子の隣にいると、自分が育児の『正解』を持っていない無能な人間に思えてきて……。彼女は一人で完璧に産んで、一人で完璧に育てられる。僕の存在って、何なんだろうって、時々分からなくなるんです」

拓海は、その言葉を黙って受け止めた。

かつて自分が家族を失ったときも、ボタンの掛け違いはこうした「小さな役割のズレ」から始まった。

「和真さん。冴子さんも、本当は怖いんだと思います。プロだからこそ、失敗が許されないって、自分を追い詰めているのかも知れない」

3

「十月十日」の真価が問われるのは、いつも予定通りにいかない時だ。

妊娠36週、生産期に入る直前の夜、冴子が突然の激痛を訴えて救急搬送された。

「常位胎盤早期剥離」の疑い——命に関わる緊急事態だった。

事務所に連絡が入り、拓海たちは機材を持って病院へ走った。

緊迫する廊下で、和真は頭を抱えて震えていた。いつも冷静な冴子が、搬送される車内で「どうしよう、どうしよう」と泣き叫んでいたという。

「和真さん!」

槙野が和真の肩を強く掴んだ。

「今、彼女は助産師じゃない。ただの、怯えてるお母さんです。あなたが支えなくて誰が支えるんですか」

手術室の扉が閉まる。今回は中での撮影は許されない。拓海は、手術室の赤いサイン灯と、その前で祈るように手を合わせる和真の姿にカメラを向けた。

ミチルのマイクが、病院特有の無機質な電子音と、和真の荒い呼吸、そして彼が小さく呟いた「冴子、頼むから無事でいてくれ……」という祈りを集音する。

1時間が、10年のように感じられた。

やがて、手術室の扉が開き、医師が出てきた。「無事、生まれました。お母さんも大丈夫です」

和真が崩れ落ちるように泣いた。

その後、ICU(集中治療室)への入室が許可され、拓海たちも同行した。

ベッドの上で、様々な管に繋がれた冴子は、いつもの「強い助産師」ではなかった。髪は乱れ、顔色は青白く、ただの、命がけで我が子を産み落とした一人の満身創痍の女性だった。

保育器に入れられた小さな男の子が、彼女の枕元に運ばれる。

和真が、冴子の震える手を握りしめた。

「冴子……頑張ったね。ありがとう、本当にありがとう」

冴子の目から、涙が溢れ出た。

「和真、ごめんなさい……私、プロなのに、何もできなかった。怖くて、身体が動かなくて……」

「いいんだよ。プロじゃなくていいんだ」

和真は彼女の額に自分の額を合わせ、優しく笑った。

「これからは、二人で新米になろう。俺が半分持つから。だから、一緒に始めよう」

冴子は、和真の手をぎゅっと握り返した。その瞬間、彼女を縛り付けていた「完璧」という呪縛が、静かに解けていくのが見えた。

拓海は、その二人の手の重なりを、窓から差し込む朝の光と共に、じっと画面に収め続けた。

4

数ヶ月後。

「十月十日」のオフィスで行われた試写会には、少しふっくらとした冴子と、以前よりずっと逞しい顔つきになった和真、そして元気な産声をあげる赤ん坊の姿があった。

画面の中で、麻酔から覚めたばかりの自分が「何もできなかった」と泣いているシーンを見た冴子は、和真の肩に頭を預けながら微笑んだ。

「恥ずかしいですね。でも……これが私なんですね」

冴子は拓海を見た。

「あの日、私が助産師としての自信を無くした瞬間を、拓海さんは本当に優しく撮ってくれた。おかげで、私はただの『母親』になれました。和真を頼ることを、カッコ悪いと思わなくなれたんです」

和真も、嬉しそうに息子をあやしながら言った。

「僕にとっては、あの緊急手術のあとの、冴子の涙が一番愛おしいです。このビデオがあるから、これから育児で壁にぶつかっても、僕たちは何度でもチームに戻れる気がします」

三人が、賑やかな足音と共に事務所を去っていく。

エディターのケンジが、タイムラインの最後を閉じ、パソコンの画面をスリープにした。

「今回は、ハラハラしたなぁ。でも、終わりよければ全てよし、か」

「いや、終わりじゃないさ」

監督の槙野が、新しく禁煙マークが貼られた窓辺で、ミントタブレットを口に放り込みながら言った。

「彼らの十月十日は終わったが、家族の物語はこれからだ。俺たちはその、最初の1ページをめくる手伝いをしたに過ぎない」

拓海は、カメラのレンズを覗き、フォーカスリングを回した。

ファインダーの向こうには、夕暮れの街並みが広がっている。家々の窓に、ひとつ、またひとつと明かりが灯っていく。あの光の数だけ、迷い、傷つき、それでも愛おしい「始まりの時間」があるのだ。


エピローグ

「拓海、次のお客さんだ」

プロデューサーの佐伯が、また新しいファイルを持って部屋に入ってきた。

今度の表紙には、どんな家族の名前が刻まれているのだろうか。

「十月十日」——それは、命が物語へと変わる、奇跡の280日間。

彼らは今日も、誰かの「始まり」の音を聴くために、カメラを抱えて街へと繰り出していく。


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