第87話 旅程の打ち合わせと…盛胤の…
その夜は、そのまま中村城にて宿を賜ることとなった。
翌朝、秋の冷気が障子の隙間から静かに入り込み、城下では朝餉の支度に追われる煙が細く真っ直ぐに立ち上っていた。
朝餉を終えた貴丸と慶久、そして空然は、盛胤の私室へと通された。
部屋にはすでに盛胤と重臣の岡田が控えており、奥には昨夜の酒の残り香がほのかに漂っていた。だが、空気は完全に切り替わっている。宴の余韻は消え、そこには明確に政の場としての緊張が漂っていた。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、慶久と貴丸は思わず視線を止めた。そこに、見覚えのある顔があったからだ。
「……おお、治兵衛殿ではないか」
慶久がわずかに目を見開いた。そこにいたのは、請戸の大和田館にも時々出入りしていた、廻舟商人・八田屋の番頭、治兵衛であった。
岡田が横から静かに尋ねる。
「八田屋をご存じか」
慶久は軽く頷いた。
「ええ。八田屋の主人・孝之助殿とは、何度か取引をしておりますからな」
その言葉に、治兵衛は一礼して応じた。
「はは、その節は。主人・孝之助も、大和田様の御用には幾度かお伺いしておりますゆえ」
言葉は簡潔で、必要以上の広がりを持たない。そこには、商人としての明確な節度があった。
八田屋は、すでに相馬の中村詰所にも拠点を持つ廻舟商である。奥州の海運を束ねる一角として、諸勢力との距離感を極めて慎重に保っていた。だからこそ、治兵衛は今この場でも、余計なことを一切口にしなかった。
大和田と八田屋が密につながっていることは、あえて言葉にしない。公にすれば利害が露骨に動く。今はまだ、その時ではないことを双方が理解していた。
治兵衛もまた、その空気を読み取っていた。
(今は“取引の種”を落とす時ではない)
ただ、確かなことが一つある。
請戸の漬物や干物の取引に加え、近ごろ噂される蜂蜜の件。それはまだ“運に左右される山の恵み”ではなく、“人の手で安定して得る仕組み”へと変わりつつあるということだ。
それは商人にとって、利益であると同時に危うさでもあった。完成してしまえば莫大な利を生む。だが、未完成の今は、まだ誰のものでもない。
だからこそ、八田屋は動きを急がず、静かにただ観察していた。
その沈黙の中で、盛胤がゆるやかに口を開いた。
「さて……本日の詰め、始めるといたそうか」
室内の空気が、さらに一段深く沈んだ。
「では、京への旅程を改めて確認しておこう」
盛胤がそう切り出すと、岡田安房守が巻紙を広げた。その傍らで、八田屋の番頭である治兵衛が静かに口を開き、行程を説明していく。
出港は十月初旬。それ以降となれば海は荒れ、北の船には厳しい季節となる。請戸より船を出し、常陸の沿岸を南下した後、千葉・木更津周辺にて一旦寄港する手筈であった。
「その折、盛胤様の御伝をもって今川方へも立ち寄る形となります」
治兵衛の言葉に、慶久がわずかに眉を上げた。
「今川となると……うちでも伝があるはずだ。確認しておこう」
そう言いながら、慶久はふと記憶を探るように視線を落とした。
(確か、父上――慶虎が流浪の折、今川に世話になったことがあったはずだ)
今は隠居した元伯の名はここでは出さぬが、その縁は確かに残っている。後で精査せねばならぬ案件であった。
木更津の後はさらに西へ向かい、必要に応じて補給と風待ちを行いながら進む。その行程について、慶久が口を開いた。
「……尾張にも寄った方が良いと、貴丸が言うのだが……」
治兵衛は一瞬だけ間を置いてから頷いた。
「道理でございますな。尾張にて様子を見、食糧と水を補えば、海路としては理に適っております」
こうして最終的には上洛へ至る予定となった。
ただし、帰路は別であった。
治兵衛の見立てでは、冬の海は極めて危険であり、帰還は冬を越してからとなる。安全を取るなら三月頃に京を発ち、請戸へ戻るのは四月頃になる見込みであった。
「今の船では、冬の海を越えるのは無謀にございます」
その言葉に、誰も異論はなかった。
続いて、荷の確認が行われた。
「相馬からは塩鮭、干し鮑、干し海鼠などの乾物、それに銭」
岡田が淡々と書き留める。
「うむ」
「大和田からは、たんきり飴、蜂蜜、干し貝柱、それに鮭の加工品を」
京への献上と商い、その両立を見据えた荷である。特に干し海鼠は都で高値が付く可能性があり、盛胤もその点は抜かりなく計算している様子であった。
その折、貴丸が何気ない風を装って口を開いた。
「治兵衛殿。干した海産物は、船中で湿気を嫌うのでは?」
治兵衛が目を細める。
「ほう……その辺りは、よくご存じで」
貴丸は軽く肩をすくめた。
「まあ、うちにも船が出入りしますからね」
そして、記憶を探るように続ける。
「油紙で包んで、藁を詰めて、すのこに載せればよいのかな、と」
その言葉に、治兵衛の表情が変わった。
「……それで問題ございません。むしろ理に適っておりますな」
思わず感心の色が混じる。
「貴丸殿は、よくご存じでございますな」
貴丸は興味なさげに笑った。
「まあ、なんとなく」
その軽さに、場の空気がわずかに緩んだ。
だが、治兵衛は続けた。
「なお、長期の船旅において最も重要なのは、水でございます」
一同の視線が集まる。
「清い樽にて運びますが、それでも十日ほどで傷み始めますゆえ、基本は煮沸して飲むのが必須にございます」
その言葉に、貴丸がふと思い出したように尋ねた。
「治兵衛殿、水に少量の酒を混ぜたり、あるいは炭を入れたりはしておりませぬか?」
治兵衛は少し考えてから首を振った。
「酒を少量入れる手は聞いたことがございますが……炭は初耳にございます」
貴丸は軽く頷いた。
「では、今回試してみてはどうでしょうか。たぶん、今よりは長持ちすると思いますよ」
その言葉に、治兵衛は目を見開いた。
水の保存期間が延びる。それは航海そのものの性質を変える話である。
岡田が思わず口を挟んだ。
「戦の際も、水の確保は常に問題となる。これが使えるならば……陸でも役立つのではないか?」
「ええ。陸でも海でも、今よりは持つはずです」
貴丸の返答は簡潔だった。
その場に一瞬、沈黙が落ちた。やがて盛胤が静かに頷く。
「……ならば、試してみる価値はあるな」
岡田も小さく頷いた。
「うむ。実否を糺して損はない」
こうして、京行きの準備はまた一つ、未知の要素を含んだまま前へと進み始めるのだった。
慶久はそのまま請戸へ戻ることとなった。また後日、慶光か久秀のいずれかが相馬へ赴き、志乃と源吾を迎えに上がる手筈も、この場で併せて決められた。
話し合いも終わりに差しかかった頃、盛胤がふと慶久を見ながら尋ねた。
「桑折には昨日のうちに、早馬を飛ばして都へ向かう旨は伝えておいた。……して、大和田より京へ向かうは、いったい誰なのだ?」
その問いに、室内の空気がわずかに引き締まった。
慶久は一瞬、横目で貴丸を見た。答えを求めるというより、確認に近い視線である。
やや間を置いてから、貴丸は何事もなかったかのように口を開いた。
「私の親族が、父の名代として参ることになるかと存じます。長く領を空けることになりますゆえ、一度戻り、母へ相談のうえ決めようかと」
「慶久殿ではなく……母御か」
盛胤の眉が、ほんのわずかに動いた。
貴丸は当然のように頷く。
「はい。どの家においても、一番強いのは母にございますゆえ」
その言葉に、慶久の表情が露骨に歪んだ。苦虫を噛み潰したように視線を落とす。
一方、盛胤は堪えきれぬといった様子で腹の底から笑った。
「ははは、なるほどのう。確かに家中で一番強いのは女子よな」
笑いはしばらく部屋に残り、やがてゆるやかに消えていった。
その余韻が引いたあと、盛胤はふと表情を改め、貴丸をまっすぐ見た。
「……彦法師丸のことよ」
「はい」
貴丸は短く応じた。
盛胤は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「芯は真面目な子である。されど、そなたのような者を前にすると、どうにも面白うないのだろう。そなたも気を悪くすることもあろうが、許してやってくれぬか。いずれ分かる日も来よう」
「心得ております」
貴丸は感情を見せぬまま、静かに頭を下げた。そして、その動きのまま、わずかに視線だけを上げる。
その瞬間だけ、年齢にそぐわぬほど冷えた静けさがあった。
やがて一通りの話が終わると、盛胤は満足げに頷いた。
「うむ。では、そのように進めるとしよう」
その言葉を区切りに、一同はそれぞれ立ち上がった。慶久や岡田たちも一礼し、静かに部屋を辞していく。
貴丸も、慶久と控えていた空然の後について出ようとした。その時だった。
「――貴丸殿」
盛胤が不意に呼び止めた。
貴丸が振り返ると、盛胤は軽く手を振った。
「そなただけ、少し残ってくれ」
その声音は穏やかだったが、どこか先ほどまでとは違う響きがあった。
慶久も一瞬だけ盛胤を見たが、何も言わず、そのまま退出していった。
ぱたり、と襖が閉まる。
部屋には、盛胤と貴丸だけが残った。盛胤はしばし黙って貴丸を見ていたが、やがて声を落とした。
「……これは、二人だけの内密な話じゃ」
先ほどまでの打ち合わせとは違う、静かな重みが部屋に沈んだ。
「もしもの話じゃが……」
盛胤の目が、まっすぐ貴丸を見据える。
「万が一にも、そなたと彦法師丸が争うことあらば――あの者は、いずれそなたの門前へ馬を繋ぐことになろう」
低く、静かな声だった。一拍置いて、さらに続ける。
「されど、その時が来たとしても……あの子の命だけは、どうか助けてやってほしい」
言い終えると、盛胤はすぐに、ふっと口元を緩めた。
「なに。ただの戯れ言よ」
軽く笑ってみせる。だが、その笑みは昨夜の宴で見せたものとは違っていた。もっと遠く、まだ見ぬ先を見てしまった者の影が、どこかに滲んでいる。
貴丸はしばし言葉を失っていたが、やがて静かに頭を下げた。
「……心得ました」
短く、ただそれだけを返した。
そして、その一言を最後に、貴丸は盛胤の部屋を辞したのである。




