第86話 謁見後の宴
桑折忠家の館での一夜とはまた違い、相馬中村城の宴には、どこか張り詰めた気配が漂っていた。
盛胤の計らいにより、その夜は城内で宿を賜り、さらに饗応の席まで設けられている。広間には灯明が幾つも揺れ、磨き上げられた板敷には酒肴がずらりと並べられていた。
上座には盛胤、その左右には岡田安房守義胤、泉田右近大夫胤清ら重臣たちが控える。後方には空然の姿もあり、他にも中村城の家臣たちが顔を揃えていた。
そして今夜は、貴丸が宴席へ出ているということもあり、奥向きの女子供まで見物半分に呼ばれているらしい。襖の陰や広間の端には、小さな子らがそっと顔を覗かせ、女房衆たちがひそひそと囁き合っていた。
ただ――彦法師丸だけはいない。
「気分が優れぬゆえ控える」とのことだったが、その理由を額面通り受け取る者は少なかった。
泉田もまた、終始むっつりとした顔で杯を傾けるばかりで、ほとんど口を開かぬ。
そんな中。ただ一人だけ、この場の空気を根本から壊している者がいた。
「ふへへぇ」貴丸である。
まだ元服前だというのに濁酒をぐびぐびと呷り、すでに顔は真っ赤だった。しかも酔えば酔うほど、妙な方向へ元気になる質らしい。
最初のうちは、まだ良かった。
座ったまま上機嫌で魚を頬張り、無理やり空然をそばに侍らせて、空然へ絡み意味もなく小姓へ酒を注ごうとして断られ、けらけら笑っている程度で済んでいた。
だが、やがて――
「おぉい、小姓ぉ。筆ぇ。あと、紅もぉ」
などと言い出した辺りから、慶久が本気で頭を抱え始めた。
「た、貴丸……やめぬか……!」
だが、止まらない。
貴丸は上着を脱ぎ、ぽよんとした腹を突き出すと、筆でぐりぐりと顔を描き始めた。さらに紅で頬まで染める。
そして満足げに腹を叩いた。
「見よぉ! 我は腹芸仙人である!」
意味は誰にも分からない。だが、そのまま腹を揺らして踊り始めたものだから、広間の空気が一気に崩れた。
動くたびに、腹の顔がぶるぶる揺れる。しかも妙に表情豊かに見える。そのたびに、どっと笑いが起こった。
果てにはそのままの姿で尻を振り始め、「“貴丸”の“ま”の字はぁ! こうやってぇ、こうやってぇ、こう書くのぉ!」
などと叫びながら尻文字まで始めた頃には、もはや宴の中心は完全に貴丸になっていた。
岡田でさえ肩を震わせ、空然は念仏でも唱えそうな顔で遠い目をしている。
泉田ですら、一瞬だけ吹き出しかけ、慌てて咳払いで誤魔化したほどだった。
一方、奥で見ていた子供たちは興味津々だった。
「あれなにー!」「ぼくもやりたいー!」
などと目を輝かせて近寄ろうとする。だが、そのたびに母親らしき女房衆たちが慌てて引き止めた。
「こら、見てはいけませぬ」「近寄ってはなりませぬ!」「目を合わせてはいけませぬぞ!」
まるで妖怪か何かの扱いだった。その声に、周囲ではまた笑いが漏れる。
しかし、大人たちの目は違った。笑ってはいる。だが、その奥では別の評価が静かに固まり始めていた。
(……なるほど)(これは確かに、うつけよな)(あれほど酔って醜態を晒すとは……)(見よ、あの体。子供とはいえ、まるで鍛錬の跡がない)(武家の嫡男とは思えぬ)(不精者という噂は本当か)
そんな視線が、じわじわと広間へ広がっていく。
貴丸は腹を揺らしながら踊っていたが――その半ば濁った目の奥では、時折ひどく冷めた色を帯びていた。
そして、本来ならば顔を出したくもなかったのであろう。
「宴なのだから出よ」と盛胤に再度言われた彦法師丸が、露骨に不機嫌な顔を隠しもせず広間へ現れた。
もっとも、上座へ近づこうとはしない。
そのまま奥の、家臣の子らや若い小姓たちが集まっている辺りへ腰を下ろし、つまらなさそうに膳へ口をつけている。
時折、腹踊りしている貴丸を睨んでは、あからさまに顔を歪めた。
そんな空気を感じ取りながらも、盛胤はどこか愉快そうに慶久へ声を掛ける。
「しかし慶久殿。此度の日向館の城取り、まこと見事であったぞ」
盛胤は杯を置き、ゆるやかに続けた。
「わしも長く戦場を見てきたが、十ほどの手勢で城を取るなど、古今東西聞いたことがない。……いったい、いかなる差配であったのだ?」
その声に、広間の空気がわずかに変わる。
先ほどまで笑っていた重臣たちも、自然と慶久へ視線を向けていた。泉田も杯を止め、岡田は静かに目を細める。
慶久は、見るからに困った顔をした。それから、ちらりと視線を横へ流す。
そこでは貴丸が、腹へ描いた顔をぶるぶる揺らしながら、意味不明な踊りを続けていた。
「……いえ、その……、息子が……全て差配しましたゆえ。我らは、その通り動いただけにございます」
瞬間。広間に笑いが漏れた。
「ははは!」「またまた」「ご謙遜を」「さすがにそれは……」
当然だった。元服も済ませていない童が軍配を握り、大人たちが従ったなど、俄かに信じられる話ではない。
だが――盛胤だけは笑わなかった。
細い目のまま、静かに貴丸へ視線を向ける。
「――と、慶久殿は申しておるが?」
すると貴丸は、腹の顔をぷるぷる震わせながら、にやぁっと笑った。
完全に酔い潰れている顔だった。
「ふぇ? あぁ……城ぉ? そりゃあ……おれじゃなくてぇ……敦丸ぅ…れすぅ」
杯を揺らしながら、へらへらと続ける。
「敦丸とな?」岡田の眉が、ぴくりと動いた。
貴丸はまるで気づかぬ。
「弟の敦丸ぅ、頭いいからぁ……おれと親父様ぁ、言われた通りやっただけぇれぇす。ぽよ?」
場が止まる。
「……ぽよ?」
「今、“ぽよ”と言ったか?」誰かが小さく呟いた。
慶久が低い声で、「貴丸」と釘を刺すが、もう遅い。
貴丸は完全に上機嫌だった。
「日向館どうするかもぉ、盛胤様とどう喋るかもぉ、みーんな敦丸ぅ。おれぇ、難しいこと嫌いだしぃ。昼寝担当らしぃ」
そして、へらへら笑いながら杯を掲げる。
「“こう言われたらぁ、こう返しなさぁい”ってぇ、ぜーんぶ敦丸が教えてくれましてぇ!」
腹の顔が、ぶるんと揺れた。「ふへへへぇ」
笑い声は、もう起きなかった。
岡田が静かに目を細める。
「……ほう」その声音だけが、妙に重かった。
さらに問う。
「では――先ほどの盛胤様との受け答えも、全てその敦丸殿が?」
すると貴丸は、大きく頷いた。
「そぉそぉれすぅ。あれも敦丸ぅ。“こう言えばいいよぉ”ってぇ。敦丸が”はうつーぼん”? おれぇ、覚えて喋っただけぇす。ぽよ?」
「……」
そして、不意に思い出したように笑う。
「おれがぁ劉禅ならぁ、敦丸はぁ、関羽雲長とぉ、諸葛孔明? きょういとかしょうえん? ひい? だからぁってぇ、敦丸がぁ」
その言葉が落ちた瞬間だった。広間の空気が、目に見えぬ形で変わる。
先ほどまで笑っていた家臣たちの顔から、次第に笑みが消えていった。
――まだ見ぬ弟。
――姿すら、この場には現れていない少年。
――その者が城取りを差配し。
――盛胤との駆け引きまで裏で読んでいた。
しかも。嫡男たる貴丸を“劉禅”に喩え、自らを関羽・諸葛亮などと称する童。
それはつまり。自分こそが実務と知略を担う者だと、そう言っているに等しい。誰ともなく、息を呑む。泉田でさえ、眉間に深い皺を刻みながら黙り込んでいた。
奥で聞いていた彦法師丸も、いつの間にか皮肉な笑みを消している。
まだ幼い。だが、その姿を見ぬがゆえに。人の想像は、勝手に膨れ上がっていく。
――大和田には、もう一人”怪物”がいる。しかも、本当に恐ろしいのは、そちらなのではないか。
そんな空気が、広間の奥底へ静かに沈み込んでいった。
彦法師丸は、その貴丸の姿を冷めた目で見ていた。
末席に集められていた家臣の子息たちも、腹を揺らして踊る貴丸を見ながら、口々に嘲る。
「武士の子とは思えぬな」「殿や重臣方の御前で、なんたる無礼か」「これが城を取ったなど、笑わせる」
ひそひそと漏れる悪口と失笑。もっとも、当の貴丸はまるで気づいていない。
いや――気づいていない振りをしていた。
「ふへへぇ」
周囲の視線を見ている。岡田の呆れ顔。泉田の嘲笑。家臣たちのざわめき。
そして、“敦丸”という名が、勝手に膨れ上がっていく気配も。
その瞬間だけ、貴丸の顔から笑みが消えた。
ほんの刹那。酔い潰れた童の顔ではない。妙に醒めた目だった。
(……うん、これでいい。いいぞ。うへへぇ)内心で、小さく頷く。
日向館の城取り。盛胤との受け答え。彦法師丸とのやり取り。
あれだけでも、すでに目立ちすぎている。
この上さらに、「大和田の嫡男は頭が切れる」などと思われれば、面倒事が雪崩のように寄ってくるのは目に見えていた。
だから貴丸は、必死に「大和田の嫡男は頭がキレている」と思わせようとしたのだ。
貴丸が望むのは、腹いっぱい飯を食い、眠くなれば寝転がり、時々気儘に”自分が面白いと思う”ことをする。
それだけでいい。戦は面倒だ。政はもっと嫌いだ。責任など、聞くだけで鳥肌が立つ。
(そういうのは、”頭のいいやつ”がやればいいんだよ)
そして、その役にちょうど良い存在がいた。
――敦丸。
二つ下の弟。しかも今、この場にはいない。だからこそ、都合が良かった。そう、”敦丸を頭のいいやつにしてしまえ”作戦だ。
我田引水。権化の化身の申し子で分身でもあり、絶対的な主の総本山である――そんな性根を煮詰めて人の形にしたようなのが貴丸だ。
もし目の前に蜘蛛の糸でも垂れようものなら、きっと真っ先に他人を押し退けて登るだろう。もっとも、そんな体力は貴丸にはない。
だからこそ、“全部敦丸が考えたこと”にしてしまうのは、実に心地が良かった。
貴丸は再び、にへらと笑う。腹を揺らしながら、杯を掲げた。
「おれぇ、難しいこと分かんなぁい。ぜーんぶ敦丸ぅ」
その言葉に、周囲の顔がまた強張る。
特に慶久は、「何を言っておるのだこやつは」という顔をしていたが、貴丸は気にしない。
貴丸はむしろ内心では満足していた。
(うんうん。そうそう)(賢いのは全部、敦丸)(おれはただの不精者)(最高じゃん)
そう。今回の痴態もまた、半ば以上は演技だった。
いや――むしろ、周囲が勝手に「うつけ」と思ってくれる方が、貴丸にとっては遥かに都合が良い。
だからわざと腹踊りまでしている。まぁ、少しだけやりたいという気持ちはあったのだが。
目立ちたくないくせに、目立つ方向だけは毎回どこか致命的に間違っている。
その辺りが、実に貴丸らしかった。
もっとも。貴丸はちらりと盛胤を見る。盛胤は呆れと困惑の入り混じった顔をしていた。
(……まぁ、これで騙されてくれるなら楽なんだけどな)
内心で肩をすくめる。敦丸を見て「こちらが本命」と思い、自分を侮ってくれるなら都合が良い。だが、本当に頭の回る相手なら、薄々気づくだろう。
――こいつ、わざとやっているな、と。
貴丸はへらへら笑いながら、妙に冷めた目で周囲を眺めていた。
その中で、盛胤は杯を口元へ運びながら、じっと貴丸を見ていた。
腹を揺らして踊る姿。へらへらと笑う顔。だが時折、その奥で覗く妙に醒めた目。
「……さて、どこまでが本当かのう」
盛胤は、ほんのわずかに口元だけで笑った。
この時代、飲酒の年齢制限はありません! この物語はフィクションです!
現代は20歳未満の者の飲酒は法律で禁じられています!
あぁ、貴丸の『ぽよ』に深い意味はありません。
きっと、実はそこそこ酔っていたのでしょうね。。




