第85話 謁見後
部屋へ戻ると、障子の外はすでに夕暮れへ染まり始めていた。薄赤い光が畳へ長く差し込み、海から吹く冷えた風が紙をかすかに鳴らしている。
今夜は盛胤から歓待の宴へ呼ばれていた。しかも今回は子供の貴丸もいるため、堅苦しい武士だけの席ではなく、交流も兼ねて家臣たちの奥方や子らも顔を出すらしい。
その前に聞いておきたいことがある――そう考えた慶久は、部屋へ入るなり貴丸へ向き直った。空然も謁見の様子を聞きたかったのだろう。静かに座したまま、こちらへ視線を向けている。
「先ほどの褒美の件だが……なぜ、わざわざこの陸奥から京の帝へまで献上に行かねばならぬのだ?」
慶久は腕を組む。
「京だぞ。遠すぎる。それに朝廷など、うちとはあまり関わりもなかろう」
すると貴丸は、だらしなく座ったまま首を傾げた。
「いや、めちゃくちゃ関係あるでしょ」
あまりにも即答だった。慶久が眉をひそめる。
貴丸はそのまま指先を振りながら続けた。
「そもそも、京は遠いけど、帝と朝廷の権威は結局ここまで届いてるでしょ?」
「……どういう意味だ」
「だって、伊達の殿様が、朝廷から正式に従四位下左京大夫になった途端、盛胤様も対抗して同じ位階の“従四位下大膳大夫”を”自称”で名乗り始めたじゃん」
慶久の口元がぴくりと引きつった。
それは事実だった。正式任官ではない。だが、名乗ること自体に意味がある。この奥州では特にそうだ。
貴丸は続ける。
「つまり、みんな結局は京の権威で勝負してるんだよ。遠く離れてても、“朝廷にどう見られてるか”を気にしてる。だったら、こっちから利用しない手はないでしょ?」
その言葉に、空然がわずかに目を細めた。子供の言葉とは思えぬほど、生臭い。だが間違ってはいない。
そして貴丸は、そこで指を二本立てた。
「それに、京へ行く理由は二つ、三つかな?」
そう言って、にやりと笑う。
「まず、蜂蜜」
「蜂蜜?」
「うん。うちの蜂蜜を、公家とか帝が口にした――その事実が欲しいんだよ」
慶久と空然が顔を見合わせる。
貴丸は気にせず続けた。
「結局、物の価って“誰が認めたか”で価値が変わるんだよ。同じ蜂蜜でも、“帝も召し上がった蜂蜜”ってなった瞬間、ただの甘味じゃなくなる」
そして、少し身を乗り出した。
「それに、盛胤様には言わなかったけど、……うちの蜂蜜って、ただ山で偶然取れるものじゃないよね。人の手で、毎年きちんと採れるようにした仕組みでしょ。少なくとも、俺は、そんなことをしてる話、他では聞いたことがないよ」
その言葉に、空然の眉がぴくりと動く。確かに今までは、山で偶然見つけた巣を壊し、奪うだけだった。
育て、増やし、繰り返し採る。それは今までの蜂蜜とは別物である。
「つまり、あれは“珍しい甘味”じゃなくて、新しい生業なんだよ」
貴丸はそこで胸を張った。
「だから、帝に認めてもらう。そうすると箔が付く。“帝も認めて召し上がった蜂蜜”ってなれば、京の商人はもちろん、この日の本中の商人が勝手にありがたがる」
そして、へらへらと笑う。
「たぶん飛ぶように売れる。ウヒヒヒっ」
あまりにも俗っぽい笑みに、慶久は呆れたように額を押さえた。だが同時に、否定もできなかった。
この童は、本気でそれを実現しそうな気配があるのだ。
貴丸はそこで、にたぁ……と実に嫌な笑みを浮かべた。
「たとえば、その“帝が口にした蜂蜜”ってだけでさ」
そう言いながら、指を一本立てる。
「今までの蜂蜜より、一つ売るごとに一文だけ高く売れるとするでしょ?」
慶久が怪訝そうに眉をひそめた。
貴丸は構わず続ける。
「でも、それが一年で何千個も売れる。しかも毎年毎年ずっと売れる」
そして、両手をゆっくり広げた。
「そうすると、“たった一文”がどんどん積み上がるんだよ。塵も積もれば山となる、ってやつ」
そこまで言って、へらへらと笑う。
「そのうち富士の山より大きくなるかもしれない」
完全に商人の顔だった。
空然は思わず目を細め、慶久は額を押さえる。どう考えても武士の嫡男の発想ではない。
だが同時に――妙に説得力があるのが腹立たしかった。
だが、貴丸はそこでふっと笑みを消した。
「……でも、本当に欲しいのは、その先なんだよ」
部屋の空気がわずかに変わる。
先ほどまでの軽薄そうな笑みが引き、貴丸は膝を抱えるように座り直した。その横顔を、夕暮れの赤い光が薄く照らしている。
「うちの領、米を減らしたでしょ」
慶久が静かに頷いた。
確かに、大和田では雑穀や豆を増やしたことで、以前より民は飢えにくくなった。腹を空かせる者も減り、冬を越えられぬ家も極端に減っている。
だが、その代わり――税としての価値は落ちた。
雑穀は米ほど高く売れない。つまり、民は助かっても、領の銭は増えぬのだ。
「このままだと、大和田はずっと貧乏領のままだと思う」
貴丸はぽつりと言った。子供らしからぬ声音だった。
「だから、米以外で金になる物を作らないといけない。しかも、領主が取り仕切ってね」
そして指を折る。
「蜂蜜と蜜蝋。胡麻や木綿、それに焼き物。あと、もう一つ考えてるのが――薬」
空然の眉がわずかに動いた。
「薬、でございますか」
「うん。この辺の山や野に生えてる草でも、たぶん色々できると思うんだよね。ゲンノショウコ、ドクダミとか、センブリ、葛の根とか、あ、薄荷もある意味、薬だね」
貴丸は宙を見る。
まるで頭の中にある曖昧な記憶を手探りで掴もうとしているようだった。
「煎じて飲ませたり、飴に混ぜたり。蜜蝋に混ぜれば塗り薬にもなると思うんだ。あと、丸めて蜜蝋で包めば長持ちも、しそうなんだよなぁ」
空然が思わず黙り込む。
慶久は片手で額を押さえ、大きく息を吐いた。また始まった――そんな顔である。
だが貴丸はまるで気にしない。
「まあ、自分も確証はないんだけどね。でも、腹痛とか、咳とか、傷とか、熱を下げるくらいなら、たぶんいける気がする」
そう言って、指先で床を軽く叩いた。
「だから今回の京行きで試してほしい」
「試す?」
「うん。船旅って長いでしょ? 絶対、腹壊す人とか、風気引く人とか、傷のある人とか出ると思うんだよ。特に海上は水も食べ物も悪くなるしね」
なるほど、と空然が低く呟いた。
確かに長い海路では病が出る。水は傷み、人は冷え、塩気の強い食ばかり続けば体も弱る。
「それに京なら、公家もいるし、商人もいるし、金持ちもいる。もし効けば、評判になるかもしれない」
そこまで言ってから、貴丸は少し真顔になった。
「あと、本当は薬師が欲しい」
「薬師?」
「自分のは我流だから。本物の知識がないんだよ。どの病に何を使うとか、どう薬を合わせるとか、そういうのをちゃんと知ってる人が必要だと思う」
そして、当然のように続ける。
「京って薬師の本流でしょ? だから誰か見繕って捕まえて連れてきてもらいたい」
空然が思わず苦笑した。
「見繕ってとは参りませぬが……考えとしては間違っておりませんな」
そして静かに頷く。
「薬だけあっても、病に合わせ処方できねば意味はありません。診る者がおってこそ薬は活きます」
「でしょ?」
貴丸は満足そうに笑った。
「だから京へ行ってもらう。蜂蜜を売るためでもあるけど、本当は、“金になる薬”と、“薬を扱える人”を探しに行くんだよ」
慶久はしばらく黙っていた。
夕風が障子を揺らす。
その静けさの中で、ぽつりと口を開いた。
「……なぜ、貴丸がそのようなことを知っている」
貴丸はいつものように首を傾げた。「なんとなく?」
そんなわけがあるか――と言いかけて、慶久は口を閉じた。
今まで何度も、その“なんとなく”で救われてきたのだ。
訝しさは消えない。だが同時に、否定もしきれない。
慶久は大きく息を吐き、乱暴に頭を掻いた。
言いたいことは山ほどある。だが、もはや今さらだった。
やがて外から宴の支度を知らせる声が聞こえ始め、一行は重い話をいったん打ち切り、今夜の宴へ向け支度を始めるのだった。
相馬盛胤の「従四位下大膳大夫」は、本作では自称として扱っています。
正式叙任を示す確実な史料が確認できないためです。
風気:風邪のこと。
この貴丸の文章中にも、当時は使われない言葉が散見しますが、
慶久も空然も”まぁ、貴丸だから”で、スルーしています。
利用→使う・用いる。
確証→証・裏付け。
事実・偶然・関係はあまり当時は使わない言葉でしょうかね。
まぁ、フィクションなので、分かりやすさ優先にしています。




