第82話 出会い
桑折治部少輔忠家の館では、その夜、随分と歓待を受けた。
無事にこの地にも八田屋を通じて請戸漬けが定期的に届いているらしく、その評判はかなり良いようだった。特に奥方の懸田殿が気に入っているらしい。
「あの味が届くようになってから食が進みまして、なにやらふっくらとした心持ちがいたします」
そう機嫌よく笑っている。しかも前回の滞在で、貴丸は懸田殿とも忠家とも妙に打ち解けていた。
そのせいか、この夜の席では、むしろ慶久の方が少し所在なさげになるほどだった。
もっとも。
その場の空気から察するに、どうやらこの地には、まだ富岡の城取りの詳しい話までは届いていないらしかった。
貴丸は、杯を持ったまま、内心そっと安堵する。
――よかった。正直なところ、あまり大仰に騒がれたいわけでもない。
ただでさえ面倒事は勝手に寄ってくるのだ。
これ以上、“妙な童が城を落とした”などと広まれば、ろくなことにならぬ気しかしない。
その脇では、空然がそんな慶久を見て苦笑している。
囲炉裏の火が静かに揺れ、酒が進むにつれ、自然と話の中心も貴丸へ移っていった。
貴丸は焼き魚をつつきながら、いつもの調子で妙な話を次々と口にする。
旅人に聞いた与太話。河童がどうの、天狗がどうの。
どこまで本当でどこから嘘か分からぬ話に、忠家も懸田殿も何度も声を上げて笑っていた。だが、その流れのまま、貴丸はふと語り口を変えた。
先ほどまでの軽さを少しだけ落とし、静かな調子で話し始める。
酒で身を持ち崩した魚屋の男。支える女房。拾った大金。そして――夢のような一夜。
囲炉裏の火がぱちりと鳴る。誰も口を挟まない。
貴丸は淡々と、けれど不思議と情景が浮かぶように語っていく。
そして最後に、静かに締めた。
「女房が、“さあ、久しぶりにお酒を”と勧めたようでございますがな」
そこで貴丸は、杯を持つ仕草をしてから、ぴたりと止めた。
「政は、しばらくその酒を見て――こう言ったそうでございます」
少し間をおいてから、「……よそう。また夢になるといけねえ」静かに視線を上げる。
「――お後がよろしいようで」しん、と場が静まった。
囲炉裏の火の音だけが小さく響く。
そして次の瞬間。懸田殿が、ほろりと涙を零した。
「……なんとまぁ……」
忠家も目元を押さえ、空然ですら静かに目を伏せている。
そして。貴丸のすぐ横では、慶久がなぜか大号泣していた。
「うぉぉぉぉぉ……っ。良い話ではないかぁ……!」
鼻水まで垂らしている。
「親父様、泣きすぎ」
貴丸が若干引き気味に言うが、慶久は止まらない。
空然が横で肩を震わせていた。
しばらく余韻が続いた後、懸田殿が涙を拭いながら笑う。
「貴丸様は、本当に面白うございますねぇ」
忠家も深く頷いた。
「まことに。あれほど妙な話を次々と出しておきながら、最後には人をほろりとさせるとはのう」
当の貴丸は焼き魚を頬張りながら、
「いやー、それほどでも………ありますが」と適当に返している。
そのたびに懸田殿がころころと笑った。
慶久は酒を飲みながら、なんとも言えぬ顔をしていた。
――私が主ではなかったか?
そんな顔だった。
夜更けまで穏やかな時間が続き、一行はそのまま館で一夜を明かした。
そして翌朝。
まだ朝靄の残る中、館では温かな米に焼き魚、汁物、漬物まで用意されていた。
戦国の旅路としては、驚くほど穏やかで落ち着いた朝だった。
食事を終えると、一行はそのまま出立の支度を整える。
馬へ荷を括りつけ、供の者たちが慌ただしく動く中、懸田殿はわざわざ門前まで見送りに出てきた。
特に貴丸へ向ける視線が妙に名残惜しそうである。
「帰りも、必ずお寄りくださいませ」
「絶対に帰りも懸田殿のお顔を見とうございますなぁ」
貴丸が素直に喜ぶと、懸田殿は嬉しそうに目を細めた。
「約束ですからね?」
「分かりました」
半ば本気で約束を取りつけるような勢いだった。
その横で慶久と空然は、小さく苦笑する。
どうにも最近、自分より貴丸の方が各所で気に入られている気がする。
そんなことを思いながら、一行は朝靄の街道へと馬を進めていくのだった。
それも街道へ出ればすぐに土埃と馬の匂いへ飲まれていく。
秋の空は高く澄み、乾いた風が野を渡っていた。
道中には刈り取りを終えた田が広がり、束ねられた稲があちこちで積まれている。農夫たちが忙しなく動き回り、遠くでは脱穀の音まで聞こえていた。
そうして昼前。
ついに相馬中村城の姿が見えてくる。
平地に築かれた城でありながら、その威容は周囲の町並みを圧していた。幾重にも巡らされた堀が秋空を映し、水面の向こうには土塁と柵、そして櫓が見える。城下へ近づくにつれ、人と荷駄の数も増えていった。
武士。商人。百姓。行商。荷を背負った女たち。城下へ入る者と、外へ出る者が入り乱れ、活気と緊張が同居している。
貴丸は馬上からそれを眺めながら、ぼんやりと思った。
――やっぱ城ってテンション上がるよな。
もっとも、顔には出さない。いや、半分くらいは出ていたかもしれない。
そんな中だった。
堀端の柳のそばに、一人、小さな子供がしゃがみ込んでいた。
着ているものは粗末だが、百姓の子とも少し違う。袖は煤で黒ずみ、足袋も泥に汚れている。年は十かそこらだろうか。
だが、その顔には大きな痣があった。頬が赤黒く腫れ、目元まで少し腫れている。
その子は堀の水面を見ながら、ぽろぽろと涙を零していた。
貴丸はそれを見て、慶久の手綱を緩めてもらう。
「……お、小僧。なんで泣いてるんだよ。どうした?」
気軽な調子だった。
すると、その子供はびくっと肩を震わせ、慌てて袖で涙を拭った。
だが次の瞬間、唇を尖らせる。
「わ、私は小僧じゃないもん……」
その声で、貴丸は目を瞬かせた。
よく見れば、髪は短く切られているが、顔立ちはどこか柔らかい。煤で汚れているせいで分かりづらいが、女の子だった。
貴丸は「あっ」という顔をする。そして慶久から馬から下ろしてもらい、その子供の前に行く。
「めんごめんご」
「……別にいいけど」だが、その目にはまだ涙が残っていた。
慶久たちは少し先で馬を止め、馬から降りて一応は待っていてくれる。とはいえ、ここは相馬中村城の目前だ。長々と立ち止まるわけにもいかなかった。
貴丸はその子の顔を覗き込んで声をかける。
「で、なんで泣いてたんだ?」小さな肩がびくりと震える。
少女はしばらく堀の水面を見つめていたが、やがて諦めたようにぽつぽつと話し始めた。
「父ちゃん、美濃の人だったの」
貴丸が問う。「美濃?」
「戦で窯が駄目になって、みんなで北へ流れてきたんだって」
戦や飢饉で窯を失い、西から流れ流れて奥州まで来た職人たちだった。本来は伊達領を目指していたらしいが、途中で相馬の重臣に声をかけられ、この地に窯を開いた。
少女の父も、その一人だった。そして相馬の百姓娘だった母と、この地で夫婦になった。
「……それで、私が生まれたの」
少女はそう言って、袖で鼻を擦る。
父は窯焚きの職人で、幼い頃から志乃は窯場で育ったらしい。
土を捏ねる音。轆轤の回る音。薪の爆ぜる匂い。焼き上がった器の色。
それを見ながら育った。
「父ちゃん、忙しいくせに、私にはいろいろ教えてくれたの。土の見方とか、火の色とか、釉の混ぜ方とか……」
そこで少しだけ目元が和らぐ。
だが、その顔がすぐ曇った。
三年ほど前。熱病だった。
まず母が倒れ、その後を追うように父も死んだ。
残された少女は、そのまま窯場の職人たちに引き取られたそうだ。
最初の二年ほどは、まだ良かったという。
死んだ父の縁もあった。飯も食わせてもらえた。寝る場所もあった。
だが、年月が経つにつれ空気が変わっていった。
戦国の世だ。余裕などない。そこで少女は唇を噛む。
「女だし、子供だし、飯だけ食うって……最近は、役立たずは働けって」
今では毎日、薪運び、水汲み、灰捨て、飯炊きばかりだという。
窯場の雑用。手と顔は煤と土で荒れ、小袖も灰で黒ずんでいる。だが、それでも少女は焼き物が好きだった。
「私、一通りできるの。土も見れるし、窯焚きも分かるし、釉だって混ぜられる」
その声だけは、少し強かった。そこで悔しそうに顔を歪める。
「でも、女は駄目だって。轆轤なんか触るなって」
吐き捨てるようだった。
そこで貴丸が、少女の頬の痣へ目を向ける。
「……それ、どうしたの?」
志乃は一瞬黙った。そして、小さな声で言う。
「今朝……みんな起きる前に、こっそり轆轤回したの」
その言葉に、貴丸の眉が少し動く。
「そしたら見つかって……女が職人の真似するなって」
少女は俯く。殴られたのだろう。
だから家を飛び出してきた。悔しくて。悲しくて。
でも一番は、多分――焼き物を触らせてもらえなかったことだろう。
貴丸は黙ってその顔を見ていた。
それから視線を落とす。小さな手だった。だが指先には、確かに土を捏ね続けた者特有の荒れがある。
遊びではない。本当に覚えてきた手だ。
そこで貴丸が聞く。
「名前は?」
少女は少し顔を上げた。
「……志乃………田代志乃」
「……田代っていうのか」
どこかで聞いたような、聞いていないような苗字だな、とぼんやり思う。
少女は袖で涙を拭いながら、ぽつりと言った。
「お父は、美濃国池田郡の人だったって聞いた。豪族の三男だったけど、陶工になって……それで、こっちへ流れてきたって」
戦や飢饉で窯を失い、西から流れてきた陶工集団。その中の一人が父だったらしい。
貴丸が「へぇ」と相槌を打った、その時だった。
「志乃ちゃん!」向こうから慌てた声が飛んでくる。
見ると、一人の若い男がこちらへ駆けてきていた。
痩せた男だった。煤で黒ずんだ小袖に、細い身体。年は十五、六ほどだろうか。
だが何より目を引いたのは、その片腕だった。
左腕が肘から先、なかった。
男は志乃の前へ来ると、庇うように前へ立ち、警戒した目で貴丸を睨む。
「お前、志乃ちゃんに何した!」
だが志乃が慌てて首を振った。
「ち、違うの源吾さん。この人、私が泣いてたから心配してくれただけ!」
「……え?」
源吾はそこでようやく状況を理解したらしい。しばらく固まった後、気まずそうに頭を掻いた。
「……す、すまん」
貴丸は別に気にした様子もなく、
「いや、普通そうなるよね」
と笑う。
そこで志乃が説明した。
源吾は幼い頃、野盗に襲われて腕を失ったのだという。その後、この陶工の家で下男として働いているらしい。
薪を割り、水を運び、窯の掃除をし、重い荷を背負う。
片腕でも働ける仕事を必死にやっているのだ。
貴丸は二人を見た。志乃も。源吾も。
どちらも煤で真っ黒だった。
痩せている。着物も擦り切れていた。
――ああ。
ここでの扱い、あんまり良くないんだろうな。
貴丸はぼんやりと思う。
そして、ふと志乃へ視線を戻した。
それから、不意に聞いた。
「もし、この地を離れても、焼き物やりたい?」
その瞬間だった。
志乃の顔が変わる。泣いていた目が、一気に強くなる。
「やりたい!」
即答だった。
「どこでもいいから、焼きたい!」
迷いがない。その言葉だけは真っ直ぐだった。
貴丸はその熱を見て、少しだけ目を細める。
そして今度は源吾を見る。
「じゃあ、源吾は?」
突然話を振られ、源吾はきょとんとした。
「俺?」
「うん。何したい?」
源吾は少し考え、それから照れ臭そうに笑った。
「……俺は、毎日ちゃんと働いて、腹いっぱい飯が食えりゃ、それでいい」
その言葉に、志乃が少しだけ俯く。
たぶん、それすら簡単ではないのだ。だが源吾は、それでも笑っていた。
貴丸は二人を見て、小さく笑う。
「そっか」
そして、どこか楽しそうに言った。
「じゃあ、縁があったら、そのうちまた会えるかもな」
志乃はきょとんとする。
源吾も「?」という顔をしていた。だが、その時にはもう慶久の声が飛んできた。
「貴丸。行くぞ」
「ほーい」
貴丸は軽く返事をし、慶久が馬の手綱を引く。
馬がゆっくりと動き出した。その背を、志乃はしばらく呆然と見送っていた。
秋風が堀の水面を揺らす。
源吾がぽつりと呟く。
「……変な奴だったな」
志乃は答えなかった。
ただ、胸の奥だけが、妙に熱かった。
貴丸が話したのは、落語『芝浜』です。
少女の姓はそう、、『田代』さんですね。
相馬出身だと分かるかな?きっとあの人の、、祖母とかなんでしょうかね。。
で、当然ですが、この小説はフィクションです。
ある程度、歴史上の人物を元にはしていますが、
実在の人物や団体などとは関係ありません。




