第81話 泉田領
大和田領の北、その境を横切るように流れる請戸川は、秋晴れの空を映して静かに光っていた。
澄んだ流れの向こうには黄金色へ染まり始めた田が広がり、刈り取りを終えたばかりの稲束が、あちこちで円錐のように積まれている。
風は冷たさを帯び始めているが、陽はまだ柔らかく、馬の吐く息も白くなるには少し早い――そんな季節。
その川を渡れば泉田領。
泉田右近大夫胤清。標葉郡泉田郷を預かる男であり、請戸の北に居を構えながら、大和田の動きを隣から見続けてきた家でもある。
その泉田家は、かつて標葉氏に仕えていた。だが胤清の父・泉田隆直は、相馬と標葉が争った折に主家を裏切り、それが決定打となって標葉は滅びた。
大功を立てた隆直には、相馬盛胤より「胤」の一字と、相馬一族に準ずる証として“繋ぎ駒”の幕紋が与えられている。
それゆえ泉田家は、相馬家中でも成り上がりながら重きを成す家だった。
請戸川を越えて少し進んだ時だった。乾いた怒声が風に混じって届く。
道脇の小さな農家の前ではなかった。一家はちょうど、刈り取った米を乙名の蔵へ納める途中だったのである。
痩せた馬に引かせた小さな荷車。その上には俵がいくつも積まれていたが、量は決して多くない。むしろ、これで一家が冬を越せるのかと不安になるほど少なかった。
農夫は、その荷車の前へ這うようにして縋りついている。
「お願いにございます……! これを持っていかれては、私たちは食べていけませぬ……!」
日に焼けた背中が小刻みに震えていた。土に擦り付けた額は泥に汚れ、指先には長年鍬を握ってきた百姓特有の深い割れが刻まれている。
その後ろでは、妻が泣きながら俵へ覆い被さるようにして守っていた。さらにその背後には、娘と幼い弟が怯えた顔で立ち尽くしている。
武士たちは、その荷車を半ば囲むように立っていた。
一人は俵を槍の柄で小突き、もう一人は帳面を広げながら鼻で笑う。
「臨時徴収だと言っておるだろう。乙名へ納める前だからこそ、ここで改めておるのだ」
だが、その目が見ているのは俵だけではなかった。
その娘。年は十四ほどか。
農家の娘にしては妙に肌が白い。日に焼けていないというより、元の肌の色そのものが薄いのだろう。粗末な麻の小袖を着ているが、顔立ちは整っており、まだ幼さを残しながらも、ふとした角度で妙に目を引くものがあった。
怯え切った顔で唇を噛み、震える手で母の袖を握っている。
その姿を見た瞬間、慶久は心の中で小さく舌打ちした。
――ああ、なるほど。税ではない。少なくとも、最初からそれだけではないだろう。
こういう領境の曖昧な場所では珍しくない。臨時徴収だの不足分だのと難癖をつけ、払えぬとなれば娘を“奉公”へ出させる。そしてそのまま戻らぬことも多い。
慶久の目が僅かに細まった。だが同時に、ここが泉田領であることも理解している。
下手に踏み込めば、それはそのまま境争いの火種になりかねなかった。
対する武士は五人。一人は帳面を持ち、もう一人は俵を改めるふりをしている。だが、残りは完全に威圧役だった。腰の刀をわざと見せつけるように、農家の土間を勝手に踏み荒らしている。
その中央にいる小柄な男が、鼻で笑った。
「だから申しておるであろう。これは臨時徴収だ。泉田様の御下知である」
「ですが、村納め分は乙名様の蔵へ……!」
「知るか。戦が近いのだ。兵糧も馬料もいる。払えぬなら、別の形で納めよ」
男は吐き捨てるように言った。そう言って、男の視線が娘へ向く。
男はにやりと笑う。
「ならば娘を奉公へ出せ。借りとして預かってやる」
娘が息を呑み、母が悲鳴のような声を上げた。
「お、お待ちください……! それだけは……!」
「黙れ」男は娘の腕を掴み、無理やり引きずり出そうとする。
そこで、貴丸がぽつりと呟いた。
「……なんか、ドラマみたいだな」
だがその目は笑っていない。
そしてふと慶久を見上げた。
「親父様。徴税って、普通は村請で乙名の蔵とかに入れるんじゃないの?」
慶久は馬上から視線だけを向け、小さく頷いた。
「本来はそうだ。刈り取りの後、村でまとめて、乙名や名主の管理する蔵へ収める。道中で突然調べるなど、あまり褒められた形ではないな」
「ってことは、あれ怪しくない?」
慶久は低く答える。
「……怪しいな。だが、境の村ではよくあることだ。小代官や徴税請負が、“臨時徴収”の名目で勝手に上乗せする。だがここは泉田領。私が強く出れば越権になるのだ」
そう言って手綱を引こうとした、その時だった。
「ぎゃっ――!」鈍い音と共に、農夫が蹴り飛ばされた。
小代官らしき男が、地面に転がる父親を見下ろしながら鼻で笑う。
「払えぬなら最初からそう言え。貧乏百姓が」
後ろの武士たちも下卑た笑いを漏らす。一人は刀を半ば抜き、銀色の刃をちらつかせながら子供へ向けて威圧していた。
娘は泣き叫びながら引きずられていく。
慶久の顔が険しく歪む。貴丸もまた眉を寄せた。
だが――ここはもう泉田領だ。
大和田が勝手に裁けば、それこそ揉め事になる。
そう思った、その時。
「……」
空然が、静かに馬を降りた。僧衣の裾が風に揺れる。
そのまま真っ直ぐ歩み寄り、静かな声で告げた。
「御無体はやめなされ。まずは話し合われてはいかがか」
刀を抜いていた武士が、じろりと空然を睨む。
「なんだ坊主。説法なら寺でやれや」
そう言って威圧するように歩み寄る。
そこで慶久も馬上から声をかけた。
「待たれよ。まずは刀を納められよ。私は隣領の大和田玄蕃之丞慶久。泉田殿とも幾度かご挨拶した仲だ。ここは穏便に――」
だが、別の武士が鼻で笑った。
「隣領だと?」
男は刀を肩に担ぎ、露骨に見下した目を向ける。
「ここは泉田領ぞ。口出し無用。それに大和田など、所詮は境の土豪ではないか」
その口調には、泉田の家臣としての驕りが滲んでいた。
「こちらは泉田様――いや、相馬家重臣のご一門ぞ?」
慶久の顔がわずかに強張る。
その瞬間だった。
刀を肩に担いでいた男が、見せつけるように農夫の腹を蹴り上げた。
呻き声が響く。
そして娘の腕を掴み直し、再び引きずろうとした。
空然の目が細くなる。
次の瞬間、その手首を掴んでいた。
「な――」
武士の声が変わる。
空然は静かな顔のまま、その腕を外へ流すように捻り上げた。関節が悲鳴を上げ、男が膝を折る。
「この野郎っ!!」
同時に別の武士が掴みかかる。だが空然は捻り上げた男を蹴り飛ばし、その反動で半歩ずれた。
次に来た武士の顔面へ、掌底が鋭く突き上がる。
鈍い音。武士は白目を剥いて後ろへ転がった。
「て、てめぇ!」
残る三人が一斉に抜剣する。
しかし空然は慌てない。
するり、と。まるで流れる水のように刃を躱し、懐へ潜り込む。
鳩尾へ拳。顔面へ肘。膝裏を払う。そしてその最後の一人には、踏み込みと同時に顎を蹴り上げた。
武士が地面へ転がる。
あまりに一瞬だった。
慶久も貴丸も、思わず呆然とする。
普段の空然は、穏やかで、どこか飄々としている。だが今そこにいたのは、明らかに場数を潜った武人だった。
空然は静かに息を吐き、怯える農夫一家へ向き直る。
「早くお逃げなさい」
その声だけは、先ほどまでと同じ柔らかさだった。
「また同じことが起きるやもしれぬ。もし困窮するなら、大和田領へ参られよ。食うに困ることまではさせぬだろう」
農夫一家は震えながら何度も頭を下げる。
その間にも、倒れた武士たちは呻きながら空然を睨んでいた。
そして貴丸は、その視線を見ていた。
――ああ、これ絶対あとで面倒になるやつだ。
幼い顔のまま、そんなことを思うのだった。
そして、腕を押さえながら立ち上がった小代官が、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「お、おぼえてやがれ!!」
そう捨て台詞を吐くと、武士たちは慌てたように仲間を抱え、逃げるように去っていった。
その背を見送りながら、貴丸はぽつりと思う。
――なんで悪役って、みんな同じこと言うんだろ。
そんな場違いな感想だけが、頭に浮かぶのだった。
空然が逃げ去った武士たちを一瞥してから静かに踵を返す。秋風が僧衣の裾を揺らし、そのまま慶久たちの元まで戻ってくると、空然は深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました。これで大和田家にご迷惑をおかけするやもしれませぬ」
その声には、本気の後悔が滲んでいた。
空然自身、分かっているのだ。
あれはただの喧嘩ではない。泉田領で、泉田方の役人を叩き伏せたのである。
しかも相手は、相馬家重臣に連なる家の名を笠に着ていた者たちだ。後々、どのように話を盛られるか分からない。
慶久もまた、それを理解していた。だからこそ、すぐには言葉が出なかった。
しかし、その沈黙へ割って入るように、貴丸が口を開く。
「いや、くうちゃん、よくやったよ」
あっけらかんとした声だった。
空然が顔を上げる。
貴丸は馬上から小さく肩をすくめていた。
「あと少し遅れてたら、親父様が手を出してたでしょ? そうなったら、もっと大事になってたと思うんだよね。だから未然に防いでくれてありがと。ね? 親父様」
不意に話を振られ、慶久は一瞬だけ言葉を止めた。
慶久は一度息を吐き、飲み込みかけた言葉を変える。
「……うむ。空然殿、礼を申す。拙者では、立場上できぬことをしてくださった」
そう静かに言った。
空然は少し目を見開いた。それから、ゆっくりと頭を下げる。
だがその視線は、ちらりと貴丸へ向く。
貴丸はというと、にやり、と悪戯っぽく笑っているだけだった。
――この子は、本当に年相応なのか。
そんな思いがまた脳裏を過る。
すると当の貴丸は、空気を変えるように明るい声を出した。
「いやー、それにしても、くうちゃん強いんだねぇ」
両手をぱたぱたさせながら続ける。
「あんな強いとは思わなかったよ。なんか、するする避けて、ぼこんぼこん倒してたし。しかも、くうちゃんって、スラッとしてて格好良いんだよなぁ」
そう言ってから、自分の腹をぽんと叩いた。
「それに比べて俺なんて、ぬらっとしてるだけだし」
「ぬらっと、とは何ですか……」
空然は思わず苦笑した。
慶久も呆れたように息を吐く。
つい先ほどまで、張り詰めていた空気が少しだけ和らいでいた。
だが同時に、あの小代官達の去り際の視線の重さを、誰も忘れてはいなかった。




