第67話 戦10-03〈結衣視点〉
宴は、はじめから賑やかだったわけではない。
急ごしらえの席である以上、整えられた形式の下にも、どこか探るような気配が残っていた。大和田の家臣と富岡の家臣。つい先程まで戦をしていたのだ。
当然、杯を手にしても言葉は慎重に選ばれ、笑いもどこか控えめで、場には薄い緊張が張り付いていた。
その中で、結衣は静かに座していた。衣擦れの音すら控えめに、姿勢を崩さぬまま周囲の流れを見ている。
やがて、父――隆時が口を開いた。
「結衣、見事なものよ。よう似合うておるぞ」
その言葉に、場の視線が一斉に集まった。貴丸と目が合った瞬間、貴丸の表情が止まる。ぽかんと口がわずかに開いたまま、視線が動かない。
隆時がそれを見逃すはずもなかった。
「ほう。貴丸殿、結衣に身惚れたか」
軽く笑いを含ませた声音に、貴丸は一拍遅れて答えた。
「……はい」
素直すぎる返答だった。一瞬、間が空き、それから場に小さな笑いが広がる。結衣の頬も、ふっと熱を帯びた。
「これはよい組み合わせであったな。元伯殿、うまくいきそうだわい」
隆時が満足げに言えば、元伯も静かに頷いた。
促され、結衣は貴丸の隣に座った。距離は近い。わずかに視線を向けると、貴丸は慌てて目を逸らし、耳まで赤く染めていた。その様子が妙に可笑しくて、結衣はほんのわずかに首を傾け――ふっと、片目を閉じた。
一瞬の仕草だった。だが、貴丸はそれだけで完全に固まる。次の瞬間にはさらに顔が赤くなり、視線が宙を彷徨った。結衣は小さく口元を隠し、忍び笑う。
そのわずかな緩みが場に伝わり、誰かが杯を掲げ、別の誰かが声を張った。やがて、標葉衆の面々が空気を和ませ始めた。
最初に笑いを大きくしたのは彼らだった。遠慮のない声、遠慮のない飲みっぷり、そして遠慮のない話しぶり。気づけば富岡の家臣たちの中へと入り込み、肩を叩き、杯を交わしながら笑いを引き出している。
「その戦、どうやって切り抜けたんだ」
「いやいや、それよりそっちの槍筋、見事でな――」
言葉が交わり、笑いが混じる。硬かった空気が、少しずつほどけていった。
やがて隆時が、貴丸へと盃を差し出した。
「婿殿も、どうじゃ。一杯」
「……未成年なので」
隆時が首を傾げる。
「未成年とは何だ?」
すかさず元伯が横から口を挟んだ。
「この童は、時折わからぬ言葉を使うでな。気にせぬがよい」
「なるほどな。まあよい、元服前なのは承知しておる。一杯だけでよい」
押される形で、貴丸は盃を受けた。
「では……一杯だけ、で」
最初に注がれたのは奈良酒だった。甘みのある香りが立ち、口に含めば柔らかく広がる。
「……あ、美味いな」
思わず感想が漏れる。それを見た隆時が、さらに酒を勧めた。次は練酒。こちらはより濃く、甘味も強い。
「これは……飲みやすいですね」
気づけば、貴丸は断りきれずに盃を重ねていた。
その頃には、場はすっかり変わっていた。誰かが立ち上がって幸若舞を始めると、手拍子が自然と揃い、足音が重なり、声が上がる。はじめの緊張はもうどこにもなく、歓声が柱に反響していた。
その熱の中で、元伯が低く声をかけた。
「……貴丸、そろそろやめておけ」
「ふぁい……そりょそりょ……やめまする……」
すでに貴丸の舌は回っておらず、身体もわずかに揺れている。だが、場はそれを許さなかった。隆時が笑いながら声をかける。
「貴丸殿も、何かひとつ。場が温まっておるでな」
貴丸が横を見ると、結衣が期待を隠さぬ目で見ていた。しばし天井を見上げた貴丸は、やがてふらりと立ち上がった。
「……じゃあ、手拍子を」
ぱん、ぱん、と手を打つ。最初はまばらだった音が、やがて揃い、ひとつのリズムになっていった。
貴丸が声を張る。
「たかまるの“た”の字は、どう書くの?」
一瞬の間が空いた。貴丸はくるりと背を向け――腰を振りながら叫んだ。
「こうやって、こうやって、こう書くの!」
場が一拍遅れて爆発した。笑いが弾け、手拍子が一気に大きくなる。
「もう一つ!」
「次だ次!」
囃し立てる声に応え、貴丸はふらつきながらも続けた。尻文字は次々と形を変え、笑いは止まらない。ちらりと結衣を見ると、彼女は口元を隠しながら肩を震わせていた。隆時も腹を抱えて笑っており、場は完全にひとつになっていた。
だが――その熱とは裏腹に、貴丸の視界は揺れていた。足元が定まらず、音が遠くなる。それでも、笑い声だけはやけに鮮明だった。
――そして、その中心で、貴丸はまだ笑われていた。
隆時は、まだ笑いの余韻を含んだまま盃を揺らし、満足げに言葉を置いた。
「婿殿、なかなかの芸を持っておるな。実に盛り上がった。……ほかにも、何ぞあるまいか」
その一言に、元伯の眉がわずかに動いた。嫌な予感が、骨の奥で軋む。
「貴丸、もうよい。座れ。やめておけ――やめよ。絶対にやめよ」
低く、短く、三度。そして、最後には『絶対に』まで付いていた。
だが、当の貴丸はふらりと首を傾げ、妙に納得したように頷いた。
「……やめろが三つ、そして絶対ってことは……やれってことだよな……」
次の瞬間、すっと立ち上がる。足取りは危ういが、迷いはない。そのまま部屋の四隅へと視線を巡らせ、蝋燭のある方へ歩き出した。
元伯が腰を浮かせる。
「待て――それは……」
しかし隆時が、楽しげに手を上げてそれを制した。
「まあよいではないか、元伯殿。ここまで来たのだ、見届けようではないか」
横では、結衣が小さく息を整えていた。
「……はい。貴丸様の御芸、もう少し見とうございます」
頬を染めながらも、視線は逸らさない。
元伯は一瞬だけ目を閉じた。
――もうよい。
止める理は尽きた。あとは成るように成る。婚約が破棄になっても仕方がない。そう諦めに似た静けさで腕を組んだ。
その間に、貴丸は蝋燭の前で立ち止まり――何の躊躇もなく、衣を脱ぎ始めた。帯が解かれ、布が落ちる。あっという間に、ふんどし一枚になった。
場に一瞬、ざわめきが走る。だが、貴丸は止まらない。
左右の蝋燭を一本ずつ手に取り、ゆっくりと振り返った。その目は――酔いに濁りながらも、どこか一点を射抜くように鋭い。
「……結衣タソに捧げる、貴丸珠玉の『オタ芸の舞』――逝きます!」
次の瞬間、空気が変わった。
火が走る。
蝋燭の炎が弧を描き、交差し、跳ねる。腕が振られるたびに光が軌跡を残し、空間を切り裂く。足が踏み鳴らされ、腰が落ち、跳ね、ねじれ、次の瞬間には別の型へ移る。酔っているはずの身体が、異様なほどの切れで動いていた。
最初は、喝采だった。
「おおっ!」
「これは――!」
手拍子が重なり、声が上がる。だが、やがて誰かが口を閉じた。動きが速すぎる。炎が近い。
そして何より――血走ったその目が、笑っていなかった。ただ、ひたすらに何かへ向かっている。
歓声がひとつ、またひとつと消えていく。やがて場は静まり返った。その静寂の中で、貴丸はただ一人、踊り続けていた。
やがて視線が結衣を捉える。まっすぐに、射抜くように見つめたまま、距離を詰めていく。炎を振り、足を踏み、腰を落とし――結衣の目の前で止まった。
「――結衣タソ、めっちゃ、萌え、萌え、きゅん!」
奇声が、静まり返った広間に響いた。
そのまま、さらに舞う。近く、遠く、また近く。実に半刻あまり、誰も止めない。止められない。
最初に笑っていた者たちの酔いは、すでに覚めていた。ただ、異様なものを見る目で、貴丸を見つめている。
やがて動きが一瞬だけ収束した。両手の蝋燭を胸前で揃え、ぴたりと静止する。
「――結衣タソ、萌えぇぇえ!!」
絶叫。そのまま、糸が切れたように膝から崩れ落ちた。どさり、と音が響く。炎が揺れ、沈黙が広がった。
そして、貴丸は満足げに顔を上げ――そのまま、意識を手放した。
完全な静寂の中で、ただ一人、隆時だけが腹を抱えて笑っていた。
「ははははは! まともではないのう、これは!」
その声だけが、やけに明るく響く。
やがて、佐藤刑部が静かに前へ出た。酔いの気配は一切ない。
「……では、これにてお開きに」
短く、端的な言葉。それが合図となった。
家臣たちは波のように動き出し、口々に挨拶を述べながらも、足早に、ほとんど逃げるように退出していく。ざわめきは小さく、誰も振り返らない。
最後に残った佐藤刑部が、苦い顔で貴丸を一瞥し、それから隆時へと頭を下げた。
「……いずれにせよ、その……傑物の婿殿にて。……ようござりましたな」
言葉を濁し、逃げるように去っていった。
元伯は、ゆっくりと結衣を見た。先ほどまでの笑みは消えている。そこにあったのは――何も映さぬ瞳と、人形のような静かな顔。ただ、その奥に、わずかに揺れるものだけが残っていた。
それでも、隆時だけは最後まで愉快そうに笑っていた。
「いやはや……実に、面白い婿殿よ…………な? 結衣? な? おい、結衣……どうしたのだ? 結衣よ……」
そして、あのマーライオンにつながるわけです。。
いつものように蝋燭を振り回すと「危険・すぐ消える・蝋が飛び散って」云々は、、まぁ、見逃してください。
雰囲気ですので。
奈良酒:当時は奈良酒は現代でいうところの「最高級ブランド酒」。
通常は、濁りのある「どぶろく」が主流だったが、奈良の正暦寺他、が作った酒は、圧倒的な品質で戦国大名たちを虜にしていた。東北の大名にとっては畿内にコネクションがないと手に入らないステータスだった。
練酒:奈良酒と並んで、「超・高級」かつ「超・特殊」な酒だった。ドロドロの質感で濃い甘酒のような粘り気がある。
幸若舞:武士の教養として非常に好まれていた。平家物語などの軍記物語に節をつけたもので、織田信長が好んだ敦盛もこの系統。




