第66話 戦10-02〈結衣視点〉
結衣が気づくと、城内で見かけるその小者――貴二郎は、いつも人に囲まれていた。
廊の角を曲がれば、どこからともなく笑い声が聞こえ、気づけばその中心にいるのは、決まってあの少年だった。柔らかな笑みを崩さず、軽やかに言葉を重ねるたびに場の空気がゆるみ、張り詰めていたものがほどけていく。
「まあまあ、そのように肩肘張らずとも。ほれ、少しばかり肩の力を抜かれませ」
「はは……そなたに言われると、どうにも抜けてしまうな」
そんなやり取りを目にするたび、結衣は驚かずにはいられなかった。母の側近として、その厳しさで知られる侍女頭の米が、わずかに目を細めて頷いている。来訪者には容赦なく睨みを利かせる番衆の佐兵衛までもが、口元を緩めていた。
――あの二人が、あのように笑うのか。
胸の内で、小さな驚きが何度も反響する。そして、ふと気づいた。自分の視線が、知らぬ間にその姿を追っているのだ。少しふくよかな体つきに、きちんと整えられた衣。
誰に対しても分け隔てなく向けられる笑み。どこにでもいそうな商人の小者――そのはずなのに、なぜか目が離せなかった。いったん視線を逸らしても、気づけばまた、その姿を探している自分がいた。
やがて、商人の修平が病に伏したと聞いた。侍女が薬を運ぶと言ったとき、結衣は思わず口を挟んでいた。
「……それは、私が参ります」
理由を問われても、うまく答えられなかった。ただ、行かなければならない気がした。それだけだった。
部屋に入ると、貴二郎がいた。寝台の傍らで修平の様子を覗き込むその横顔は、いつもの軽やかさとは違い、どこか静かで真剣だった。
結衣に気づいた瞬間、彼はわずかに目を見開いたものの、すぐにいつもの調子を取り戻した。
「これは……朝露に濡れた花もかくやという。かような折にまで、お運びいただけるとは、なんともはや――」
滑らかに続く言葉を聞いているだけで、胸の奥がくすぐられるような、不思議な感覚が広がっていく。
「お薬を、お持ちしました」
「それはそれは、ありがたきことで。修平様も、これで幾分か楽になりましょう」
軽く頭を下げる仕草も、どこか様になっていた。そのまま何気ない流れで話は戦へと移り、貴二郎が何気なく口にした。
「この城も、安泰にございましょうな」
「……ええ」
自然と、答えは口をついて出た。
「父も兵もおりますし、民もおります。戦で減ることはあっても、いなくなるほどではございません」
「ほう」
「田も畑も残ります。人はいずれまた集まりましょう。ですから……困ることはないかと」
言葉は淀みなかった。教えられてきた通りの答えだったのだ。
「それに、いずれ私は嫁ぐ身にございます。家を守り、夫に恥をかかせぬようにする。それで十分と――」
そこまで言ったとき、貴二郎が小さく声を落とした。
「……そっか」
結衣は思わず息を止めた。顔を上げると、貴二郎の表情から笑みが消えている。
「そういうふうに、教わるよね。こんな世の中じゃ」
声音は軽かった。だが、その目は違う。まっすぐにこちらを見つめ、逃げ場を与えないような眼差しだった。
「いなくなっていいやつって、見たことないな」
結衣は言葉を失った。
「どこ行っても、同じ顔してるよ。死にたくないって顔だ」
「……」
「敵でも、民でも、関係ない。みんな、生きようとしてる」
静かな言葉が、しかし確かな重みを伴って胸に落ちてくる。
「それを『埋まるからいいか』って切るほど、俺は器用じゃないや」
何も返せなかった。胸の内で、何かが音もなくずれていく。
貴二郎はふっと目を伏せると、少しだけ肩をすくめた。
「……まぁ、俺が言うことでもないけどさ。お嬢さんは、そういうの考えなくていい立場なんだしね」
そう言って、いつものように笑った。けれど、その目の奥にほんのわずかな寂しさが残っているのを、結衣は見逃さなかった。
「まことに、御心の清らかなること……これはもう、罪深うさえございますな」
先ほどと同じ調子で、同じ軽さのまま紡がれる言葉。それでも、もう同じようには聞こえなかった。
「……そう、でしょうか」
かろうじて、それだけを返すと、貴二郎はまた軽やかに言葉を重ねた。
「ええ、ええ。かような優しき御方がいらっしゃるなら、この城も安泰にございましょうとも」
言葉はいつもの調子に戻った。だが、結衣の中では何かが変わってしまっていた。
どちらが本当なのだろう。軽やかに言葉を紡ぐ、いつもの姿か。それとも、先ほどの真剣な眼差しか。結衣には分からなかった。ただ一つ、確かなことがある。
――あの目が、離れない。
それまで疑いもしなかった理が、静かに揺らいでいた。教えられてきた言葉と、あの一言とが胸の奥で噛み合わず、わずかな痛みを残している。
そして、貴二郎が部屋を去ろうとしたときだった。静かな声だった。
「……今夜は、慌てない方がいいよ。大丈夫だから、ってこと」
余計な飾りはない。ただ、言葉だけがまっすぐに紡がれた。けれど、次の瞬間には、もういつもの笑みに戻っていた。
「案じ過ぎれば、身の毒にございますぞ」
冗談めかして肩をすくめる貴二郎を見送り、結衣はただ一礼した。その場を離れてからも、思考はまとまらなかった。教えられてきた理が揺らぎ、「いなくなってもいい人などいない」という言葉と、あの真剣な眼差しだけが胸に残り続けていた。
結衣はこれまで、兄に頼み込んでは古い軍記物や歴史の書を読んでもらっていた。だが、それらはほとんどが戦の話ばかりだった。誰が裏切り、誰が討ち取り、どの家が滅んだのか。
そうした話なら知っていても、国をどう治めるのか、民をどう生かすのかという視点から語られたものには、ほとんど触れたことがなかった。
その方面の知識は、母から教えられたものがすべてだった。武家は高貴であり、民とは違う。女は家を守るもので、政に口を出すべきではない。そう教えられてきたからこそ、貴丸の言葉は結衣にとって衝撃だった。
身分でも家柄でもなく、誰ひとり不要ではないと言い切ったあの考え方は、結衣の知る理から、あまりにも遠かった。
そして今、父に問われたあの瞬間のことを、結衣は何度も思い返していた。
「……結衣。先ほどから、お前だけが取り乱しておらぬな。どうしたのだ」
広間の空気は張り詰めていた。城を落とされたばかりの場にふさわしい、重く沈んだ静けさが漂い、視線が集まる中、誰もが言葉を探していた。その中で、ただ一人、名を呼ばれたのが結衣だった。
そのとき、胸の奥で何かがほどけたような感覚があった。
そして――
「……この貴丸様の、嫁になりとうございます」
言葉は、驚くほど滑らかに口をついて出た。考えたわけではない。選んだわけでもない。ただ、そこにあったものが、そのまま形になったのだ。
言い終えた直後、心臓が大きく跳ねた。
(……なぜ、私は……)
遅れて熱が頬へと上がっていく。今になって、口にした言葉の重さが押し寄せてきた。思い返すだけで、胸の奥がきゅっと締まるようだった。
だが、それでも止まらなかった。
「そのお考えを、私は知りたいのです」
「どうか――これからの人生をかけて、私にお教えくださいまし」
「私もまた、その道を共に歩みとうございます」
言葉を重ねながら、結衣は自分の気持ちをはっきりと自覚していた。あのときの目。あの静かな声。そして――「いなくなってもいい人などいない」という、あの一言。胸の奥に残ったその言葉が、どうしても離れなかった。
父の顔が、わずかに揺れた。そこに浮かんだのは困惑だったが、それも束の間のことだった。次の瞬間には、領主としての顔に戻っていた。
結衣には理解できていた。たった一日で城を落とされたという事実が、どれほど重い意味を持つのか。家臣も民も、その主にどこまで従い続けるかは分からない。
戦が続くこの世で、人々が求めるのは、自分たちを守ってくれる者だ。その信を失えば、すべてが崩れてしまう。
――だからこそ、この婚姻には意味がある。
ただの敗北ではなく、そこから新たな繋がりが生まれるのだ。敵であった相手と姻戚となり、その才を認めて娘を託す。それは弱さではない。
むしろ、器量として語られることになるだろう。父の名は、ただの敗者として終わることはない。
(これは……富岡のため)
胸の内で、静かに言い聞かせる。育ててもらった恩に報いるため。この地を守るため。それだけなのだ、と。
それに、あの少年はただの勝者ではない。軽やかな言葉の裏に、確かなものを持っている。今まで結衣が気づかなかった民を、敵を、同じ人として見る視線。
三国志の話に胸を躍らせていたあの頃、結衣が憧れた「知略の人」。その片鱗が、確かにあった。
そして――
(……私を、憎むことはない)
あの言葉を思い出す。あの目を思い出す。あの声音に、偽りはなかった。だからこそ、この婚姻は成立する。
理は通っている。すべて筋は通っている。そう、自分に言い聞かせた。
ふと、結衣は貴丸へと視線を向けた。
貴丸は――ぽかんと口を開けていた。
まるで、今起きていることを理解できていないような顔だった。あれほどの策を巡らせた者とは思えぬ、あまりにも間の抜けた表情。その様子が妙におかしくて、同時に、なぜか胸の奥が柔らかくほどけていく。
結衣は思わず、袖で口元を隠した。
(……これは、違う)
慌てて思考を引き戻す。頬が熱いのも、胸が騒ぐのも、すべてはこの場の緊張のせい。戦の直後という異様な空気のせいだ。そうでなければ、説明がつかない。
(これは、恋などではない)
強く言い聞かせる。これは富岡のための決断であり、領のために必要な選択。ただ、それだけのこと。
――それだけの、はずなのに。
胸の奥で、何かが静かに波打っている。
否定するたびに形を持ちかけるその感情を、結衣は見ないふりをした。
こんな世の中じゃ、、ポイズン、、
どうしてもこのフレーズの後は、、




