第62話 夕のご報告02
貴丸の他人事のような一声で、場はようやく動いた。
「……とりあえず、全部洗おうか。庭も、床も、みんなの衣服と……あと俺もか…」
淡々とした指示だった。だが、逆らう者はいない。
侍女たちが顔を顰めながら動き出し、桶と布が運ばれ、水が打たれる音が慌ただしく重なる。
鼻をつく匂いはすぐには消えず、誰もが口を結んだまま手だけを動かしていた。
ひと通りの片付けの目処が立つと、今度は各々がばらばらに動き出す。言葉は少ない。
「……着替えます」
「……ああ」
短いやり取りだけを残し、それぞれが自分の部屋へと散っていく。
衣や体に染みたものをそのままにしておく気にはなれないのは、誰も同じだった。
一応は勝利の凱旋直後である。普段であれば多少の不手際は咎められてもおかしくはない。
だが、それを知っているがゆえに、誰も強くは言わなかった。文句を飲み込む理由が、全員にあった。
やがて人の気配が引き、居間には静けさだけが戻る。
そこから暫く経って、火がひとつ囲炉裏の中でぱちりと弾けた。
炭の燃える匂いに混じって、わずかに残る気配が、居間の空気を鈍く満たしている。
誰もが言葉を飲み込み、先ほどまでの話をそれぞれの胸で反芻していた。
沈黙は重くはないが、軽くもない。息を整えるための、短い間だった。
やがて、全員が居間に揃った。
着替えを終えたばかりの者たちの衣はまだ新しく、だが空気の奥には先ほどまでの騒ぎの余韻が、薄く残っている。囲炉裏の火だけが、変わらぬ調子で静かに燃えていた。
最初に口を開いたのは慶久だった。
「……とりあえず、皆が無事でよかった」
低く、短い言葉だった。だが、それだけで場の空気がわずかに緩む。
その余韻を受けるように、琴が静かに進み出る。
一度、膝を整え、衣の裾を乱れぬように指先でそっと引き、間を置く。
そして、三つ指をついて深く頭を下げた。
動きに無駄はなく、崩れもない。日常の所作ではなく、“場に合わせた礼”であることが誰の目にも分かる。
「この度は勝ち戦――おめでとうございます」
それに応じるように、その場にいた者たちが一斉に頭を下げた。
動きは揃い、遅れも乱れもない。誰が合図を出したわけでもないのに、自然と形が整っている。
だが。その中で、ただ一人。
貴丸だけが、まるで別の場にいるかのように、足を投げ出し、手を広げたまま座っていた。囲炉裏の脇で、だらしなく背を預け、視線すら定まってはいない。
囲炉裏の火が揺れ、その光が幼い顔に陰影を刻む。その姿は、勝ち戦の場に相応しい緊張とは、明らかに異質だった。
琴の眉が、ほんのわずかに寄る。だが何も言わない。ただ一度だけ視線を落とし、形を崩さずに元の位置へ戻る。
やがて場の視線が集まると、元伯がどかりと座り直し、肩を一つ回した。
「……まあ、順に話すか。途中で口を挟むなよ。面倒になる。質問は後だ」
軽く顎をしゃくり、誰にともなくそう言ってから、勝手に語り始めた。
元伯は細かな経緯を端折りつつ、要点だけをまとめて語った。
船で雑穀米の箱を二重に仕立て、その中に身を潜めたまま富岡へ運ばれ、港で荷として降ろされたあと、そのまま日向館の倉へと運び込まれたこと。
夜を待ち、深夜に銀四郎の手引きで城内へ侵入し、奥方と子供たち、侍女を押さえて人質とし、そのまま城を掌握したことを、飾ることもなく一息に話した。
「で、夕方前に当主の隆時殿が戻って来た」
肩をすくめる。
「普通なら揉めるところだがな、そこで貴丸が妙なこと言い出してな」
親指で貴丸を指す。
「一筆書いたら城返す、と言い出した」
小さく笑う。
「まあ、その場はそれで収まった。……――で、話はここからだ」
少しだけ楽しそうになる。
「隆時の娘が出てきてな、いきなり婚姻の話だ」
空気がわずかに揺れる。
「どうも、潜伏してたときに貴丸が商人のふりをして、手を握って口説いたらしい」
わざとらしく言う。
琴の目が、すっと貴丸を射抜く。
元伯が横目で貴丸を見る。
「なあ、貴丸?」
しかし当人は明後日の方を向き、すっと口笛を吹いた。
その音に、希丸がぱっと反応する。
「ねえ貴丸、それ俺にも教えてよ!」
場の空気がわずかに緩む。
元伯は肩をすくめた。
「まあ、本人は“手がちょっと触れて、いつもの軽口で適当に褒めただけ”って事だったようだがな。向こうはそうは取らんかったようだ」
鼻で笑う。
「で、そのまま断れずに婚約だ」
慶久と琴がちらりと貴丸を見る。
言葉は交わさないが、目が合い――どこか納得したように、同時に深く息を吐いた。
元伯はその空気を気にもせず、一気に流す。
「その夜は宴だ。祝いだなんだで酒を浴びるほど飲まされたのだ。最初は貴丸も断ってたんだがな。隆時殿が“婿殿、わしの酒が飲めんのか”と言い出してな」
口元が歪む。
「渋々飲み始めて――まあ、案の定だ」
元伯はくすくす笑いながら続けた。
「酔った貴丸は見物だったぞ。この間の“オタ芸”とかいう踊りを、ふんどし一丁で半刻は踊っておったな」
肩を震わせる。
「周りは大盛り上がりだ。だがな――婚約者殿の顔は、“早まったか”って顔をしておったわ」
そのまま声を上げて笑う。
「で、結果、翌朝貴丸は見事な二日酔い…いや、三日酔いかのう」
ひとしきり笑ってから、最後を締める。
「そのまま帰ってきて――ご覧の通りだ。館の前で盛大に吐いた」
一度、全員を見回してから言い切る。元伯は鼻で笑った。
「……まあ、そんなところだ」
その沈黙を破ったのは、やはり慶久だった。
膝の上で組んでいた手を静かに解き、視線をまっすぐに向ける。
逃がさない目だった。
「……なぜ、日向館を返したのだ」
囲炉裏の火が、ぱちりと小さく弾けた。
この時代、囲炉裏の火は夏でも落としません。




