第61話 夕のご報告01
夏の終わりの夕方、湿り気を帯びた風がゆるく庭を撫でていた。
日の名残はまだ門柱に残り、影は長く伸びている。土の匂いと草いきれの中には、場違いな酸の気配まで混じり、帰還の空気は見事に踏み外されていた。
ようやく辿り着いた大和田館の門前は、凱旋の静けさとはほど遠く、妙に現実的な騒がしさに満ちている。
貴丸の盛大な粗相によって石畳は汚物に塗れて濡れ、衣は汚れ、誰もが顔を顰めながらも片付けに動かざるを得なかった。
「桶! 水を持ってきなさい、早く! それと箒もね!」
侍女頭の敏が声を張り上げる。お佳や侍女たち、下男も一斉に動き出し、濡れ布で石を擦る音が重なった。顔には誰もが露骨に嫌そうな表情を浮かべていたが、手だけは止まらない。
その手際は、まるで戦の後始末でもしているかのようだった。
そんな喧騒の中、貴丸はぐったりとしたまま、慶久に抱かれて庭先へと運ばれていく。
慶久の衣や顔は言うまでもなく被害の最前線にあり、本人は何も言わないものの、表情はすでに半ば死んでいた。しかし、不思議なことに慶久だけは臭くなかった。怪我の巧妙だろうか。
「……み、水……」
貴丸が、某拳四郎の初登場時のような言葉を紡ぐ。そのか細い声に、琴がはっと顔を上げた。
「すぐに――」
琴が動こうとしたその横を、元伯が無言で通り過ぎた。
大きな桶を抱え、水をたっぷりと満たしている。迷いはなかった。そのまま庭先に「ドン」と置くと、貴丸の襟首をひょいと掴み上げた。
まるで猫でも扱うかのように軽々と持ち上げたかと思うと、次の瞬間には躊躇なく桶の中へ放り込んだ。
「ちょ――!」
琴の悲鳴が遅れて響く。
ばしゃり、と音が立ち、貴丸の顔はそのまま水の中に沈んだ。
一瞬、誰も動かなかった。だが、貴丸も沈んだまま動かない。
「……おい。た、貴丸は大丈夫か」
慶久が低い声で尋ねる。するとその時、貴丸の手が桶の縁を掴んだ。ごぼ、ごぼ、と鈍い音が響き、水面が揺れる。ところが、次第に目に見えて水位が下がっていった。
「……は?」
敦丸が間の抜けた声を漏らす。
水が減る。減る。減る。ついには桶の底が見えるほどになった。やがて、ほとんど水がなくなったところで、貴丸が勢いよく顔を上げた。
「ぷはぁ!」
大きく息を吐き、肩を上下させる。
「あー……スッキリした……」
心底どうでもよさそうにそう言うと、貴丸は腹をぽんと叩いた。
たぷん、と音が鳴る。
場が固まった。
桶の水は、明らかにほぼ空になっている。それなのに、貴丸の腹は明らかに膨らんでいた。
誰も突っ込まない。ただ、全員が同じ顔で貴丸を見つめていた。
当の本人は、そんな視線など気にも留めず、ふらりと立ち上がった。顔はまだ赤いものの、目はすっかり元に戻っている。そのまま当然のように館へ向かって歩き出した。
その途中に、慶久がいた。
貴丸は立ち止まると、ふとそのまま距離を詰めた。視線を上げるでもなく、何を思ったのか顔を寄せる。
くん、くん。
小さく鼻を鳴らした次の瞬間、露骨に顔をしかめた。
「……親父様、なんか臭いんだけど……」
沈黙が落ちた。
慶久の口がぱくぱくと開閉する。だが、言葉が出てこない。周囲の空気もぴたりと止まっていた。
貴丸はさらに顔を近づけ、慶久の上半身をじっと見つめる。視線の先には、着物の胸元から腹にかけて、何かがべっとりと付着していた。
色も質感も妙に曖昧だが、しかし確実に「何か」だと分かる存在感だけはある。
「……なにこれ」
指を伸ばしかけて、すぐに止める。そして、ほんのわずかに首を傾げた。
「もんじゃ?」
ぽつりと呟いたあと、すぐに顔をしかめ直し、袖で鼻を押さえる。
慶久の顔が、みるみるうちに引きつっていった。だが、何も言い返せない。その場にいる誰もが視線の置き場に困り、わずかに顔を逸らしている。
そんな中、空然だけは口元を押さえているのか、わずかに肩を震わせていた。
貴丸は一歩だけ下がり、ようやく距離を取ると、慶久を見上げた。
「……とりあえず、風呂入ったほうがいいと思うよ」
まるで戦評でも下すかのように、淡々と言い切った。
その言葉だけが、やけに真っ直ぐ場に落ちる。
隣にいた敦丸、希丸、慶光、久秀も、同様に固まっていた。貴丸はさらに周囲を見回し、不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの? みんなも……なんか臭いんだけど……」
完全に悪気がない。
それが一番悪い。
怒りが言葉にならない形で溜まっていく。誰もすぐには口を開けず、ただ視線だけが貴丸に突き刺さった。だが、当の本人はそんなことなど気にも留めず、そのまま玄関へ向かっていく。
そこには、琴がいた。
一歩も動かず、待ち構えている。静かではあるが、明らかに怒っている顔だった。
貴丸は一歩近づき、また鼻を鳴らした。
くん。
わずかに眉を寄せる。
「……あ」
何かを言いかけた、その瞬間だった。
「誰のせいで、こうなっていると思っているのですか!!!!」
琴の怒声が炸裂し、庭に響き渡った。
貴丸の体がびくりと跳ねる。本能的に逃げようとした貴丸は、踵を返して駆け出した。だが、慣れぬ足取りに加え、まだ視界も定まっていない。
お佳の脇を抜けようとした、その時――何かに引っかかった。
ぐしゃり、と鈍い音がして、貴丸は前のめりに倒れ込んだ。
盛大な転倒だった。しかし、そこはなぜか柔らかく、しかも逃げ場のない「ぬかるみ」のような感触が、顔と手にまとわりついた。
一瞬の静寂。
遅れて、鼻を刺す匂いが立ち上る。
そこにあったのは、水気を帯びて広がった、先ほど自分が吐き散らしたものの名残だった。薄く広がった溜まりに、貴丸は正面から突っ込んだのである。
ぴたり、と動きが止まった。
お佳は動かなかった。足元を見下ろし、それからゆっくりと貴丸へ視線を移す。その目は冷たい。
何も言わず、懐から布を取り出すと、自分の頬を何度も、やや強めに拭った。その間も、貴丸は起き上がらない。
いや、起き上がれなかった。
理解してしまったからだ。今、自分が何の上に倒れているのかを。
空気が、わずかに重く沈む。
そして、お佳は布を畳みながら、誰にも聞こえぬほどの声で、ぼそりと呟いた。
「……自業自得……」
その一言だけが、やけに静かに響いた。
お佳は言い捨てるように呟くと、そのまま踵を返し、再び門前の片付けへと戻っていった。
その一部始終を、敏はわずかに首を傾げながら見ていた。なぜ今、貴丸は転んだのだろうか。足場は悪くないし、段差もない。
だが、その答えを口にする者はいなかった。
夏の終わりの風が、ゆるく庭を抜けていく。
そして当然、各々が着替えるため、顔を顰めながら自分の部屋へと向かっていった。




