第60話 帰ってきて。マァ、ライオンね。
たった一日で城取りという、前代未聞の快挙を成し遂げた余韻は、まだ領内の空気に濃く残っていた。
その報はすでに早馬によって届いており、「城を奪い、しかも死者なし」という信じがたい事実に、大和田の人々は沸き立っていた。
武で鳴らした一族にとって、それはこれまでの戦の在り方そのものを覆す出来事であり、誇りと戸惑いが入り混じった歓喜が、館の周囲に満ちている。
誰もが口々に語り、誰もが半ば信じきれぬまま、それでも確かに胸を張っていた。
そして二日後の午後。
夏の名残をわずかに残した熱気が、館の前の砂地を撫でていく。陽は高く、空はよく晴れている。
そんな穏やかな景色とは裏腹に、そこに集まった者たちの胸の内は落ち着きとはほど遠かった。
館の前には、ほとんど総出と言ってよいほどの人が並んでいる。
琴はやや前に出て静かに佇み、慶久は腕を組んで街道の先を睨むように見据えている。
慶光、久秀は落ち着いた顔を保ちながらも視線は揺れ、敦丸はそわそわと足を動かし、希丸は背伸びをして遠くを覗き込む。
空然は無言で目を細め、お佳と敏はひそひそと何かを言い交わし、実右衛門と助九郎は腕を後ろに組んでじっと待っていた。
誰もが同じ方向を見ている。遠く、浜街道(現国道六号線)。
やがて、その先に小さな影が現れた。
「……来たぞ!」
誰かの声が、張り詰めた空気を破る。
その瞬間、歓声が一斉に弾けた。抑えきれなかった期待が、堰を切ったように溢れ出す。
街道を進んでくるのは、確かに大和田の一行だった。
数は多くない。むしろ拍子抜けするほどの少数。だが、その先頭にいる人物の姿を認めた途端、場の熱は一気に高まる。
元伯――。
頭巾を深く被ってはいるが、その騎乗の姿勢、片手での手綱の扱い、周囲を圧する気配は隠しようもない。
かつて鬼玄蕃と恐れられた男が、確かにそこにいた。
その後ろに銀四郎、さらに六人の歴戦の勇兵。そしておまけの如く修平が付いて行く。
無事だ――という安堵が、波のように広がる。
だが。
「……あれ?」
ぽつり、と誰かが呟いた。
「貴丸様は……どこ?」
その一言が、熱に浮かされていた空気を一瞬で冷ます。ざわり、と人々の間に波紋が走る。
今回の戦を勝利へと導いた立役者。その姿を一目見ようと、誰もがここに集まっていたはずだった。
それなのに――どこにも、いない。目を凝らす。列の中を探す。馬の影、荷の陰、兵の間。
だが、見当たらない。
違和感が、じわじわと広がっていく。
その中で、元伯がゆっくりと馬を降りた。
いつものような余裕も、場を煽るような芝居がかった所作もない。妙に淡々としている。その動きに、何人かが首を傾げた。
そして。
「……あれは」
誰かが気づく。
元伯の背に、何かがある。
人一人分ほどの、重みを感じさせる塊。それを背負ったまま、元伯は何事もないように歩み寄る。
近づくにつれて、それがただの荷ではないことがはっきりしてくる。
元伯はそれを、するりと前へと回した。力みもなく、軽く扱うその様子が、逆に異様だった。
それは――ぐったりとした、一つの人影。
手足はだらりと垂れ、首も安定していない。完全に力が抜けきっている。
「……あ、それは……」
慶久の声が、わずかに掠れる。
次の瞬間には理解していた。
それが誰なのかを。
元伯は何の感慨も見せず、そのままひょいと紐を解いて差し出す。
「お前の息子は返したぞ」
あまりにも軽い言葉だった。
慶久は反射的にそれを受け取る。ずしりとした重みが腕にかかる。温もりはある。だが、反応がない。
「……貴丸?」
呼びかけても、返事はない。
元伯はというと、その様子を一瞥することもなく、眉をひそめ、自分の着物の袖を軽くつまんだ。
鼻先を寄せる。わずかに顔をしかめる。
「……まったく」
小さく吐き捨てるように言い、そのまま踵を返した。
誰も引き留める間もなく、さっさと館の奥へと消えていく。
せっかくの凱旋だというのに、あまりに素っ気ない態度だった。
ああいう騒ぎを誰よりも楽しむ元伯が、まるで関わりたくないとでも言うように去っていく。
(なんだ、あの態度は……)慶久は眉をひそめる。
だが、それを追う余裕はない。腕の中の重みが、すべてを上書きする。
改めて見下ろす。
貴丸は、完全に脱力していた。顔色は悪くないが、表情は緩みきり、まるで魂が抜けたように静かだ。
一瞬。
ぞくり、としたものが背を走る。
――まさか。
胸の奥が、嫌な音を立てる。
だが。
耳を澄ます。
かすかに、呼吸がある。胸が、わずかに上下している。
「……生きている」
ぽつりと漏れたその言葉に、周囲の空気がようやく動き出す。
安堵と、不安と、そして言いようのない予感が入り混じりながら――
誰もが、その次に何が起きるのかを、まだ知らなかった。
そして、周囲から一斉に声が上がる。
「貴丸様を!」「お顔を見せてくだされ!」「今回の英雄様のご尊顔を!」
押し寄せる期待と熱気に、慶久は思わず息を詰めた。だが次の瞬間、腹を据えるように力を込める。
腕の中の貴丸の顔を、真正面から見つめる。
まだ目は閉じたまま――小さな顔は静かにそこにあった。そのまま、向かい合う形を崩さず、慶久はぐっと腕に力を入れる。
身体を離さぬように支えたまま、貴丸を高く掲げた。
視線が、一斉に集まる。
歓声が、さらに膨れ上がる。
「わああああ!貴丸様だ!」「さすが貴丸様!「大和田家の将来は安泰だ!」
誰もが、今か今かと待っていた。勝利の立役者、その第一声を。
どんな言葉が飛び出すのか、どんな顔を見せるのか、その瞬間に、場の空気は一つに固まっている。
――そして。
ぴくり、と。貴丸の瞼が、わずかに震えた。
「……!」
どよめきが走る。ゆっくりと、重たげに目が開く。
「おお……!」
歓声が、期待に変わる。
だが。その顔色が、次の瞬間、奇妙に変わり始めた。
赤く――そして、すぐに青く。
「……あ?」
誰かが間の抜けた声を漏らす。
頬が、ふくらむ。じわり、と。まるで何かを必死に堪えているかのように、口元が歪む。
その異様な変化に、何人かが直感した。
――まずい。
そして。
「おろおろおろぉろろろろろ――っ!!」
爆ぜた。
それは、もはや“吐いた”などという生易しいものではなかった。
圧縮されていた何かが一気に解き放たれるかのように、全力で、容赦なく、慶久の真上から降り注ぐ。
頭頂から顔面へ。額を伝い、鼻筋を流れ、口元を越え、着物の隙間へと入り込む。
さらに、肩から胸元へ。まるで滝のように。
「――――っ!?」
慶久の口が開く。だが声にならない。
時間が、ほんの一瞬だけ止まった。誰もが理解を拒んだ。
そして――
「ぎゃあああああああああああ!!」
現実が、爆発する。
「な、何をしておるのだ貴丸様ぁぁ!!」「いやぁぁぁぁ!!」「ちょ、待てよ! 待てぇぇぇ!!」
飛沫は、容赦を知らなかった。
風に乗り、弾け、広がる。
琴の、今日のために誂えた一張羅の着物に――ぽつ、ぽつ、と無慈悲な斑点が浮かび上がる。
「――っ……!」
声にならぬ声が、喉の奥で震える。
慶光は顔をしかめて身を引こうとするが、わずかに遅い。
久秀も半歩退くが、その肩口に確実に被害が届く。
敦丸は逃げ場を失い、真正面から被弾し、目を見開いたまま硬直する。
希丸は半身をやられ、呆然と立ち尽くした。
そして――風が、吹いた。
今日に限って、妙に強い。
「ちょっとぉ、風ぇぇぇぇ!!」
誰かの悲鳴が空を裂く。
ふわりと舞ったそれが、予想外の軌道で流れ――
「……あ」
お佳の頬にも、ほんのわずかに、しかし確実に届いた。
その瞬間。
現場は、完全に崩壊した。
阿鼻叫喚。
誰もが声を上げ、逃げ惑い、互いにぶつかり、転び、踏みとどまり、また叫ぶ。
とりあえず慶久は、先ほどの惨事を二度と繰り返すまいと、無言のまま両手に抱える貴丸の向きをくるりと反転させた。
次の瞬間、慶久の視界の正面に来たのは――貴丸の尻だった。
慶久は一つ頷く。
「……これでよし」
妙な納得だったが、少なくとも先ほどのような、一身で全身に浴びる事態だけは避けられる。
そして慶久は、そのままの向きで貴丸を抱え上げた。
それだけで、ひとまずは十分であった。
だが。悲劇は、それで終わらなかった。
貴丸を抱えたままの慶久の腕に、再び異変が伝わる。
ぴくり、と。
「――っ、まさか……!」
嫌な予感が、確信へと変わる。
そして。再び、口が開いた。
「おろろろろろろろろろろろろろ!!」
第二波。
しかも、先ほどとは質が違う。
勢いが増し、圧が乗り、まるで何かの噴射装置のように――一直線に、そして弧を描いて放たれる。
それは、異国の石像、上半身が獅子で下半身が魚のあの奇妙な像が、水を吐き出す様を思わせる、見事な放物線だった。
「やめろぉぉぉぉぉ!!」
ついに慶久、理性崩壊。反射的に回避行動を取る。
だが――貴丸は、掲げたままだ。
結果。
ぶん。
ぶん。
左右に御本尊(貴丸)を振ってしまったのだ。
――最悪だった。噴射は軌道を変え、広がり、拡散する。
「うわあああああああ!!」「こっち来るなぁぁぁ!!」「逃げろぉぉぉぉ!!」
右へ逃げる者。
左へ飛び退く者。
足を滑らせて転ぶ者。
巻き込まれてさらに被害を受ける者。
笑う者すら、もはやいない。そこにあるのは、ただの混沌だった。
つい先ほどまで、英雄の帰還を祝っていたはずの場所が――
一瞬にして、生き地獄へと変わる。
そしてその中心で。
大和田の英雄は。
意識半ばのまま、なおも静かにその役目を果たし続けていたのだった。
その頃――富岡の港では、龍長が四日目の待機に入っていた。
「……まだ帰ってこんのか」
城を落としたとも知らず、ただ海風に愚痴をこぼしている。
なお、この男だけは、数日後に真実を知って膝から崩れ落ちることになる。
番外編:
富岡との戦を前にした前日、慶久は今回の策に用いる煙
――漆や芥子を混ぜた枯れ草のそれを、好奇心半分で自ら少しだけ吸い込んでいた。どれほどのものか、ただ確かめてみたくなったのである。
結果は単純だった。幸い少量だったからか、鼻だけが利かない。
焦げた草の匂いも、人の汗も、出陣前の支度で立ちのぼる香ばしさも、何一つ感じ取れない。
まるで世界から匂いだけが抜け落ちたような感覚だった。
「……まあ、そのうち戻るだろう」
深く気にする様子もなく、慶久は軽く鼻を鳴らす。
むしろその不自然な静けさを、どこか面白がっているようでもあった。
館の方へ視線を戻せば、出陣を控えたざわめきが遠くに揺れている。
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そして戦が終わり数日経ったそのとき、背後から琴の声がかかった。
「お前様、そろそろ貴丸たちが戻る頃です。皆、館の前でお待ちしておりますよ」
呼ばれて、慶久は振り返る。
そして何も言わず、そのまま外へと足を向けた。貴丸たちの帰参を迎えるために。
そして――利かなくなっていた慶久の鼻が、結果としてあの悲劇を招くことになるのだった。
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阿鼻叫喚とはこのことですな。
あ、念のため。帰りは富岡の殿様から馬を借りてのご帰還です。
あ、ちなみに、どこかに木村○哉さんがいるっ! かな?




