第63話 夕のご報告03
その沈黙を破ったのは、やはり慶久だった。
膝の上で組んでいた手を静かに解き、視線をまっすぐに向ける。逃がさない目だった。
「……なぜ、日向館を返したのだ」
囲炉裏の火が、ぱちりと小さく弾けた。
声は低い。だが逃げ場を与えぬ重さがあった。
貴丸は一度だけ瞬きをする。視線をゆるく周囲へ流し、間を置かずに口を開いた。
「めんどいでしょ」
あまりにも軽い一言だった。
空気が止まる。誰かの喉が小さく鳴った。だが、それ以上の音は続かない。琴の目がわずかに見開かれ、敦丸の肩がぴくりと震えたまま固まる。
空然は目を細めたまま、何も言わない。
慶久の顔がわずかに引きつる。
「……お前という奴は……せっかく取った城を、面倒という理由で手放したのか」
声が一段強くなる。だが怒鳴りにはならない。抑えが効いている分、その奥にある苛立ちだけがはっきりと伝わる。
貴丸はゆっくりと顔を上げた。さきほどまで残っていた酔いの気配はもうない。目は冴え、声は静かに落ち着いている。
「まず、あの城を取ったら、岩城が出てくるでしょ」
一言ずつ、置くように話す。
「岩城はこの辺りで、相馬と唯一“同盟ではないけど仲がいい”ところだよね。伊達と隣接したくないから、相馬には壁でいてほしい。そういう位置」
火が小さく弾ける。誰も口を挟まない。
「その状態で、大和田と岩城がぶつかれば……相馬は動かない可能性がある。動いても、お情け程度だと思うよ」
貴丸はわずかに首を傾けた。
「今の相馬の状況、考えてみてよ。周り、ほとんど伊達と婚姻で繋がってるでしょ。田村、蘆名、岩城、葛西、亘理、大崎……」
淡々と並べる。
「その中で、伊達と正面で敵対してるのは相馬だけ。ここで岩城とも敵対したら――完全に四面楚歌だよね。そんな状況で、わざわざ戦線増やす余裕あると思う?」
言い切らない。だが、否定の余地は残さない。
視線が、ゆっくりと戻る。
貴丸はそのまま続けた。
「今回の富岡の兵は五百、騎馬五十。そこに岩城が乗れば、三千に騎馬三百くらいは増えると思う」
数字が並ぶたび、場の空気が重く沈む。慶光が腕を組み直し、久秀が視線を落とす。
「それに対して、うちは騎馬十と兵百もいないでしょ。正面でぶつかったら――話にならない。一蹴される」
淡々とした事実。強がりも飾りもない、冷たい結論だった。
「それに今回は、うちも富岡もほとんど戦をしてない。武力で奪ったわけじゃないから、周りの豪族は納得しない」
貴丸は一度だけ息を吐く。火の明かりが、その瞳に揺れる。
「そうなると、あの富岡領は管理できない。たぶん豪族や家臣の離反と一揆が起きるよ。自分たちを守れない弱い領主には、民はついてこないから」
言葉は静かだが、容赦はない。その一言が、場に沈む。
沈黙が落ちる。だがそれは先ほどの呆れではない。計算と理と、その奥にある“理屈以上の何か”を突きつけられた後の静けさだった。
琴は視線を伏せる。慶久は口を開きかけて、閉じる。
空然だけが、ほんのわずかに口元を緩めたが、それもすぐに消えた。
誰も、何も言えなかった。
火だけが、静かに揺れていた。
それでも、慶久は視線を外さなかった。
納得はした。だが、それで終わる話ではないという顔だ。
「……それだけか」低く、試すような声。
貴丸はわずかに肩を竦めた。その仕草は軽いが、目の奥はすでに次を並べる準備を終えている。
「まだあるかな。まず補給。富岡は今年の秋まで米不足だよね。収穫まではもう少しあるけど、それまでを繋ぐ余裕は、うちにも向こうにもない」
指先で畳を軽く叩く。
「仮にあの地を取ったとしても、最初にやることは“配る”ことだよ。元の家臣や被官を手懐けるために、最低限の心付けは必要になる。今だと、現状の大和田の領内だけだと問題はない。けど――」
視線がわずかに周囲を巡る。
「富岡の領まで含めて、無理なく回せるだけの余裕はうちにある?」
誰も答えない。否、答えは分かりきっている。
貴丸は続ける。
「それと、あの城は港に近いけど、海を押さえ続ける力がまだうちにはない。船は龍長おじさん頼みでしょ。常に回せるわけじゃないし、海路を断たれたら終わり」
そこで、ふと。
「……あれ、龍長おじさん?」一瞬だけ、言葉が途切れる。だが、すぐに何でもないように流した。
「陸も同じ。峠越えの補給線は細すぎる。そこを一箇所押さえられるだけで、守る側が先に飢える可能性がある」
慶光が小さく息を吐いた。
貴丸は止まらない。
「次に人手。城を取るのは一瞬でも、維持はずっと続く。兵を置いて、番を回して、年貢を検分して、揉め事を裁く。今の人数でそれやったら、本拠が空くよね」
久秀が腕を組み直す。
言葉に、反論の余地はなかった。
「それと、一番大きいのは――富岡を潰し切ってないってこと」
空気がわずかに張る。
「当主は生きてるし、家臣も兵も残ってる。あのまま城だけ奪えば、外でまとまって反撃してくる。内と外で挟まれる形になる」
一瞬の間。
「これが一番まずい」
慶光が舌打ちを小さく鳴らした。
想像がついたのだ。
「あと、今回は奇襲で取っただけ。正面で勝ったわけじゃない。だから大和田も威も立ってないと思われる。隙を見せれば、すぐに裏切るよ」
貴丸はそこで一度言葉を切り、指先で畳をとん、と軽く叩いた。
「それと――婚姻ね」
場の空気が、わずかに揺れる。
「富岡の娘、結衣殿との話がまとまった。あれは“繋ぐ”ための手だよ。ここで城を奪ってたら、その話ごと潰れてたか、人質扱いになってた」
視線が静かに慶久へ向く。
「信用できない敵を増やすか、縁を一つ作るか。どっちが得かは、分かるでしょ」
銀四郎が、わずかに頷いた。
「それに――伊達」
その名が出た瞬間、場の温度が一段落ちた。
「見てると思うよ。こういう小競り合いでも、動きは拾うでしょ。無理に領地を広げれば、“調子に乗ってる”って見られる」
淡々と続ける。
「目を付けられるのは得じゃない。うちは相馬の被官で、伊達がくしゃみしたら吹っ飛ぶ側なんだから」
慶久の眉が、わずかに動いた。
貴丸は、そこで一度息を吐く。静かな声。
「最後に――理由が弱い。普通は大義名分がいる。じゃないと配下も周りも納得しない。守れない、支配できない、戦は増える。その割に得るものは小さい」
火が、ぱちりと弾ける。そして。
「だったら、今は貸しを作って帰った方がいいでしょ。城を取った。その上で“返した”。その事実は残る」
誰も動かない。ゆっくりと、言葉を落とす。
「恩でも借りでも、どっちでもいい。次に使える形になる」
言い終えて、貴丸は視線を落とした。
最初の「めんどい」と同じ口から出たとは思えないほど、整然とした理屈だった。
沈黙が落ちる。だがそれは、先ほどのような呆れではない。
逃げ場を塞がれたあとの、重く静かな納得だった。
慶久は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。怒りは、もうない。
代わりにあるのは――
「……そうか」
短い一言。
だがそれだけで、十分だった。
囲炉裏の火が、静かに揺れていた。




