第56話 戦07
その報を受けた直後、富岡大和守隆時は本隊を置き去りにした。
歩兵は後続に任せ、選りすぐった騎馬三十騎のみを率いて、自城のある南へと馬首を巡らせる。煙に咳き込み、目を赤くしたまま、それでも脚の利く者だけを選び抜いた。
蹄が乾いた街道を打ち、一群となって疾走する。誰も言葉を発さなかった。ただ、焦りと、理解したくない現実だけが胸の奥で軋んでいる。
浜街道を南下し、やがて富岡川を越える。午後の陽が傾ききる前に、ようやく日向館へと辿り着いた。
馬はすでに息も絶え絶えで、次に使えるかどうかも分からぬ有様だった。それでも、瞬きする間さえ惜しむように、ここまで全速で駆け抜けてきたのである。
昨日渡ったときとは違い、川の流れる音がやけに耳についた。水を蹴立て、ほとんど飛び越えるようにして渡りきると、城下の気配が近づいてくる。
日向館の外郭が見えた瞬間、誰もがわずかに手綱を引いた。
門前は――異様なまでに静かだった。
外門の前、白砂の上に、留守居の佐藤刑部左衛門忠光が正座していた。鎧は外され、羽織の裾を正し、額を地につけたまま動かない。その背後には、城に残っていた兵たちが同じように整列し、深々と頭を垂れている。
門は開かれていた。だが、その開き方が勝者を迎えるためのものではないことは、一目で知れた。
隆時は馬を進め、門前で止めた。しばし見下ろすように立ち尽くしたのち、ゆっくりと馬を降りる。土を踏む音だけが、やけに大きく響いた。
「……顔を上げよ」
低く抑えた声だった。だが、佐藤はなおも額を地につけたまま、さらに深く頭を下げる。
「恐れながら……申し上げます。拙者が守りながら、城へ敵の侵入を許し、奥方様と御子息、御息女を人質に取られ申した」
そこで一度言葉を切り、隆時の顔を見てから、さらに続けた。
「他にも重臣の女子供も含まれております。弁解の余地もございませぬ。拙者の首、いかようにもお取りくだされ」
言葉は整っていた。それでも、悔しさは隠しきれていない。背後の兵たちも顔を上げぬまま、己もまた同じ罪を背負うかのように沈黙していた。
隆時は、しばし何も言わなかった。握り締めた拳に、わずかに力がこもる。
「……そなたが守っていても、落ちたか」
静かな声だった。
「は……」
「ならば、誰が守っておっても同じであったろう」
断じるでもなく、慰めるでもない。ただ事実をそのまま口にしただけだった。その言葉に、佐藤の肩がわずかに震える。
隆時は一度だけ息を吐き、短く告げた。
「処分の沙汰は後だ。まずは――城と家族の奪還が先だ」
そう言って、門の内へと視線を向ける。
「大和田の総大将は、誰だったのだ?」
佐藤は一瞬、言葉に詰まった。口を開きかけては閉じる。その躊躇が、かえって事態の異様さを際立たせていた。
「……申せ」
隆時の声が一段低くなる。
「は……。恐れながら……今回の敵方の大将は、大和田の嫡男、貴丸という者にございます。齢、十と」
佐藤は息を整え、意を決したように告げた。風が、わずかに鳴る。
「……ほう」
隆時は、それだけを返した。だが、続く言葉はすぐには出てこなかった。
佐藤はさらに声を落とす。
「これに従うは、隠居の大和田玄蕃之丞慶虎殿と、その配下、数名……合わせて十にも満たぬ由」
その報はすでに聞いていた。だが、頭が追いつかなかった。
「……童と、十人ばかりで、この城を……一日もかけずに落としたと申すか」
誰に向けたとも知れぬ問いが、思わずこぼれる。
佐藤は顔を上げぬまま、ためらいがちに口を開いた。
「加えて……恐れながら申し上げます。その貴丸と申す童、殿も……拙者も……一度、会っております」
隆時の眉がわずかに動く。
「……記憶にないな」
短い返答に、佐藤は苦渋の色を濃くした。
「城下へ出入りしておりました、雑穀を納める商いの者にございます。……飴を売る、小僧にて」
その一言で、何かが繋がった。
隆時の視線が遠くを向く。記憶の底に沈んでいた、取るに足らぬ光景がゆっくりと浮かび上がってきた。
米の乏しい折に、雑穀と飴を担いでやって来た商人。その後ろには、色白でふっくらとした、どこか間の抜けた面差しの童が一人いた。人懐こく笑い、やたらと口が回り、城下の者たちに取り入っていた――あの子供だ。
「……あれか」
呟きが、乾いて落ちた。
その童が城内へ入り込み、夜のうちに要所を押さえ、家族を人質に取り、兵を屈させた。もはや理屈ではない。目の前に積み上がった事実が、それを否応なく突きつけていた。
隆時は、ふっと息を吐いた。
そして――笑った。
乾いた笑いだった。嘲りでも、怒りでもない。ただ、あまりにも滑稽な状況に、笑うしかなかったのである。
ひとしきり笑うと、やがて声が落ち着いた。
「……よい」
隆時は静かに言った。
「会おう」
佐藤が、わずかに顔を上げる。
「その童に、会う」
言葉は淡々としていた。だが、その奥には重いものが潜んでいた。
情けない相手であれば――その場で斬る。
己の矜恃を踏みにじり、この屈辱を押しつけてきた相手を、生かしておく理由などない。武家としての誇り、その一点だけで十分だった。このような形で生かされるなど、隆時には耐えられるものではなかった。
たとえ、その後に自分も家族も命を失うことになろうと構わない。だが、屈したまま生きることだけは、断じて許せなかった。
この屈辱に終止符を打つには――その童の命を断つしかない。
隆時の中で、殺意が静かに固まっていく。
やがて隆時は門の内へと歩き出した。頭を垂れたままの佐藤の脇を通り過ぎるときも、足を止めることはなかった。
城内は、静まり返っていた。
奪われたのは、城だけではない。
主の、矜恃そのものだった。




