第57話 戦08
富岡大和守隆時が城門をくぐり、日向館の内へと足を踏み入れたとき、目に映ったのは――紛れもなく、見慣れた自分の城であった。
廊の風景、庭に敷かれた白砂、風に揺れる木々の音。どれも変わらない。だが、違う。
一歩進むごとに、言葉にならぬ違和が胸の奥に沈んでいく。
――もう、ここは自分の城ではない。その認識が、遅れて形を取る。
隆時は歩を緩めぬまま、視線だけで周囲を測る。荒らされた様子はない。血の匂いも、死の気配も薄い。人の気配はあるが、騒ぎ立つものはなく、どこか押し殺された静けさが漂っている。
やがて、その静けさの中で、思考が整い始める。
大和田の当主が病に伏したという報。相馬の不興を買い、関係が冷え込んでいるという噂。津島方面では伊達の桜田が動き、兵を割かねばならぬという話。
いずれも、裏を取らせた。
相馬へ送り込んだ間者は「事実」と報じ、桜田からは時を同じくして「共に攻めても良い」との書状が届いていた。虚ではない。だが、全てが真でもない。
その継ぎ目の見えぬ混ぜ方。さらに――米不足に喘ぐこの地へ、折よく現れた雑穀売り。質は劣るが、確かに腹を満たす。
しかも、あの妙な飴。どこを探しても類を見ぬ代物を、あれほどの安さでばら撒いた。思い返すほどに、流れは滑らかすぎた。導かれていた、と言っていい。
隆時の足が、わずかに止まる。
ふと、先程佐藤刑部から伝言された言葉が蘇る。
――今回の城取りで、死人は出ておりませぬ。切り掛かった者が一人、腕を落とされたのみ。
隆時が今日の朝に指揮を取った自軍も、石や弓で傷ついたものはいた。目や喉を痛めた者は多いが、命に別状はない。
常であればあり得ぬことだった。城を落とせば、女は穢され、子は殺され、宝は奪われる。城も城下も焼け落ち、荒れ果てる。それが戦の理だ。
だが――今、目の前にある城は、ほとんど昨日と変わらぬ姿を保っている。
多少の乱れはある。だが、それだけだ。日常が、そのまま残されている。
「……異様だな」誰にともなく、低く漏れる。
奪われたはずの城が、壊されていない。殺されるはずの者が、生きている。
戦でありながら、戦の形をしていない。その不気味さが、じわりと胸に広がる。
隆時はゆっくりと息を吐いた。
そして――口元がわずかに歪む。
「……面白い」嘲りではない。純粋な興味だった。
この領の童でも知っている逸話「鼻くそを砂金なら良いのにとほざいた不精者」。
そう笑われていた、大和田の嫡男。
その童が、この一連を描いたというのなら――
富岡大和守隆時は、歩みを進めながら思考を沈めていく。
今年の春先にも大和田と刃を交えたばかりであった。あの頃の大和田は、変わらぬ姿であった。
慶虎の代より続く、少数精鋭。兵は少なくとも、その一人一人が重く、正面から力で押し切る。
それがあの家の戦であった。
鬼玄蕃――そう呼ばれた先代慶虎が当主であった頃、その苛烈さは近隣に知れ渡っていた。
数では劣りながらも、幾度となく富岡に苦渋を舐めさせた、あの獰猛な戦。
だが――今回の戦は、違った。まるで別の者が指揮を執っているかのように。
夫沢(現在の福島県双葉郡大熊町大字夫沢周辺)の狭隘で受けた、印地と弓と蜂による揺さぶり。
撃破ではなく、足を止め、警戒を植え付けるためだけの一撃。
新山(現在の双葉町新山)を越えた平野では、無数の拒馬で進軍を歪め、隊列を崩し――そしてあの煙。
刺激臭で、目も喉も奪い、馬すら狂わせる。あれは戦ではない。戦に至らせぬための仕掛けだ。
もし、あのまま刃を交えていたならば――さらに、その先には何が用意されていたのか。
隆時の背に、うっすらと冷たいものが走る。
そして極めつけが、大和田へ攻め入った、その最中。まるで計ったかのように日向館の落城の報せ。
前に敵を見せ、後ろを奪う。その一手で、戦そのものを成立させなかった。
――動かされていた。
自分の意志で攻め、進み、決断しているつもりで、その実、すべては定められた流れの上にあった。気づいた瞬間、掌に乗せられていたことが、はっきりと理解できた。
「……見事だ」
思わず、低く漏れる。同時に、汗がにじむ。
今回、相手は――殺さなかった。だが、それは選ばなかっただけだろう。
もし、殺すつもりであったなら。
より陰湿に、より確実に、逃れようのない形で――自分も、家族も、すでにこの世にはいなかったかもしれぬ。
ふと、脳裏に浮かぶ。
あの飴。城下に出回り、いつの間にか日常に入り込んでいた、あの甘味。
今や、城の者は誰もが口にしている。あれに、もし毒が仕込まれていたなら。
考えるまでもない。
「……ぞっとせぬな」小さく呟く。
戦場で刃を交えるよりも、よほど底知れぬ。姿を見せぬまま、日常に紛れ、気づかぬうちに首を取る。
その気になれば、いくらでもできたはずだ。
それを、しなかった。
隆時はゆっくりと息を吐く。
恐れではない。理解しきれぬものに対する、純粋な興味。
これから会う、その童。
大和田の嫡男、貴丸。
その小さな器に、どれほどのものが収まっているのか。
足取りは変わらぬまま、だが視線だけがわずかに鋭くなる。
――会って、確かめる。
その思いだけが、静かに胸の内で形を取っていた。
その頃、当の貴丸は、隆時の妻子らに見張りを立てさせたまま、すぐ傍の一室にいた。
薄暗い部屋の中、いるのは貴丸と修平の二人だけ。
修平は壁際で背を固くし、顔色を青くして座り込んでいるのに対し、貴丸は畳の上にごろんと寝転び、天井を見たまま気の抜けた声を漏らした。
「めちゃくちゃ…眠いんだけど……全然寝てないな……」
その言葉に、修平の眉がぴくりと動く。
「船で寝ていたではありませんか。その後も…私が病を装い伏しておった横で、安らかにお休みでしたが…」
わずかに口を尖らせて言う声音には、隠しきれぬ苛立ちが滲んでいる。
貴丸は気にした様子もなく、腕を頭の後ろに組んだままぼやいた。
「いつもは八刻(十六時間)くらい寝てるんだけどさ。このところ全然足りてない。昨日もお前の鼾でちっとも寝れなかったしな」
修平は思わず天井を仰いだ。
――どの口が言うのか。
声には出さないが、その思いは顔に出ていた。
実際のところ、修平はほぼ一睡もしていない。城取りの段取りを頭の中で繰り返し、目を閉じる余裕すらなかった。
――とはいえ。それでもなお、貴丸の言い分には納得がいかない。
思い返せば、昨夜のことだ。
修平が病を装い寝床に横になり、息を潜めていたあの時、貴丸はその脇であっさりと眠りに落ちた。
敵地だというのに躊躇もなく、歯軋りに鼾、果ては寝言まで一通り揃えてみせる。
挙句、寝相の悪さで何度も転がってきた。戻しても戻しても距離は詰まり、ついには顔のすぐ前まで尻が迫る。
――そして、屁を放たれた。
そのときばかりは修平も堪えきれず、ぺし、と軽く尻を叩いたのだが、返事でもするように、もう一度。
そこで諦めて場所を移したはずなのに、しばらくするとまた転がってくる。まるで人肌を感じ取る仕掛けでもあるかのように、逃げても逃げても距離が詰まる。
気づけば、また同じ位置。もはや怪異の類ですらあった。
ようやく、うとうとしかけた、その矢先――銀四郎に叩き起こされ、そのまま城取りに入った。
つまり。修平だけが、ほとんど眠れていない。
いまこの瞬間も。その現実を飲み込みながら、修平は黙って目を閉じた。
貴丸は相変わらず天井を見たまま、気の抜けた顔で転がっている。
城落としを計画した張本人とは、とても思えない姿だった。




