第55話 戦06
夜明けの薄光が丘陵の縁をなぞり、湿り気を帯びた空気が白くほどけていくころ、富岡の軍勢は再び動き出していた。
昨夕、弓と印地に阻まれたあの狭隘――夫沢(現在の福島県双葉郡大熊町大字夫沢周辺)の小山へと、今度はためらいなく踏み込む。
先頭の騎馬が脚を進めるたび、蹄が乾いた土を打ち、後続の歩兵が間を詰める。
昨日の混乱は確かに残っていたが、それでもなお「数で押し潰せる」という確信が、列の底に沈んでいた。
丘を越える。木立の影が途切れ、視界が一気に開けた。
新山(現在の福島県双葉郡双葉町新山)を境に、地はなだらかな平野へと変わる。
そこは、標葉郡郡山郷(現在の双葉町から浪江町南部にかけての平野)。
遮るもののない広がりは、軍を展開するには申し分なく、六百の兵を一気に広げて叩き潰す――そんな“本来の戦”ができる地であった。
左手には慶光の居城、新山城が控える。
土塁と木柵を備えたその城は、丘を背にして静かに構え、街道と平野を見下ろしている。だが、いまは動きがない。門も閉ざされ、兵の影も見えぬ。ただ沈黙だけが、そこにあった。
そして正面。
前田川(現在の前田川)の南岸、その手前に――あまりにも小さな一団がある。
騎馬は十にも満たない。兵も、農兵をかき集めてようやく五十に届くかどうか。
鎧は揃わず、槍もまばらで、整った陣形とは言い難い。寄せ集め、と言ってしまえばそれまでの光景だった。
「……あれが、大和田か」
誰かが呟く。声には、隠そうともしない軽い嘲りが滲んでいた。
「これで戦になるのかよ」
くぐもった笑いが、兵のあちこちに広がる。
騎馬の上から見下ろす兵たちの表情には、すでに勝利の後を思い描いた弛緩すら浮かんでいた。
昨日の狭隘での小競り合いなど、所詮は悪あがきに過ぎぬ――そう言わんばかりに。
富岡大和守隆時は、その様を一瞥するに留めた。感情を動かすでもなく、ただ前を見据える。
そして静かに軍扇を持ち上げた。
「全軍――進め」低く、しかし揺るがぬ声。
号令は波のように後方へと伝わり、六百の兵が一斉に歩を進める。だが――その進みは、思いのほか早く鈍った。
平野へ出たはずの地に、無数の拒馬が打ち込まれている。粗削りな木を組み、鋭く尖らせただけの簡素なもの。
しかしそれが、道を断ち、進路を歪め、騎馬の脚を確実に奪っていた。
一直線に駆け抜けるはずの勢いが削がれ、馬は進路を選ばされ、歩兵は足を取られ、列がじわじわと乱れていく。
前列の兵が拒馬に手をかけ、押し倒し、引きずり、無理やり道をこじ開けていく。騎馬はそのわずかな隙間へと誘導され、ぎこちなく向きを変えながら進む。
だが、そのたびに列は乱れ、間が空く。後方から押し寄せる騎馬が、苛立ちを隠さず声を荒げた。
「止まるな、進め!」「道を開けろ!」
本来なら、笑い飛ばして押し潰せたはずの障害だった。だが、その“わずかな滞り”が、次の一手を許した。
――ヒュン、と風を裂く音。
林の縁、低い起伏、その陰から、矢と印地が散発的に飛び込んでくる。
数は多くない。狙いも精密とは言えぬ。だが、断続的に、途切れずに打ち込まれるそれは、兵の意識を削り、視線を上へ、横へと奪っていく。
「構うな、進め!」
怒号が飛ぶ。押し出すように軍は前へ出る。拒馬を避け、足を取られながらも、それでも数で押す――そのはずだった。
整っていたはずの隊列が、少しずつ、しかし確実に歪み始めていた。
その時だった。
風向きが、わずかに変わる。何かが、流れ込んできた。
はじめは、ただの煙に見えた。焚火の煙か、野焼きの名残か――そう思うには、あまりにも濃く、低い。
地を這うように広がり、やがて風に乗って、一気に押し寄せる。
「……なんだ、これは」
最前列の兵が顔をしかめる。その直後。
「ぐっ……!」
目を押さえた。指の隙間から涙があふれる。焼けるような痛みが瞼の裏を刺し、開けていられない。
鼻腔に入り込んだそれは、粘りつくように張り付き、呼吸を乱し、喉を締め上げる。
「目が……!」「息が……できん!」
悲鳴が、点から面へと広がる。
煙の中には、漆、辛子、山椒、ドクダミ、ヨモギ――ありとあらゆる刺激が混ぜ込まれていた。
吸えば咳き込み、吸わねば息が続かない。目を閉じれば足元が見えず、開ければ焼ける。どちらに転んでも、まともに立っていられない。
騎馬が、先に崩れた。馬が嘶き、首を振り、前脚を跳ね上げる。乗り手を振り落とし、あるいは狂ったように突進し、味方の列へと突っ込む。
蹄が人を撥ね、荷を蹴散らし、列の均衡が一気に崩れる。
「下がれ! 下がれ!」
指揮の声は上がる。だが、届かない。視界も、聴覚も、すでに乱れている。
命令は断ち切られ、個々の兵はただ痛みと恐怖に引きずられる。
混乱は、波となって後方へと押し寄せた。
そして――そこへ、さらに“別の刃”が差し込まれる。
後方から数騎の早馬が、土煙を裂いて一直線に駆け込んでくる。叫び声を上げながら、半ば強引に人の流れを押し分けた。
「伝令! 伝令!!」
その声に、かろうじて前線の動きが割れる。道が開いた瞬間、馬上から飛び降りた兵がそのまま地面に膝をついた。だが、その顔を見た瞬間、隆時の表情がわずかに変わる。
見覚えのある顔だった。日向館側近――佐藤刑部のもとに長く仕えていた男。戦場の伝令としても何度か見かけたことのある、信頼できる古参である。
息は荒いが、目は崩れていない。虚報を流す者のそれではない。
兵はそのまま声を張り上げた。
「隆時様! 申し上げます! 日向館――陥落にございます!」
一瞬、戦場の音が遠のいた。
「……何だと」低い声が思わず漏れる。
だがその声は、静かでありながら確かに揺れていた。
「奥方様、お子様方はご無事にございます。しかし――大和田の手に落ち、拘束されたとのこと! 佐藤刑部左衛門忠光様より、御下知を仰げとのことにございます!」
言葉が、現実として戦列に落ちる。
隆時の手の中で軍扇がきしみ、わずかに力が入る。
伝令の報が、逃げ場のない形で状況を切り裂いていた。
隆時の手の中で、軍扇が軋む。
「……嘘であろう」
吐き捨てる。だが、即座に返る。
「事実にございます!」
間を置かぬ断言。
その瞬間――バキリ、と乾いた音が響いた。
隆時は、軍扇を両手で叩き折っていた。木片が掌に食い込み、そのまま力が抜けるように、膝が落ちる。
総大将が、崩れた。周囲の空気が凍りつく。
「殿!」
重臣、秋元勘解由が駆け寄る。肩を掴み、強引に引き起こす。
「……しっかりなされませ!」
叩きつけるような声。その一喝で、かろうじて意識が引き戻される。
――城を、取られた。その事実が、煙よりも濃く、すべてを覆い尽くした。
目の前の敵。拒馬。煙。矢。すべてが、一瞬で意味を失う。
守るべきものは、すでに背後で奪われている。
隆時は、ゆっくりと顔を上げた。煙の向こう。前田川の彼方。つい先ほどまで嘲っていた、小さな一団が、そこにある。
隆時は、ほんの一度だけ舌打ちをした。
それから、静かに告げる。
「……秋元勘解由」
「は」
「殿を、頼めるか」
短い問い。
「御意」
即答。それで、すべてが決した。
隆時は振り返らない。
「全軍――富岡へ引く」ただ、その一言。
勝敗は、すでに決していた。刃を交える前に。
混乱のただ中で、軍は崩れたまま南へと向きを変える。目を押さえ、咳き込み、互いに肩を貸しながら、ただ退く。統制も、隊列も、もはや形を成さない。
そして――
富岡の軍が引いていく様子を見て、大和田の一団からの声が聞こえる。
「勝ったぞォォォッ!」
雄叫びが、風に乗って届いた。嘲笑にも似た響きが、戦場全体を貫く。
だが――
その背を、大和田は追わなかった。
前田川の向こう、わずかな兵が、静かにそれを見送る。
追撃の一矢もない。ただ、確信だけがあった。
勝ちは、すでに取り切っているのだ。




