第54話 戦05
深夜。
城の気配がすべて沈んだ頃だった。虫の音だけが細く続き、遠くでは番の足音が一定の間隔で廊を刻んでいる。人の営みはすでに眠りへと落ち、灯もわずかに残るのみ。その静けさの底に、ほんのわずかな歪みが生まれた。
障子が、ほとんど音を立てずに開く。滑り込んできた影が布団の脇に膝をつき、低く押し殺した声で告げた。
「……起きてくだされ」
銀四郎だった。
修平が息を呑み、はっと目を開く。貴丸もすぐに体を起こした。
「……時間か」
「はい。元伯様たちは、すでに」
それ以上の説明はなかった。貴丸は一度だけ頷くと、音を立てぬよう布団を抜け出し、修平もその後に続いた。
廊に出ると、空気は冷たく、夜の湿り気を帯びていた。その端、影に沈む場所には、縄で縛られ、口を塞がれたまま気を失っている番衆が二人、転がされている。銀四郎がやったのだろう。無駄な乱れは一切なく、必要なことが淡々と、静かに片付けられていた。
一行は言葉を交わすことなく、そのまま番衆の脇を通り過ぎる。やがて倉庫の裏手に回ると、そこにはすでに人が揃っていた。
元伯と、選りすぐりの兵六名。皆、顔を布で隠し、息を殺している。
「遅かったのう。箱が狭くてな、体が固まっておるわ」
元伯は肩を回しながら小さく笑った。口ぶりこそ軽いものの、その目は明らかに昂っている。
「こんな城取りは初めてじゃ。面白いのう」
周囲の兵たちも、声こそ出さないが頷いていた。緊張と興奮が、同じ熱で混じり合っている。中でも年嵩の男、標葉衆の泉田正辰が、血の騒ぎを抑えきれぬように低く口を開いた。
「古今東西、聞いたことがない手でございます……その場におると思うと、どうにも血が騒ぎますな」
誰も笑わなかった。だが、否定する者もいない。ただ一人、修平だけが顔色を失っていた。
そんな修平を横目に、貴丸が軽い調子で言う。
「俺と修平はお味噌だ。後ろで大人しくついてくからな」
修平は勢いよく頷いた。
皆が「お味噌」という言葉に不思議そうな顔をしていたが、貴丸は気に留める様子もなかった。
そこへ、恰幅のよい壮年の幾世橋隆清が一歩前に出る。
「殿は私が務めます」
短い言葉に、元伯は小さく顎を引いた。それぞれが槍を手に取り、三つに分けて運ばれていた継ぎ槍を、音を立てぬよう慎重に繋いでいく。倉庫番はすでに縛られ、奥へ転がされていた。
準備は整っていた。
「行くぞ」
その一言を合図に、全員が影のように動き出す。向かう先は厨だった。
この刻、竈門の火はすでに落ち、人の気配もない。戸をわずかに開けて影のように滑り込むと、そこから先は銀四郎が先頭に立った。足運びに迷いはなく、曲がり、止まり、耳を澄ませては、気配のわずかな揺らぎを拾っていく。
奥へ進む途中、巡回の兵が姿を現した。しかし、その姿を認めたときには、すでに遅かった。
銀四郎は音もなく間合いを詰め、背後へ回り込む。手で口元を塞ぎ、もう一方の手で喉と腕を押さえ込むと、声を上げさせることなく、その体を静かに崩れ落とした。抵抗を許さぬまま制圧された兵には、棚塩胤綱たちがすぐさま縄をかけ、床を擦る音すら残さぬよう、影の中へと引きずっていく。
それは一度きりではなかった。
廊を進むごとに、同じことが繰り返される。見張りは気づく間もなく背後を取られ、声もなく制され、縛られていった。動きはすべて手慣れており、無駄がなく、速い。誰も余計な声を発さず、必要なことだけを確実に片付けながら、一行はさらに奥へと進んでいった。
やがて、幾つもの廊を抜け、富岡一族の寝所の前へと辿り着く。
襖の前には、やはり見張りが立っていた。槍を持ち、壁にもたれるようにしているが、意識は完全には落ちていない。銀四郎は一度だけ手を上げ、全員を止めた。
次の瞬間、その姿が消える。見張りが気づいたときには、すでに背後を取られていた。銀四郎の腕が首に絡み、口を押さえる。男は目を見開いたが、声は出なかった。体から力が抜け、そのまま崩れ落ちると、すぐに縄がかけられ、廊の脇へと引きずられていった。
音は残らない。寝所の前には、再び静寂だけが戻った。
奥方の部屋と、その隣に並ぶ子供たちの部屋。夜の気配が重く沈み、息を潜めるような空気が満ちている。一行は互いにわずかに呼吸を合わせ、襖の前で身構えた。
そして――襖が一気に開かれる。
「動くでない! 騒がねば手荒なことはせん!」
元伯の声が夜を裂くように響いた。
一瞬、室内の空気が凍りつく。だが、次の瞬間にはその静止が破られ、悲鳴が一斉に上がった。奥方も子供も侍女も、恐怖が堰を切ったように噴き出す。
兵たちは即座に動き、三者を一箇所へとまとめ上げた。押さえつけはするものの、刃を向けることはない。言葉と動きで制し、秩序を奪いすぎぬようにしながら、室内の人々を一か所に集めていった。
その混乱の中で、ほんの一瞬、貴丸と結衣の視線が交わった。わずかな間だったが、二人は確かに互いを捉えていた。
結衣は叫ばなかった。その代わり、一歩だけ前へと出る。
「……静かに。大人しくいたしましょう」
小さな声だった。だが、その声は室内のざわめきを確かに貫いた。
怒鳴りかけた奥方の言葉をそっと制しながら、結衣はさらに続ける。
「この方たちは……無闇に斬るつもりではないようです」
言い切る声音には、わずかな揺らぎすらなかった。
侍女は泣き、弟たちは震えている。それでも、結衣の落ち着きと襲撃者たちの統制が目に入るにつれ、室内は次第に落ち着きを取り戻していった。
その頃には、すでに外が騒がしくなっていた。足音が走り、怒号が重なり、城を包んでいた静けさは急速に削り取られていく。
やがて、廊の奥から声が響いた。
「何事だ!」
現れたのは、佐藤刑部左衛門忠光である。鋭い視線で場の異変を一瞬にして見抜き、そのまま空気ごと押し返すように立ちはだかった。
その前へ、元伯が静かに進み出る。慌てる様子はなく、ただ一つの所作のように頭巾へ手をかけ、ゆっくりとそれを外した。
「儂は――大和田玄蕃之丞慶虎。今は元伯と名乗っておるがな」
その名が落ちた瞬間、空気が凍るように張り詰めた。
周囲から小さな声が漏れる。
「鬼玄蕃だ……」
ざわめきは抑えきれずに広がったが、それでも誰一人、すぐには一歩を踏み出せなかった。
「聞け。この城は――大和田家嫡男・貴丸の采配により、すでに落ちた。刃を収めよ。大人しくなされよ。従えば、誰にも手出しはせぬ」
元伯の言葉が落ちると、場は一瞬、沈黙に包まれた。重く、息の詰まるような静けさだった。
だが、それを破る声が上がる。
「ふざけるな! 富岡は負けぬ!」
怒号とともに、一人の男が飛び出した。剣を抜き、そのまま元伯へと突進する。叫びが夜気を裂いた、その刹那、閃光のような動きが走った。
後方に控えていた標葉衆の牛渡勝家が、一歩も動かぬまま太刀を抜く。迷いはなかった。ただ必要な一線だけを切り取るような一閃が走り、鈍い音とともに男の腕が宙に跳ねた。血が散り、勢いを失った体はそのまま崩れ落ちる。
牛渡は刃を下ろし、静かに言った。
「命は取らぬ。先に刃を抜いたのはお主じゃ」
ざわめきが広がり、「綱時様!」と名を呼ぶ声が上がる。負傷者はすぐさま引き下げられていった。
しかし、両者ともまだ構えを完全には解いていない。緊張は収まるどころか、むしろさらに張り詰めていた。
一触即発の空気を破ったのは、佐藤刑部左衛門忠光の声だった。
「双方引け!」
その一喝に、場の刃が止まる。だが、争いが収まったわけではなかった。抜かれた刀は下げられただけで、誰も鞘には納めていない。一触即発の距離を保ったまま、両者は睨み合っていた。
その中央で、元伯が一歩前に出る。
「……この城は、すでに押さえた」
声は大きくない。だが、よく通った。
「奥方様、御子らは我らの手にある。これ以上の無益な血は避けたい」
言葉は静かだったが、選択肢は一つしかない。
佐藤は歯を噛みしめた。視線を奥方と子らへ向け、それから再び元伯へと戻す。しばらくの沈黙の後、低く、吐き出すように言った。
「……ここまで入り込まれては、致し方あるまい」
そして、周囲にも聞こえるように告げる。
「これ以上の戦は無用。城は、そちらのものだ」
その一言で、決着が落ちた。しかし、場の空気はなお張り詰めたままで、誰もすぐには動かなかった。
元伯はわずかに頷く。
「賢明なご判断にござる。ただし――まだ終わってはおらぬ」
そう言い切ってから、静かに続けた。
「今、隆時殿は我が大和田領へ向かっておられる。城が落ちたことも、早々にお伝えした方がよろしかろうよ」
佐藤は目を細め、その言葉の意図を測るように元伯を見た。城を落とされただけではない。自分たちが降伏したことも、隆時が戻る前に伝えられるというのだ。
場の空気がわずかに揺れる。佐藤は一瞬だけ鋭く元伯を睨んだものの、やがて視線を外し、背を向けた。
「……伝令を出せ」
短く命じると、控えていた兵が「はっ」と応じ、そのまま駆け出していく。遠ざかる足音が、やけに大きく響いた。
それを聞きながら、元伯はゆっくりと周囲を見渡す。
「襖を開けよ」
命に従い、四方の襖が次々と開かれていく。閉じていた空間が解かれ、部屋と廊が一つにつながった。逃げ場も隠れ場も、そこにはもう存在しない。
「隆時殿が戻るまで、ここでお待ち願う」
穏やかな声だった。だが、拒む余地は最初からなかった。
佐藤はそれを理解しているのか、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。奥方は唇を噛みしめながら子らを引き寄せ、侍女たちは声を殺して肩を震わせている。
その中で、結衣だけが静かに顔を上げた。そして、ほんの一瞬、貴丸と視線を交わす。
だが、貴丸は何も言わなかった。ただいつもの軽い表情に戻し、そのまま静かに立ち続けている。
その場には、なお張り詰めた空気が残っていた。刃は下げられ、声も収まっている。だが、誰も完全には息を抜いていない。夜はまだ終わっておらず、この一瞬の均衡の上に、すべてが乗っているようだった。
その中で、貴丸だけが、どこか場から浮いたように静かに立っている。先ほどまでと変わらぬ、あの軽い顔のままで。
誰も、その意味をまだ理解していなかった。
この夜――わずか十名の手勢で、一つの城が落ちた。
正面からではない。力でもない。積み上げた策と、隙を見逃さぬ目、そして迷いのない踏み込みだけで、すべてを覆したのである。
そして、その采配の中心にいたのが――大和田貴丸だった。
この名は、やがて記憶にも歴史にも残ることになる。だが、その名が表に立つことは、多くはなかった。
この夜の出来事は、後にそう語られる。
――すべての始まりとして。
そして後に、人はこの男をこう呼ぶ。
戦国不精、と。




