第43話 たんきり02
翌朝。まだ空気に夜の冷えが残るうちから、厨には再び灯が入った。
昨日のうちに貴丸が告げていた通り、この日は朝から晩まで籠もりきりの作業となる。握り飯が脇に積まれ、湯を沸かす音とともに、逃げ場のない一日が静かに始まった。
「ここが一番大事。気を抜いたら全部無駄になるからな」
貴丸はそう言い、すでに火の前に立っていた。その背は小さいが、立ち方だけは妙に動かない。誰も軽口を叩かず、自然とそれぞれの持ち場へ散っていった。
蒸籠の蓋が持ち上げられると、白い湯気が勢いよく立ち上り、餅米の甘い匂いが一気に広がった。敦丸が顔をしかめながらも火加減を見守り、敏が手早く布を整えて米の蒸し上がりを支える。
貴丸は指先で米粒を摘み、軽く潰した。
「芯が残ってるなぁ。もう少しか」
その呟きを受け、再び蓋が閉じられる。火は強すぎても弱すぎてもいけないらしい。
やがて蒸し上がった米が広げられ、白い塊がほぐされながら熱を逃がしていく。立ち上っていた湯気も、時間とともにゆっくりと細くなり、空気の中へ溶けていった。
一方、昨日仕込んだ大麦は、わずかに芽を覗かせていた。
空然が石臼の前に座り、ゆっくりと臼を回す。ぎり、ぎり、と乾いた音が厨に響く中、貴丸が手元を見ながら口を開いた。
「ここがポイント……えぇと、ここが肝要だ。細かくしすぎるとダメ。粒は残さないといけない」
空然は黙って頷き、力加減を変えた。すると、麦の砕ける音もまた変わっていく。
米の熱が落ちた頃合いを見計らい、貴丸が手を差し入れた。指先で温度を測るように、静かに触れる。
「……これかな」
短く呟くと、砕いた麦芽と水を加えて混ぜ始めた。重く、粘る手応えが、ゆっくりと変わっていく。
「熱すぎれば死んでしまう。冷たければ腐る。ここを外したら終わりなんだ……」
誰も返事をしなかった。ただ、その手元をじっと見つめている。
貴丸は何度も指を差し入れては温度を確かめ、布をかけ、桶の位置を変えた。見えぬものを相手にしているような、静かな作業が続いていく。
時間が流れ、外の光が動くにつれて厨の中の影も長くなり、やがてまた戻ってきた。誰一人として席を立とうとはしない。握り飯をかじる音さえ、小さく抑えられていた。
やがて、ふと匂いが変わった。蒸した米の香りの奥に、わずかな甘さが混じり始める。
「……出来たか……」
貴丸の声が低く落ちた。
その一言を境に、張り詰めていた空気がほんのわずかに緩む。だが、緊張が完全に解けたわけではなかった。誰もが、これがただの「作業」ではないと理解していたからだ。
その静けさの中で、空然がゆっくりと口を開いた。
「……貴丸殿。この工程、記録として残してもよろしいでしょうか」
言葉は穏やかだったが、意図は明確だった。再現するための記録である。
その隣で、お佳もわずかに頷いた。彼女は記録の意味を知っている。残すことが、どれほどの力を持つのかも。
貴丸はすぐには答えなかった。混ぜ終えた手を一度見下ろし、それから静かに布を整える。視線を落としたまま、ほんのわずかに考える間があった。
やがて顔を上げる。
「……やめとこ。これが外に出たら、今はまずいからな」
短く、だが迷いのない声だった。
誰も動かない。
「今は、まだ記録はいい。みんなの頭の中に置いておいて」
そう言いながら、貴丸は桶の位置をわずかに変えた。まるで話題そのものを、再び作業の中へ押し戻すような仕草だった。
「終わったあともしばらくは、紙には残さないでな」
空然は一拍置いて、深く頷いた。
「……承知いたしました」
お佳も言葉を発さず、ただ静かに目を伏せる。
記録は残らない。だが、それぞれの中には刻まれていく。
甘い匂いが、わずかに強くなった。厨の中では、目に見えぬ変化だけが、確かに進んでいた。
小皿に取り分けられたそれを、貴丸が指先で掬った。
「舐めてみてよ」
その言葉を聞くや否や、間を置かずにひょいと身を乗り出した希丸が、貴丸の指ごとぱくりと口に入れた。
「――甘っ!」
弾けるような声が上がり、場の空気が一瞬遅れて揺れる。
貴丸は一拍遅れて自分の指を見た。そして何も言わず、そっと腰のあたりで布に押し当てる。
一度。
――もう一度。
さらにもう一度、念入りに。
無言のまま、やけに丁寧に拭い続けるその仕草に、周囲の視線が微妙に集まった。やがて拭き終えると、何事もなかったかのように顔を上げ、にこりと笑った。
「甘いだろ?」
その一言に、ようやく他の者たちも手を伸ばした。
舌に乗せた瞬間、甘味が広がる。ただ甘いだけではない。絡みつき、じわりと奥へ残るそれは、これまで知るどの味とも違っていた。
お佳が目を見開き、敏が息を呑む。空然は言葉を失い、銀四郎はわずかに眉を寄せたまま固まっていた。
琴は静かに口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。
「……貴丸の言った通りですね」
低く、しかしはっきりとした声だった。
「これはすごいことだわ……ただの麦から……甘味ができるなんて」
その言葉に、誰も反論しなかった。
元伯は声もなく笑い、ただ肩を震わせていた。驚きと愉悦が入り混じったような顔である。
火は落とされ、釜の中の飴は静かに余熱で揺れていた。
その夜、誰もが興奮を抱えたまま眠りについた。胸の奥に残る甘さと、言葉にならぬ予感を抱えたまま。
そして三日目。朝の空気は、前日までとは明らかに違っていた。
同じ厨でありながら、そこに満ちる気配は張り詰め、誰一人として無駄口を叩こうとしない。昨夜の水飴がもたらした衝撃が、まだ胸の奥に残っているのだ。甘味という概念そのものが塗り替えられた――その実感が、全員の目の奥に宿っていた。
貴丸はすでに火の前に立っていた。いつもの軽さはなく、ただ静かに、しかし確かな手つきで鍋の様子を見ている。
「……始めるからな」
短い一言。それだけで、全員の背筋が自然と伸びた。
まず、昨日仕上げた水飴が再び火にかけられる。ゆっくりと熱を帯び、粘りを増していくそれは、もはやただの液体ではない。光を含み、重みを持ち、まるで生き物のようにゆらりと揺れていた。
「ここで焦らない。ここで急ぐと全部台無しになる」
貴丸の声は低く、抑えられている。鍋の縁から立ちのぼる湯気が、淡く視界を揺らした。
やがて貴丸が手を差し出すと、修平がすぐに応じ、小さな壺を渡した。中には、あの蜂蜜が入っている。
「入れるよ。量は……このくらいな」
躊躇なく、だが過不足なく。とろりと垂れる黄金色の蜂蜜が、飴の中へと溶け込んでいった。
続けて、貴丸は「味変」と言いながら、すり下ろした生姜を入れたものと、胡麻を入れたものも作った。
香りが一気に立ち上る。それは甘さだけではない。鼻を抜ける刺激と、奥行きのある香ばしさが混ざり合い、場の空気そのものを変えていく。
誰かが小さく息を呑んだ。だが、貴丸は振り返らない。ただ鍋を見据え、静かに混ぜ続ける。
「……ここからが本番」
やがて火から下ろされた飴は、太い棒へとかけられた。衣桁に似たその棒に、重たく垂れ下がっている。
貴丸は両手でそれを掴むと、ぐい、と引いた。
伸びる。
ゆっくりと、しかし確実に。
そして折り、重ね、再び引く。その動作が何度も繰り返された。
「腕を大きく回す。ためない、一気に引くっ!」
言葉は簡潔だが、そこに迷いはない。
「次、空気を入れるエンペラ……あ、工程」
繰り返すたびに、飴の色が変わっていく。透明だったそれが、次第に白みを帯びていった。
誰もが、その変化を目に焼き付けていた。
やがて貴丸は手を止めた。白く、柔らかく、それでいて芯のある塊が、そこにできあがっていた。
「……いいかんじ、じゃまいかな?」
短く呟くと、次は成形に移る。飴を細く、均一に伸ばしていった。
包丁ではなく小刀を手に取り、軽く叩くように刻む。トントン、と乾いた音が響き、その切り口は驚くほど軽やかで滑らかだった。
飴でありながら、歯切れを予感させる形である。
「熱いうちにやる。迷わない」
言葉通り、貴丸の手は止まらなかった。やがて切り揃えられたそれらが、竹の皮へと包まれていく。一つひとつ、丁寧に。
完成した。
誰もすぐには手を伸ばさず、ただ目の前にあるそれを見つめていた。
貴丸が一つ取ると、無造作に口へ放り込んだ。
「……うん。イケるな」
それだけ言って、顎を引く。
その合図のように、空気が動いた。恐る恐る、ひとつ。そして、またひとつ。
――軽い。
まず、その食感に驚いた。歯を入れた瞬間、さくりと砕け、すぐにほどける。
そして、甘さ。
だが、それは水飴の時とは違っていた。蜂蜜のような柔らかさがある。
甘い、では足りない。
これは――完成している。
誰も言葉を発しなかった。発する必要がなかったのだ。
その沈黙の中で、ただ一人、琴が静かに口を開いた。
「……貴丸」
声は低く、しかしはっきりと響く。
「これは……確かに外に出せば、争いの種になりますね」
否定ではない。理解した上での言葉だった。
貴丸は一瞬だけ視線を上げ、それから小さく頷いた。
「だから、秘密なんだよ」
それ以上は言わない。だが、その場にいる全員が悟っていた。
これはただの甘味ではない。
人を動かし、富を生み、そして――奪い合いを招くものだ。
静けさが戻る。竹の皮に包まれた飴が、淡い光を受けて並んでいた。
たんきり飴でした。
斜めに切った棒状の飴の断面で、丸い菱形の形が一般的でしょうかね。
痰を切るからたんきり飴になったと、昔聞きました。
本当かどうかは、分かりません。。
ちなみに、貴丸がプロ級の腕前なのは、
なぜか、、、、前世の貴丸の仕事が、、、なんて書くかどうか、
それとも、小説だから貴丸が”なんでもできるマン”なのか、、
その辺はおいおい、、書く??




