第42話 たんきり01
貴丸、ただの甘味作りなのに、、真面目回です。
まだ日も昇りきらぬ早朝、厨の戸は内側から固く閉ざされていた。
外の気配は遠く切り離され、わずかに残るのは、くべられた薪の焦げる匂いと、湿った土間の冷えだけである。
普段であれば人の出入りと声が絶えぬ場所が、今日は妙な静けさに沈んでいた。
意図的に選ばれた者だけが残され、他はすべて外へと出された空間。
その不自然さは、言葉にせずとも誰の胸にも伝わっている。
中央に立つ貴丸は、大麦の入った袋を抱えていた。
その横で希丸が、押し付けられた餅米の重さに顔をしかめ、腕を微かに震わせている。
「……これでこれで何かするの?」
敦丸が小声で呟きながら、ちらりと餅米をつまもうとする。
すぐさま琴の視線が刺さり、敦丸は何事もなかったかのように手を引っ込めた。
希丸はというと、漸く餅米の袋を下ろし、落ち着きなく視線を巡らせながらも、どこか楽しげに事の成り行きを待っていた。
敏とお佳は一歩引いた位置で控え、元伯と空然、銀四郎が並び立つ。
そして、そのすべてを見渡すように、琴が腕を組み、微動だにせず立っていた。
その視線を正面から受け止めながら、貴丸が口を開く。声は低く、短い。今日はいつもの軽さは影を潜めていた。
「今日は、少し真面目な話。これから作るものは――絶対に外に出さないでほしい。作り方も、誰にも話さない。そして、なぜ俺が作れるのかも聞かないで。それを守って」
冗談めいた響きは一切ない。その異質さに、場の空気がわずかに張りつめた。
希丸が小さく「お、なんかすごいな」と呟く。
誰一人として動かぬことを確認し、貴丸は静かに腰へ手をやる。
珍しく差していた短刀を抜いた。
刃に灯りが細く走る。ためらいもなく、それを台へと置いた。
「ここに手を当てて誓ってくれ。もし誰かに話したら――これで自分の腹を切る。約束。それが守れないなら、今ここで出ていってほしい」
重みのある言葉が落ちる。
「……腹、切るの?……」
敦丸が顔を青くしながらぽつりと漏らす。
誰もすぐには動かなかった。だが、その沈黙は拒絶ではない。ただ、理解し、受け止めるためのわずかな間であった。
最初に動いたのは希丸だった。
「面白そうだな。誰にも言わないから手伝うぞ!」
場違いなほど軽い声を上げ、そのまま迷いなく刃に手を触れる。
「冷てっ」
小さく肩を跳ねさせながらも、どこか楽しげに笑っている。
続いて、敏が一歩進む。
無言のまま、静かに刃へ手を置く。その後にお佳、空然、銀四郎と、順に触れていった。
敦丸は震えながらも、覚悟を決めたように手を伸ばし、指先でそっと刃に触れる。
最後に元伯が「面白そうじゃ」と低く笑い、躊躇なく手を置く。
そして琴。何も言わず、ただ刃に手を当て、ゆっくりと離した。その目は終始、貴丸から逸れなかった。
全員を見届けると、貴丸は短刀を納める。
「……今から甘味を作る。たぶん、この日の本で作れるのは俺だけだと思う」
淡々とした声だった。
「これは人を喜ばせる。だけど――同時に、争いの種にもなるかもしれない」
その言葉に、場の空気がさらに一段沈む。
空然が目を見開いたまま、小さく息を呑んだ。
「甘味って……これだけで作れるの?」と敦丸がぼそりと聞くが、貴丸は答えない。
「それを分かった上で、聞いて」
誰かが喉を鳴らす。
静寂の中で、その音だけがやけに大きく響いた。
「三日かかる。今日はその最初――麦の芽を仕込む」
そう言って、貴丸は袋を開いた。
乾いた大麦が籠へと広がり、さらさらと擦れる音を立てる。
井戸から汲んだ水が注がれる。
澄んだ水面に波紋が広がり、粒がゆっくりと沈んでいく。乾いていた麦が水を吸い、わずかに色を変えていく様が、静かに進んでいた。
貴丸は手を差し入れ、ゆっくりとかき混ぜる。
指先で確かめるような動きだった。
「次に、このままじゃ使えない。だから――目を覚まさせる」
短い説明。だが、その手つきは迷いがない。
希丸が待ちきれずに手を突っ込み、真似をする。
「お、なんか変わってきたな」
ざぶざぶと水をかき回す。
その勢いで水が跳ね、敦丸の顔にかかる。
「つめたっ!」
敦丸が顔をしかめると、希丸は「修行だ修行」と笑う。
やがて、皆も順に手を入れ、同じ動きを繰り返す。
冷たい水が指を包み、最初は軽かった粒が、次第に重みを帯びていく。
時間が過ぎる。
希丸は途中で飽きて、床に座り込み足を投げ出した。
「まだかー、これ」ぼやきながら天井を見上げる。
敦丸はというと、いつの間にか琴の膝に頭を預けていた。
すぐに寝息を立てる。鼻の先から提灯が膨らみ、間の抜けた顔をしていた。
それでも、籠の中では変化が続いている。
夕刻。
貴丸は静かに水を切り、大麦を平たい籠へと広げた。
濡れ布を被せ、火から離れた、だが冷えすぎぬ場所へと移す。
その手つきは、どこか異様なほど丁寧だった。
「ここから中でちょっとずつ動くんだ。見えないけどな」
ぽつりと落とされた言葉。
誰も返さない。ただ、その籠を見つめる。
見た目には何も起きていない。
だが、確かに何かが始まっている――そんな気配だけが、静かに場を満たしていた。
火の灯りが揺れる。
影がゆっくりと伸びる。
その沈黙を、元伯がふと破った。
腕を組み、顎をさすりながら、貴丸へと視線を向ける。
「……して、貴丸よ」
低く、探るような声である。
「なぜ、この時期にこれを作る」
問われた貴丸は、一瞬だけ視線を上げ――
次の瞬間、口の端をわずかに吊り上げた。
「もちろん、城を取るためしかないだろ」
あまりにもさらりとした返答であった。
そのまま、籠へと目を戻しながら続ける。
「雑穀だけだと、ちょっと弱いからな。もう一手、欲しいんだ」
火の明かりが、その横顔に影を落とす。
幼い顔立ちに似つかわしくない、計算の色がそこにあった。
「――”多算勝、少算不勝。而況於無算乎”、だろ?」
声を抑えて笑う。
その一言に、元伯の眉がわずかに動いた。
やがて、抑えきれぬように喉の奥で笑いが転がる。
「はっ……」
小さく息を漏らし、肩を揺らす。
(この孫は……)胸の奥に湧き上がるのは、呆れではない。
明らかな愉悦であった。ただの思いつきではない。
目の前の一手が、先へ先へと繋がっている。
その組み立てを、十歳の子が当然のようにやってのけている。
元伯は、ゆっくりと目を細めた。
その視線の先で、貴丸は何事もなかったかのように籠を見つめている。
一方で、そのやり取りを聞いていた空然は、声もなく固まっていた。
(……城取りのために、甘味を?)
思考が追いつかない。いや、繋がらないのではない。繋がりすぎているのだ。
養蜂も、商いも、そして今のこれも。
すべてが一つの線として結ばれていく。
その中心にいるのが、この子だという事実に――
(本当に、十歳なのか……?)ぞくり、と背筋を何かが走った。
火が、ぱちりと弾ける。
誰も言葉を続けない。
だが、静まり返った厨の中で、確かなものだけが共有されていた。
――この三日間は、ただの飴作りでは終わらない。
その予感だけが、重く、静かに沈んでいた。
多算勝、少算不勝。而況於無算(算多きは勝ち、算少なきは勝たず):
孫子第1篇、始計篇の一節。勝敗は準備と読みの量で決まるという意味。
よく考え、先を読み、手をいくつも用意している者は勝つ。何も考えず、その場しのぎの者は負ける。




