第31話 相馬盛胤との対面02
通された座敷は、先の間とは明らかに空気が違っていた。
余計な飾りはない。だが、整えられたというより――整えられ続けてきた気配がある。
その瞬間、空気がさらに一段重くなる。
やがて、奥の襖が開いた――
……が、すぐには人は現れない。
開かれたままの襖の向こうに、気配だけがある。
誰も動かない。
呼ばれもしない。
そのまま、時間だけが落ちていく。
(あれ?……なんでだろ……意外に待たされるな…こんなものなのかな?)
貴丸は、わずかに首の内で思う。
もっと早く、すぐにでも対面が始まるものだと思っていた。
だが実際は違う。ただ待たされる。何も起きないまま、場だけが張り詰めていく。
その“何もなさ”が、逆に重い。
静けさが続く。
その中で――
貴丸の意識が、ふっと緩んだ。
視界の輪郭が、わずかにぼやける。音は聞こえている。だが、どこか遠い。現実に薄い膜が一枚かかったような感覚だった。
瞬きをひとつ。
まぶたが、思ったよりも重い。
(……あれれ)
自分では、緊張していないつもりだった。むしろ、いつも通りに近いとさえ思っていた。
だが、身体の方は違ったらしい。
歩いてきた疲れか、それともこの場の空気か。
理由は分からない。
ただ、張っていたものが、どこかで切れたのは確かだった。
呼吸が、わずかに深くなる。
その一息に合わせるように、意識がゆっくりと沈んでいく。
(……いや、まずい)
頭では分かっている。
ここがどういう場所かも、この先に何が待っているかも。
だが、それとは別のところで、身体が勝手に楽な方へ落ちていく。
まぶたが、もう一度下がる。
今度は、戻りが遅い。
(……そういえば)
ふと、どうでもいいことが浮かぶ。
(”抱き枕のすずちゃん”……この旅に持ってきてなかったな)
いつもなら、あれを抱えて寝ている。
(……あれが無いと、ちゃんと寝た気しないんだよな。親父様に持ってくからと言ったのに、嵩張るからダメって…)
思考が、ゆるく流れる。
(朝からずっと馬に揺られた後は歩きだったし、馬に乗るってのもかなり体力を使うんだよな……それに、昨日、あんまり寝てないからか……)
普段なら、一日十五時間は寝ているはずだった。
それを思い出した途端、身体が妙に納得してしまう。
(……ああ、それか…)
理由がついた瞬間、逆に抗う力が抜けた。
それでも――
意識だけが、ふっと遠のいた。
まるで、灯りを少し絞られたように。
貴丸は、気づかぬうちに、眠気へと引き込まれていきそうになる。
――その時だった。
静かな足音とともに、三つの気配が入ってくる。
小姓が前へ出て、場を整えるように一礼し、気配を引いた。
続いて、重臣・岡田安房守義胤が姿を現す。
その後ろ、嫡子の彦法師丸が一歩遅れて入り、控える位置を取る。
そして最後に――
相馬盛胤が現れる。
その瞬間、場の空気が完全に変わった。
正面には相馬の当主・盛胤が座し、その左右に重臣たちが控える。
いずれも一様に無言で、ただ視線だけが入ってきた者を測っていた。
その中に、まだ若い彦法師丸の姿もある。年の頃は貴丸と大差ない。
だが、背筋はまっすぐに伸び、膝の置き方、指先の収まりに至るまで、張り詰めたものがあった。
場に“合わせている”のではない。場を“受けて立っている”姿だった。
慶久が一歩進み出る。
その拍子に、慶久は背後の貴丸へ鋭い視線を走らせた。
「余計なことは言うな。座を乱すなよ」――声なき警告が、射るような眼差しに込められている。
それに対し、貴丸はただ視点も合わず、どこか他人事のような顔で受け流した。
慶久は小さく息を整えると、深く、無駄のない一礼を捧げた。
深く、無駄のない一礼。
「相馬家御当主・盛胤様の御意により参上仕った。請戸領主、大和田玄蕃之丞慶久にござる」
声は抑えられているが、よく通る。
「此度、嫡男貴丸を伴い、御前にて御挨拶申し上げたく、罷り越しました」
簡潔で、過不足のない口上だった。
その後ろで、貴丸も一応は進み出る。
視線はまっすぐ。だが、その立ち姿にはどこか芯の抜けたような緩さがあった。
礼も形としては崩れていないが、緊張の色は薄い。
一通りの挨拶が終わる。
間が広がる。
誰もすぐには口を開かない。場の主導は完全に盛胤にある。沈黙そのものが、問いの代わりだった。
――その静けさの中で。
盛胤が、ゆるやかに口を開く。視線は慶久へ。
「……大和田殿、此度は、富岡の兵をよく退けた」
そして、慶久を見つめて言う。
「その後――嫡男がまだ元服前にもかかわらず、富岡の本拠に入り、城と米蔵を焼いたとも聞く。いずれも、見事な働きであった」
重臣たちの間に、わずかなざわめきが走る。賞する言葉としては、十分すぎるものだった。
そのまま、盛胤の視線がゆっくりと動く。
慶久から、隣の貴丸へ。
――そこで、ほんのわずかに、目が止まった。
しかし、その時だった。
こくり、と。
貴丸の頭が、わずかに落ちた。
すぐに戻る。
ほんの一瞬、意識を引き戻したように。
だが、次の瞬間。
もう一度、ゆっくりと前へ傾ぐ。
今度は戻らない。
完全に、力が抜けていた。
「……」
それに気づいた周囲の空気が、わずかに揺れた。
ざわ、とまではいかぬ。だが、確かに気配が動く。
「……」
彦法師丸の眉がぴくりと動いた。
相馬の当主の御前で、居眠り。
あり得ぬ。
そう断じるには十分な光景だった。
幼いとはいえ、ここがどこかは分かっているはずだ。
ましてや、父に連れられて来た場である。礼を失するにも程がある。
彦法師丸の胸に、静かな怒りが芽生える。
(……何なのだ、この者は)
軽蔑に近い感情だった。
だが――盛胤は、その瞬間にすでに見ていた。
ただの居眠りではない。
(怖れておらぬのか)
その一点だけが、妙に鮮明だった。
この場は、子供にとっては異様だ。見知らぬ大人に囲まれ、逃げ場もない。
普通であれば、身体は固まる。たとえ取り繕えても、どこかに緊張は滲むものだ。
だが、この童には、それがない。
(緊張も……ないか)演技ではない。
緩みきっている。
だが、それは同時に――
(読めぬな)という感覚でもあった。
本当に何も考えていない愚か者か。
それとも、ここが“危うい場”ですらないと、どこかで見切っているのか。
盛胤はわずかに目を細める。
十歳で敵地に入り、火を放ち、城と米倉を焼き、戻ってきたという報。
それが誇張ではないとすれば、この姿とは結びつかぬ。
だが――
(もし、結びつくならば)
そこにあるのは、才か、狂気か。
あるいは、そのどちらでもない何かか。
盛胤の視線が、ほんの一瞬だけ彦法師丸へ流れる。
背筋を伸ばし、微動だにせぬ嫡子。
正しい。あまりにも、正しく育っている。
(……さて)
再び貴丸へと視線を戻す。
(どちらが、将来、この乱世を生き残るのか)
その答えを、見誤るわけにはいかなかった。
わずかな間。
そして、盛胤が静かに口を開く。低く、よく通る声だ。
「……大和田殿、貴丸殿に、少々問うてもよろしいか」
不意に名を呼ばれ、慶久がわずかに姿勢を正す。
「はっ」
短く応じたのち、振り返る。
その視線の先で――
貴丸のまぶたが、わずかに落ちかけていた。
(……おい)慶久の眉が、かすかに寄る。
半歩だけ寄り、周囲に届かぬ声で告げる。
「……おい、眠るなよ」
貴丸は一度、ゆっくりと首を振った。
「……大丈夫です……たぶん?」
その曖昧さに、慶久のこめかみがわずかに引きつる。
(大丈夫ではなかろうが……)
だが、この場でこれ以上言葉を重ねるわけにもいかない。
そも、断れる問いではない。
一瞬だけ逡巡し――
やがて、前へと向き直る。
「……御意に」
短く、そう告げた。
その声に、場の視線がわずかに動く。
盛胤はただ一度だけ頷いた。
そして、その視線は再び貴丸へと落ちる。




