第29話 相馬中村城へと到着
海からの風がわずかに湿り気を帯び、土の匂いと混じり合う頃、一行は陸奥国宇多郡日下石(現在の福島県相馬市日下石周辺)のあたりへと差しかかっていた。
緩やかに流れる宇多川が遠くにだが視界に入り、その水面は陽を受けて静かに光を返している。
今日は天気が良いので、右を向けばうっすらと海が見える。磯部の海だろうか。
道沿いには田が拓かれ、ところどころに人の営みの跡が見えるが、まだ粗く、どこか余白を残した景色であった。
その中で、貴丸だけがわずかに視線を泳がせている。
(……違うなぁ)見えているはずの景色と、頭の奥にある“もう一つの景色”が、重なってはズレていく。
「この左……前世だと百尺観音があったはずだがなぁ」
小さく呟く。だが、当然そこには何もない。草と土と、ただの小山があるだけだ。
(まぁ、あるわけがないか)自嘲気味に口の端を歪める。
さらに視線を移す。
「この辺の右が……自動車教習所……いや、まだ影も形もないよな」
馬の揺れに合わせて、記憶の中の建物が一つ一つ消えていく。
「……ここが警察署のあたりか」
無意識に口に出る。
「ということは、この坂を左に下れば……家があったはずだな」
やがて宇多川がはっきりと見える位置に出た。
水の流れは変わらない。だが、周囲が違う。川の流れを追い、その先へと目を細める。
そこまで見て、ふと現実に引き戻される。
慶久が怪訝そうに振り返っていた。
「貴丸、先ほどから何を申しておるのだ」
一瞬だけ間が空く。
貴丸はすぐに視線を外し、何事もなかったように答えた。
「いや、今回の口上をどうしようかなと……」
「……そうか」
納得したわけではない声だったが、慶久はそれ以上問わず、前へと向き直る。
その背を見ながら、貴丸は小さく息を吐いた。
(……あったはずのものが、何もない)当たり前のことだ。
だが、目の前でそれを一つずつ確認するたびに、妙な空白が胸に残る。
やがて一行は宇多郡中村――城下へと入った。ここからは馬を降りて歩いて行く。
町の様子は、記憶の中の整った街並とはまるで違う。道はまっすぐに通らず、角を曲がり、また曲がり、視界を断ち切るように続いている。
家々は道に沿って不規則に並び、開けた見通しは意図的に潰されていた。
(……やっぱりこうなるか)頭の中の知識と、目の前の現実がようやく一致する。
道が曲がりくねり、見通しが悪くなっている。(敵が攻め込んでも、一直線に進めないように、わざと曲げてるんだっけ)
歩けば歩くほど、その構造が見えてくる。
(便利さより、防ぎやすさ、か)
前世の“効率”とはまるで逆の発想に、わずかに口元が歪んだ。
やがて宇多川を越え、さらに進む。
視界が開けた瞬間、小高い丘の上に城が姿を現した。
(……あれが相馬中村城か)記憶の中では、ただの“場所”でしかなかったものが、いまは明確な威をもってそこにある。
その手前、大手門が見えてきた。
「……この左のあたりに、小学校があったはずなんだがな」
ぽつりと漏らす。
すぐ横から、慶久の声。
「しょうがっこうとは何だ」
「いえいえ、何でもないっす」
即座に切り捨てる。それ以上は言わない。
やがて門前に至る。
門は高く、厚く、そこに立つ門番の視線もまた鋭い。城の外と内を分ける、明確な境であった。
慶久は一歩進み、姿勢を正す。
「相馬家御当主・盛胤様の御意により参上仕った。請戸領主、大和田玄蕃之丞慶久にござる」
そして、徐に懐より書状を取り出す。
「此度、嫡男貴丸を伴い、御前にて御挨拶申し上げたく存ず。まずは書状、御取次ぎ願いたい」
差し出された書状を、門番は両手で受け取る。
「はっ、お聞きしております。ただいまお取り次ぎいたします」
足早に城内へと消えていく。
門前に、わずかな静寂が戻る。
その中で貴丸は、城と、その周囲の地を改めて見上げた。
(同じ場所なのに――まるで別の世界だな)
懐かしさとも違う、喪失とも違う。
ただ、確かに“自分が知っているはずの場所”が、まったく別の姿でそこにある。
その違和だけが、静かに胸に残っていた。
取り次ぎのために門の脇の控えの間へと通され、わずかな静けさが落ちた。
障子越しの光が淡く差し込むその間で、貴丸は何とはなしに視線を落とす。
外では人の気配が行き交っているはずなのに、この場だけが切り離されたように、妙に時間が緩やかだった。
ここでようやく、腑に落ちた。
一泊二日をかけて相馬の殿様に謁見する――ただそれだけのことが、なぜあれほど面倒に感じられたのか。
貴丸はずっと、自分は無精者だからだと片付けていた。
遠出も、格式ばった挨拶も、ただ煩わしいのだと。
だが違う。(……本当は、来たかった)
胸の奥で、静かに言葉が形になる。
来たくなかったのではない。
来てしまうのが、怖かったのだ。
これまで貴丸の中で、この世界はどこか現実から切り離されたものだった。
転生した戦国の世、福島の地――そう理解してはいても、それはどこか遠く、薄膜一枚を隔てたような感覚で、どこまでいっても“もう一つの世界”でしかなかった。
だが――
(ここは……違う)
見覚えのある地形。川の流れ。丘の高さ。
記憶の奥に沈んでいた“あの場所”と、目の前の景色が重なる。
(そうだ…俺は…ここ相馬市に…住んでいたんだ)
前世で通った小学校。遊び場だった城跡の馬陵公園。
そこには城などなく、社が建ち、春には桜が咲き、堀ではライギョや鯉を釣って遊んだ。何でもない日常が、確かにそこにあった。
(そして、ここを右に行けば、よく通った中華料理店の蓬莱閣があったな。あの強面のおじさん、まだ元気かな…)
その断片が、今この瞬間、別の形で目の前に存在している。
(同じ場所で……違う時間なんだ)
理解した瞬間、胸の奥がわずかに軋む。
懐かしさが、込み上げる。
だが同時に、それを正面から認めてしまえば、何かが決定的に崩れてしまうような気もした。
思い出そうとする。
あの頃の誰かの顔。
名前。声。
――だが、浮かばない。
輪郭はあるのに、そこだけが霧に包まれたように曖昧で、どうしても掴めない。
(……なんでだ)懐かしいはずなのに、思い出せない。
確かに大切だったはずなのに、形がない。
その不気味さと、喪失にも似た感覚が、胸の奥に静かに沈む。
来たかった。
確かめたかった。
だが同時に、それを知ってしまうのが怖かった。
この地に立てば、自分がどこにいるのかを、はっきりと突きつけられる。
夢でも、仮でもない。
前世と今とが、ただの記憶ではなく、一本に繋がっているのだと。
(……逃げてた、のか)だから、来たくなかった。
面倒だからではない。
無精だからでもない。(……いや、不精は多少はありそうだ)
知ってしまうのが、怖かっただけだ。
そして今――
その曖昧だった境界が、静かに消えていく。
前世でもなく、夢でもなく、今でもなく。
すべてが一つの現実として、ここにある。
その感覚だけが、逃げ場なく胸の奥に落ちていった。
あら、この回は、いたって真面目なシーンになりました。。
〈解説〉
百尺観音:
荒嘉明氏が30年以上を費やして、岩山を切り開き一人で彫り続けたが、完成を見ないまま他界した。
現在の高さは約27mで、台座部分が完成していたら約36mとなり、日本一の磨崖仏となった可能性がある。
自動車教習所:相馬市程田にある福島県東部自動車教習所。
警察署:相馬警察署。
宇多川:福島県伊達市の霊山が源流で、東に流れて宮城県との県境に建設された松ヶ房ダムに流入して、再び相馬市内に戻り、松川浦を経て尾浜から太平洋に注がれる。42.6キロの二級河川。
小学校:相馬市立中村第一小学校。140年以上の歴史がある。馬陵公園の目の前にある。
蓬莱閣:中華料理店。相馬市中村桜ケ丘。JR相馬駅から徒歩10分。
馬陵公園:中村城跡公園。桜の古木が数百本以上あり、桜が一斉に咲き乱れる姿は圧巻。福島県の浜通りを代表する桜の名所。城跡には相馬中村神社(妙見中村神社)、相馬神社がある。
(参考・参照:福島県相馬市役所HP・福島県観光復興推進委員会・相馬市観光協会・Wikipedia)
ちなみに『第28話』、貴丸君、踊りすぎたのかな? あまり人気がない話になりそう。。
『すずちゃん』、『貴丸君のオタ芸』、そこまでやるとやりすぎなのか、、と反省。。。
ただし、書かないとは言っていないww




