第223話 敦丸と元伯の最期
そして、腹に刀が刺さった貴丸は、大きくびくんと痙攣した。
その直後、貴丸の身体からすっと力が抜ける。
白目を剥いたまま、頭がぐらりと傾いた。口元からは舌がだらりと垂れ、先ほどまで浮かんでいた表情も完全に消えている。両腕は力なく地面へ落ち、指先すら動かない。胸もまったく上下せず、呼吸している気配さえなかった。
腹から突き出した刀は、貴丸の身体を貫いたまま、背中側へと刃を覗かせている。周囲には赤い血が飛び散り、白煙の中で濡れた着物は見るも無残なほど血に染まっていた。
先ほどまで生きていた人間とは思えないほど、完全に力を失った姿だった。誰が見ても、すでに事切れたとしか思えない。
その貴丸を見つめていた元伯もまた、凄惨な姿で立ち尽くしていた。
先ほどまで貴丸の切腹を目の当たりにし、慟哭して荒れ狂っていたその動きが、いつしかぴたりと止まっている。両腕を大きく広げ、両足を肩幅ほどに開いたまま、堂々と立っていた。
顔面は血と泥にまみれ、乱れた髪は逆立っている。見開かれた両目は凄まじい形相で前方を睨みつけ、口元からは赤い血が一筋、顎へと伝っていた。
そして、その腹には一本の刀。
刃は腹を貫き、背中からもその先端が突き出している。着物は腹を中心に真っ赤に染まり、そこから流れ出た血が地面へ滴り落ち、周囲には無数の赤い飛沫が散っていた。
白煙がその巨体の周囲をゆっくりと流れていく。
まるで地獄から現れた鬼が、最後の力を振り絞って立っているかのような姿だった。
風が吹き抜ける。微動だにしない元伯の巨体に、冷たい風が吹き付けた。
そして――。
どすんっ! 大樹が根元から倒れたかのような音を立て、元伯の巨体が前へ崩れ落ちた。
地面が大きく揺れる――かに見えた。だが、元伯は片膝をついただけだった。
腹を貫いた刀をそのままに、苦しげに息を吐く。
そして、白目を剥いたまま微動だにしない貴丸へ目を向けると、大きなため息をついた。
「……おい、貴丸。そろそろ死んだふりをやめぬか。おい、起きぬか」
返事はない。しばらく沈黙が続いた。
すると――。
「……よっこいしょういち、っと!」
そう呟き、貴丸がむくりと上体を起こした。そして、何事もなかったかのように元伯へ向かって、にっこりと笑う。
「俺は貴丸じゃありません。敦丸ですぅー!」
「……」元伯が無言で見つめる。
「孫三郎軍で活躍した敦丸君は、本日ただいま、この場所で、お亡くなりになりました〜!」
敦丸――いや、貴丸は、楽しそうに笑った。
元伯はしばらくその顔を見つめ、やがて呆れたように口を開く。
「……お前は何を言っておるのだ。敦丸は請戸で生きておるわい。縁起でもないことを申すな」
「じゃあ、俺は敦丸の物の怪かなぁ」
「……もうよいわ」
元伯は額を押さえ、深々とため息をついた。
「しかし、貴丸……よくもまあ、このようなものを用意しておったな」
先ほどまで外にいた三兵衛が廃寺の中へ戻ってきた。三兵衛は貴丸の姿を見ると、呆れたように頷いた。
「まったくでございますよ」
貴丸は自分の腹に刺さった刀を見て、それから元伯へ目を向けた。
「じいさんも、見事に腹に刀が刺さってるね。あははははっ」
元伯が苦笑する。「笑い事ではないわ」
貴丸は笑いながら、自分の着物へ目を落とした。
「……あーぁ。着物、真っ赤になっちった。これ、もう着られないかなぁ」
着物には、血に見せかけた赤い顔料がべったりと付いていた。破れた腹の部分へ手を差し込み、貴丸は中を探るように指を動かした。
「ほら、ここも破れちゃったね、前に堺の皮屋さんに作ってもらったんだよ。手力(手品)に使えるかなと思ってさ」
着物の下には、革で作ったU字型の仕掛けが隠されていた。腹の前後に折れた刀を差し込めるようになっており、着物の上から見れば、刀が身体を貫いているように見える。
「じいさんのも同じ仕掛けだからね」
貴丸は、腹に突き刺さっているように見える刀を指で軽く叩いた。三好元長軍との戦で拾った、折れた刀である。
孫三郎軍との戦に備えていた頃、万が一、戦に敗れて逃げることになった場合に使えるかもしれないと、念のため作らせておいたものだった。
「いやー、まさか本当に使うことになるとは思わなかったよ。あはは」
貴丸は楽しそうに笑った。
「高国様の使者とは、すっかり険悪になっちったからね。何が起こるか分からないと思って、念のため持ってきたんだ」
そう言って、腹に刺さったように見える刀を指で軽く叩く。
「だって、相手を殺しちゃったら話が大きくなっちゃうでしょ。俺が死んだことにしたほうが、ずっと面倒が少ないんだよ」
貴丸は腹に刺さった刀を眺め、けろりと笑った。
「それに、もし『本当に死んだのか?』って疑われて、介錯でもされたら大変だったよ。首を落とされちったら、さすがに手力じゃ誤魔化せないからさぁ」
「……縁起でもないことを平然と言うでないわ…」
元伯が呆れた顔をする。
「でも、そう考えると、今回は運がよかったよね。あの高国様の周りにいた人たち、謁見したときに一目見て分かってたよ。実際に人が死ぬような場面を見たことがないんだって」
「ほう……」
「頭と盤面上で戦をしてきた人たちでしょ。だから、俺とじいさんが多少おかしなことをしてても、そこまで気づかないんだよ」
貴丸は、自分の着物についた赤い顔料を指でつまんでみせた。
「だって、血の色がこんなに綺麗なわけないじゃん。それに……なんで俺たちが、わざわざ切腹しなきゃならないんだよ」
そう言って、貴丸は腹に刺さった刀を指で軽く叩いた。
元伯は呆れたように貴丸を見つめ、三兵衛も深々と息を吐いた。
「……お前は、本当に何を考えておるのだ……ワシの孫とはいえ…」
元伯が呆れたように呟く。
「まぁまぁ、おかげで命拾いしたんだから、結果オーライでしょうよ」
貴丸がけろりと言うと、元伯は怪訝そうに眉を寄せた。
「……なんじゃ、その『おーらい』とは」
「え? ああ、細かいことは気にしなくていいよ」
「細かいことではないわ」
元伯は呆れたように言いながら、貴丸をしばらく見つめた。
やがて、深々と息を吐く。
「お前は……なんという童なのだ。付き合いきれぬ」
その声音には呆れが滲んでいたが、同時に、無事に生きていることへの安堵も混じっていた。
三兵衛も呆れたように頷いた。
「さっさとここを離れよっか。早く着替えたいしねぇ」
貴丸はそう言って立ち上がると、三兵衛と元伯を促して廃寺を後にした。しばらく歩いたところで、貴丸が自分の着物を見下ろす。
「……この赤いの、目立つよねぇ」
元伯も苦い顔で頷いた。
「これで妙心寺へ戻れば、誰もが驚くであろうな」
すると貴丸は、荷物を抱えて歩いている三兵衛へ目を向けた。
「そうだ。三ちゃんの着物、汚れてないね……ねえ、俺のと交換しない?」
三兵衛は大きなため息をついた。
「貴丸様……そもそも、大人と童では着物の大きさが合いませぬ」
「そっかぁ」貴丸が残念そうに呟く。
すると、元伯がぼそりと言った。
「……わしの体なら、大丈夫だということか…」
その言葉が三兵衛にも聞こえたらしい。三兵衛は嫌そうな顔で元伯を見る。
「……私の着物と、お取り替えいたしますか?」
「…いや、そういう意味ではないのだ」
元伯は慌てて首を振った。
「ま、それより、先を急ごうか」
三兵衛はため息をついた。
貴丸がふと思いついたように元伯へ声をかける。
「じいさん。幸い、高国様からの褒美もあるんだからさ、古着屋を探して着物買わない?」
「よいのか? お前が戦で得た褒美であろう?」
元伯が尋ねると、貴丸はあっさり答えた。
「不義而富且貴、於我如浮雲だよ」
「……」元伯が怪訝そうな顔をする。
貴丸は少し笑って続けた。
「まあ、突然、天から降って湧いたような金なんだから、なくなったって別にいいじゃん」
「……なるほどな。お前らしいと言えば、お前らしいか…」
元伯は呆れたように笑った。
「じゃあ、古着屋に行こう!」
そうして三人は、道すがら古着屋を探すことにした。
やがて手頃な着物を見つけると、三人はそれぞれ新しい着物を買い求めた。
着替えを済ませ、ようやく妙心寺へ戻ることになった道すがら、貴丸は自分の新しい着物を見下ろした。
「いやぁ、助かった。これで血まみれの着物ともおさらばだね」
「まったく……今日ほど着物を買い替えたいと思った日はないわ」
元伯が呆れたように言うと、貴丸は少し考えるような顔をした。
「でもさ、じいさん」
「なんじゃ?」
貴丸は、にやりと笑う。
「切腹のときに着てた着物って、新しいのかな。それとも古いのかな?」
元伯が怪訝そうに眉を寄せる。
「……何を言っておるのだ?」
貴丸は胸を張った。
「それは――解釈(介錯)次第でしょう! おあとがよろしいようで……」
貴丸は妙に得意げな顔で一礼する。
「……何を言っておるのだ、お前は」
元伯は呆れながらも、思わず笑っていた。
不義而富且貴 於我如浮雲:
(不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し)
中国の思想書『論語』に登場する言葉。
不正や道徳に反する行いをして手に入れたお金や高い地位は、
自分にとっては空に浮かぶ雲のように、
はかなく価値のないものだという意味。




