第221話 急襲
そして、一行が妙心寺へ向かって歩いていると、次第に人通りが少なくなっていった。
やがて道は緩やかな坂へと差しかかる。坂の上には、三兵衛が言っていた通り、左右を覆うように林じみた藪が広がっていた(現在の「北野廃寺跡」周辺)。
そのときだった。
背後から聞こえていた足音が、少しずつ近づいてくる。
「……来ましたな」
三兵衛が低く呟くと、元伯も振り返ることなく、ちらりと三兵衛と目を合わせた。二人は小さく頷き合う。
次の瞬間、元伯が貴丸を片腕でひょいと抱き上げた。
「走るぞ!」
元伯はそのまま坂を駆け上がる。
「うっひょー!」
貴丸は元伯の腕に抱えられながら、楽しそうに声を上げた。まるで追われていることなど、まったく気にしていない様子だった。
「貴丸! 舌を噛むぞ、口を閉じろ!」
「んぐっ!」
直後、貴丸の顔が歪んだ。どうやら本当に舌を噛んだらしい。
「だから言ったであろうに!」
涙目になった貴丸は、それでも元伯の背中にしがみつく。そのとき、背後から怒声が響いた。
「逃げたぞ! 追え!」
貴丸も慣れたもので、元伯の腕をするりと伝うようにして肩口へ回り、そのまま背中へと移って両腕を首に回してしがみついた。
足音が一気に速くなる。元伯もさらに速度を上げ、坂を一気に駆け上がると、そのまま藪の中へ飛び込んだ。枝をかき分けて進み、反対側へ抜けると、右手に古びた廃寺が現れた。
「ここだ!」
元伯が廃寺の脇で足を止める。貴丸を地面へ降ろすと、貴丸は大きく息を吸い込み、すぐさま三兵衛に指示を出した。
「ざぬぢゃん、ゔぐろのばかがら、たてづつとって! ぞじてびをつげであぞごにばげで!」
「……竹筒に火を点けて、賊が来た方へ投げればよろしいのですね?」
貴丸がコクコクとうなずくと、三兵衛は一瞬怪訝そうな顔をしたものの、すぐに貴丸の袋を開いた。
中から煙を出すための竹筒を取り出し、常に懐へ忍ばせている小さな種火で火を移して火を点ける。そして、賊が来た方へ向かって放り投げた。
直後――白い煙が一気に立ち上った。
「なっ……!」
元伯が思わず目を見開く。白煙は見る間に周囲へ広がり、あたりには鼻を刺すような硫黄の匂いが漂い始めた。
「これは……」
三兵衛が思わず口元を袖で覆う。その横で、貴丸は煙の広がり方をじっと見ていた。狙い通り、煙は賊が進んでくる道を塞ぐように広がっていく。
やがて満足そうに頷くと、貴丸は腰に提げた水筒から水を一口飲んだ。先ほど噛んだ舌を冷やすように、口の中で水を転がしてから、元伯を見てニヤッと笑う。
「よし」
「何が『よし』なのだ……」
元伯が呆れたように言う。だが、貴丸は答えず、大きく息を吸い込むと、廃寺の外へ向かって声を張り上げた。
「た、大変だー! こんなところに毒があったぞー! あーっ、間違って火がついたぁぁー! 煙があぁぁ~!」
棒読みだった。あまりにも棒読みだった。元伯は思わず貴丸を見る。
「……貴丸、もう少し真剣にやれ」
「だって、芝居だもん」
「芝居でも、もう少しやりようがあろうが!」
そんな二人のやり取りとは裏腹に、外から聞こえていた足音がぴたりと止まった。
貴丸がわざとらしい声を上げたのは、煙の正体を誤魔化すためだった。
三人の間に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
貴丸は耳を澄ませた。先ほどまで迫っていた足音は、もう聞こえない。代わりに、白煙の向こうから低い声が聞こえてきた。
「……何だ、この煙は?」「分からん。妙な臭いがするぞ」
貴丸の口元が、わずかに緩んだ。
「……これで、すぐには来ないね」
「貴丸様……」三兵衛が心配そうに貴丸を見る。
だが、貴丸はまるで追い詰められているとは思えないほど落ち着いていた。むしろ、この状況を楽しんでいるようにさえ見える。
「二人とも、俺の策を聞いてくれる?」
元伯と三兵衛は顔を見合わせ、それから渋々ながら頷いた。
貴丸は声を落とし、二人に作戦を説明していく。話を聞き終えた元伯は、しばらく黙り込んでから口を開いた。
「……貴丸、本気でそんなことをするつもりか?」
「うん」
「……呆れたな」
一方、三兵衛は心配そうに眉を寄せた。
「貴丸様、本当に大丈夫なのですか?」
「たぶん大丈夫! かな?」
「たぶん……でございますか?」
三兵衛の顔がさらに曇る。貴丸は少しだけ考えるような素振りを見せてから、今度は落ち着いた声で言った。
「きっと、俺たちを殺すことはしないと思うよ。脅すか、少しくらい傷をつける程度じゃないかな。本来、俺は敵じゃないんだしね」
「それは……そうかもしれませんが」
三兵衛は納得しきれない様子だった。それでも、意を決したように頷く。
「分かりました。私は裏から出ます」
三兵衛は廃寺の裏手へ回り、そのまま外へと姿を消した。残された貴丸は、袋の中から別のものを取り出した。
「じいさん、これを身につけて」
「……何だ、これは?」
元伯は手渡されたものを見つめ、怪訝そうな顔をする。
「本当に、こんなもので大丈夫なのか?」
「たぶん?」
「貴丸、お前な……」
元伯は深いため息をついた。だが、ほかに方法があるわけでもない。結局、貴丸の言う通りに、それを身につける。
その間に、貴丸は袋から小さな和紙の包みを取り出した。中の粉を竹筒の水筒へ入れ、しゃかしゃかと振ってから、それを元伯へ差し出す。
「これを口に含んでね」
「……ワシも飲むのか?」
「うん、飲んじゃダメよ。口に溜めておくの」
「本当に大丈夫なんだろうな?」
「たぶん?」
「その『たぶん』をやめろと言うておるだろうが!」
元伯は渋い顔をしながらも、仕方なく口に含んだ。貴丸も一度だけ口に含んだが、すぐにそのことを忘れ、元伯に話しかけようとゴクンと飲み干し、口を開いた。
「これで準備は大丈夫だね」
ところが、次の瞬間だった。
「あぁぁぁっ!」
元伯が振り返ると、貴丸は青ざめた顔で水筒を見つめていた。
「間違って飲んじゃった……。これって、飲んでも大丈夫なのかな? まぁ、大丈夫……なのか…な?」
貴丸は少し考え、それから自分に言い聞かせるように呟いた。
「……大丈夫ということにしておこう」
元伯が不安そうに見つめる。だが、貴丸はその視線とは裏腹に、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「……よし」
そして、大きく息を吸い込むと――。
「もう、だめだぁぁぁ! 敵が来るよう! じいさん! 俺と一緒に自害してくれぇぇぇぇ!」
廃寺中に響き渡るほどの大声だった。それを聞いた元伯は目を剥いた。
「むぐぅっ!」
元伯は口に液体を含んでいるため、何か言おうとしても、くぐもった声しか出せない。
「しっ!」
貴丸が小声で制する。その直後、外から男の声が響いた。
「まずいぞ! 死なれてはならん!」
貴丸がニヤリとする。狙い通りだった。白煙の向こうで、複数の人影が動き始める。
「どうする!?」「煙が濃すぎるぞ!」「本当に毒なのか?」「分からん! だが、あの童を死なせるわけにはいかんぞ!」
男たちは廃寺の前で足を止めている。誰もが白煙を警戒していた。
その様子を、貴丸は廃寺の奥からじっと耳を澄ました。
「……まだ来ないね」
元伯が睨みつける。その直後だった。
外から怒鳴り声が響く。
「もう、待っていられん!」「ここに飛び込むぞ! 口と鼻を布で覆え!」「しかし――」「死なれるよりましだ!」
男たちは懐から布を取り出し、口と鼻を覆い始めた。それを見た貴丸の目が、すっと細くなる。
元伯は息をひそめ、廃寺の入口を睨んだ。
白煙の向こうに、ぼんやりと人影が浮かんだ。一人、二人、三人そして――六人。
「構うな! 入るぞ!」
先頭の男が白煙の中へ踏み込んだ。ザッ、と草を踏みしめる音が響き、続いて別の男たちも一斉に廃寺へなだれ込んでくる。
「どこだ!」「探せ!」「童と老人を見つけろ!」
賊たちの声が廃寺の中に響き渡る。元伯は身構えた。さすがに顔から余裕が消えている。
「大丈夫」
貴丸は小さな声で答えた。その顔には、妙なほど落ち着いた笑みが浮かんでいる。
一人の賊が煙をかき分けながら近づいてくる。
「そこか!」
元伯が反射的に身を引くと、貴丸はその袖を掴んだ。そして、耳元で囁く。
「まだ」
元伯が怪訝そうに眉を寄せる。貴丸は小さく首を振った。
「まだ動かないで」
足音が近づく。
ザッ、ザッ――。白煙の向こうから、賊の姿が徐々に浮かび上がってくる。貴丸はそれを見ながら、口元をわずかに上げた。
「……ここからが本番だよ」
貴丸が待っていたのは、敵が煙の中へ入ってくる、この瞬間だった。
その直後、貴丸は先ほどの竹筒を手に取った。
元伯が目を見開く。「むぐっ……!」
何をするつもりなのかと、元伯が目で問いかける。
貴丸は答えなかった。竹筒を口元へ持っていくと、中の液体を口に含む。
そして――。白煙の中から、一人の賊がついに二人の姿を捉える。
「いたぞ!」
その声と同時に、複数の男たちが一斉にこちらへ向かってきた。
元伯が身構える。貴丸は――笑っていた。
廃寺の中は白煙に閉ざされ、外から差し込む光さえも霞んでいる。
追い詰められているはずの貴丸だけが、まるでこの状況そのものを楽しんでいるかのように、静かに笑っていた。




