第219話 高国との謁見
高国の前には、小さな童が一人、静かに座っていた。
大和田敦丸――。
三淵孫三郎が、「この者の策である」と語った童である。
高国は、改めてその姿を見つめた。十歳の童とはいえ、まだ幼さの残る顔立ちで、ふくよかな頬にはあどけなさが残っている。
武芸者のように鍛えられた体つきでもなく、鋭い眼光を宿しているわけでもない。むしろ、どこにでもいる愛嬌のある童にしか見えなかった。
(……この童が、本当にあの策を考えたというのか)高国は、内心で静かに首を傾げた。
孫三郎がそう言う以上、頭から否定していたわけではない。だが、こうして実際に姿を見れば、疑念を抱かずにはいられなかった。
五千にも及ぶ軍勢を相手に、わずか一千ほどの兵で五日間にわたって持ちこたえた策。敵の心理を読み、恐怖や疑心を煽り、正面から戦うことなく相手の力を削っていくという発想。それが、十歳の童の考えたものだとは、どうしても思えなかったのだ。
高国は、ふと周囲を見回した。童の姿以外に、謁見の間には誰もいない。それどころか、供の者も、親族も、誰一人として連れてきていなかった。
(……一人だと?)高国の眉が、ほんのわずかに動く。
普通ならば、これほど幼い元服前の者を一人で管領である高国の前へ出すことなど考えにくい。少なくとも親なり、家臣なりが付き従うものだろう。
一瞬、高国の胸に別の考えがよぎった。(……もしや、余を侮っておるのか?)
自分が呼び出した相手である以上、付き添いを許さぬほどの理由があったわけではない。それなのに、わざわざ童一人だけを寄越してきた。それは、細川高国という人間を軽んじているとも取れる。
高国の胸に、わずかな苛立ちが生じた。
だが――。(……いや)
高国はすぐにその感情を押し込めた。せっかく自らの前へ呼び寄せたのだ。ここでつまらぬ感情に任せて、この童を頭から疑ってしまうのは早計である。
高国は静かに息を吐き、改めて敦丸へ目を向けた。
(さて……いったい、どこまでがこの童自身の才なのか)高国は、まず自分の目で確かめることにした。
互いに簡素な挨拶を交わしたあと、高国は改めて敦丸へ視線を向けた。
「敦丸殿。此度の働き、見事であったな」
貴丸は姿勢を正し、深く頭を下げる。
「ありがたきお言葉にございます」
それだけだった。敦丸の声の調子も、頭の下げ方も、特におかしなところはない。かといって、目を引くほど見事な所作でもなければ、言葉の選び方に年齢不相応な聡明さが滲んでいるわけでもない。ごく普通の童の挨拶だった。
高国はわずかに目を細めた。
(……ふむ)先ほどから抱いていた疑念が、かえって深まった。少なくとも、この短いやり取りだけでは、戦場で三好元長の大軍を翻弄した智謀の片鱗など、どこにも感じられない。
「そなたの策によって、多くの兵が救われた。敵の勢いを削ぎ、我らが態勢を整える時間を稼いだ功は大きい」
高国はそこで一度言葉を切った。
「褒美を取らせよ」
ほどなくして褒美の品が運ばれてくる。貴丸はそれを受け取ると、もう一度頭を下げた。
「ありがたく頂戴いたします」
そして、高国から、それ以上の問いが発せられることはなかった。
「どのようにして、あの戦況を読んだのか」「なぜ、その策を思いついたのか」「どこであの策を学んだのか」――そんな問いは、一つもなかったのだ。
貴丸は、その時点ですべてを察した。(……あぁ、この人、俺の策だとは思ってないんだな、きっと)
だが、不思議と腹は立たなかった。無理もない。普通に考えれば、十歳の童が戦場全体を読み、五千の軍勢を相手に策を巡らせたなど、そう簡単に信じられる話ではない。
「うむ。もうよい。下がってよいぞ」
高国の言葉に、貴丸は一度頭を下げた後、静かに立ち上がる。
その時だった。高国の傍らに控えていた細川尹賢が、口を開いた。
「されど殿。この童が、本当にあの策を考えたのでございましょうか」
高国が視線を向ける。尹賢は貴丸を見ながら続けた。
「五千の軍を翻弄する策。兵の心理を読み、敵の動きを誘導するほどの知略。それほどの才が、このような童にあるとは、とても思えませぬ」
そして、わずかに口元を歪めた。
「恐らくは、別室に控える祖父や従者から知恵を借り、それを己の手柄として語ったのでございましょう」
貴丸の足が止まった。高国は何も言わなかった。
本来ならば、「そう決めつけるものではない」と諫めるべきだった。だが、その言葉は高国自身の胸中にもあった疑念でもある。だからこそ、口を挟めなかった。
貴丸はゆっくりと振り返った。怒っているわけではない。ただ、少しだけ困ったような、それでいてどこか諦めたような表情を浮かべていた。小さく息を吐くと、貴丸は静かに口を開いた。
「……そうですか。では、最後に褒美のお礼だけ、させてください」
そう言うと、貴丸はその場に座り直した。
「何をするのだ?」近習が怪訝そうに尋ねる。
貴丸は紙と筆を借りると、迷うことなく筆を走らせた。さらさらと、幼い手とは思えぬほど滑らかな筆運びで文字を書いていく。
やがて書き終えると、その紙を高国の近習へ差し出した。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「では、これにて失礼いたします。此度はお目通りを賜り、まことにありがたき仕儀にございました」
そう言って、貴丸は深く一礼した。
その所作には一切の乱れがなかった。先ほどまでの飾らない童らしい振る舞いとは異なり、礼法に則った見事な挨拶である。
高国の近習たちは、一瞬、目を奪われた。
(……この童が?)だが、貴丸はそんな周囲の視線など気にも留めることなく、そのまま静かに部屋を後にした。
だが、尹賢だけは違った。最初から貴丸を侮っていた尹賢の目には、その挨拶の見事さなど映っていなかった。
貴丸の姿が見えなくなると、尹賢はさっそく鼻で笑った。
「孫三郎殿も、妙な童を見つけたものだ。あのような童を、さも策士であるかのように推すとはな」
すると、別の近習が貴丸の残した紙へ目を向けた。
「しかし、最後に何か書いておりましたな」
尹賢がそう言うと、別の近習も笑った。
「なに、高国様のご威光が恐れ多くて、似顔絵でも描いていったのではないのか?」
「自分の名すら書けるかどうか怪しいものですな」
「ははは」
そんな声が交わされる中、しばらくして高国が近習からその紙を受け取った。
そこには、漢字の句が二つ、並んでいた。
『願君莫逐袁公跡 願君莫效王莽終』
高国はしばらく、その二句を黙って見つめていた。やがて、手にした紙を近習へ差し出す。
「……これは…読めるか?」
近習は紙を受け取り、そこに記された文字を一つずつ追った。そして、近習の顔色が変わった。
「『願わくは君、袁公の跡を追うこと莫かれ』……」
そこで近習は一度、言葉を切った。
「袁公とは、袁紹のことでございましょう。後漢末、河北に大勢力を築き、曹操と天下を争った人物です。しかし、官渡で曹操に敗れ、その勢力は崩れました」
近習は次の句へ目を移した。
「『願わくは君、王莽の終わりに效うこと莫かれ』……」
今度は、近習の声がわずかに低くなる。
「王莽は、漢の外戚として権勢を握り、ついには漢王朝を滅ぼして自ら皇帝となり、新を建てた者です。一時は天下を手にしたものの、各地で反乱が起こり、最後には……殺され、新も滅びました」
二つの句が意味するところを、近習もようやく理解し始めていた。
袁紹は、大きな勢力を手にしながら、それを失った。王莽は、ついには天下そのものを奪ったが、その栄華は長く続かなかった。
つまり――。
「……いずれも、一時は大きな力を得ながら、その力を失い、最後には滅びた者たち……」
近習が呟いたところで、部屋がしんと静まり返った。
高国は、しばらく二つの句から目を離せなかった。
袁紹。王莽。一時は大きな力を手にしながら、最後にはその地位も勢力も失った者たちである。
そして、その二人の名を並べて自分へ残した言葉の意味を考えれば――。
(……まさか)高国の胸に、ある考えが浮かんだ。
(この童は、儂に『その轍を踏むな』と告げたのか)
高国は、そこで初めて気づいた。先ほどまで、自分はあの童の才を値踏みしていた。
十歳の童の姿を見て、本当にあの策を考えられるのかと疑い、本人に確かめることすらしなかった。
だが――違った。
(……儂が試すつもりでいたが、試されていたのは、儂のほうだったのだな……)
高国の脳裏に、貴丸が去り際に見せた、礼法に則った見事な一礼がよぎった。
その背筋を、ぞくりとしたものが走った。しばらく手元の紙を見つめたまま、高国は低く呟いた。
「……そういうことか。敦丸殿は、儂に『どうか袁紹の轍を踏まぬよう。どうか王莽の末路に倣わぬよう』と……そう告げたのだな」
「儂は……いったい、何を見ていたのだろうか…」
そう言って、高国は深く息を吐いた。先ほどまでの威厳に満ちた声ではなかった。そこには、はっきりと悔恨が滲んでいた。
高国は目を閉じる。あの童は、最後まで自分の才を誇ろうとはしなかった。ただ二句だけを残し、その意味をこちらに委ねた。
高国は、紙を握りしめる。
「……馬鹿なことをした。儂は、あの童に何一つ問わなかった。なぜあの策を思いついたのか。何を見て、何を考えたのか……一言も聞かなかった」
やがて高国は、自嘲するように笑った。
「劉玄徳は、諸葛孔明を三顧して迎えた。曹孟徳は、荀文若の才を見出し、重く用いた」
名を挙げるたび、高国の声は重くなっていく。
「才ある者を見出すことが、上に立つ者の務めであろうに……儂は、孫三郎が見出した才を、その童の年齢と姿だけを見て切り捨てた……。儂は、蕭何のように韓信を見出せなんだ……」
その悔しさは、先ほど尹賢が童を嘲った時よりも、はるかに深かった。
もし、本当にあの策を考えたのがあの童自身だったなら――。儂は今、得難き才を自ら見逃したことになる。
高国は、手の中の紙へもう一度目を落とした。誰に言うでもなく呟く。
「……あの童は、儂を愚弄したのではないな……忠告してくれたのだろう」
高国は静かに首を振った。その言葉を口にした瞬間、高国の胸に、さらに重い後悔が押し寄せた。
あの童は、自分の才を疑った儂を責めることもできた。怒りをぶつけ、自らの才を証明することもできた。だが、あの童は何も言わず、ただ二句だけを残して去った。
高国には、それが分かってしまった。
自分は童の才を見極めようとしていた。だが――あの童もまた、儂という人間を見ていたのだ。
そして、その目に自分は、見出すに値する人物とは映らなかった。だからこそ、悔しかった。
「……もう一度、あの童と話さねばならぬな」
高国はそう呟いた。だが、すでに貴丸はこの部屋を出ている。その事実が、何よりも重く感じられた。
それでも、尹賢だけは納得していなかった。
「ですが……殿が侮られたことに変わりはございませぬ」
その拳は、固く握り締められていた。
高国は振り返る。
「ならぬ」
「殿……」
「童の言葉だ。気にすることではない」
そう言って、高国は話を終えた。しかし、尹賢の胸に残った怒りは消えなかった。
(細川京兆家当主を愚弄して、ただで済むと思うな)
(あの童……必ず思い知らせてくれる)
その直後、高国の知らぬところで、尹賢は密かに人を呼び寄せた。
「あの童を……帰り道で少し脅かしてやれ。殿には知られぬようにな」
呼ばれた男は、静かに頭を下げた。
こうして、貴丸が高国へ残した二句は、思いもよらぬ騒動の火種となった。
「蕭何のように韓信を見出せなんだ」:
漢の高祖・劉邦に仕えた蕭何は、無名だった韓信の才を見抜き、劉邦に推挙した。
後に韓信は、漢の天下統一に大きく貢献する名将となった。
蕭何:
前漢の初代皇帝・劉邦に仕えた功臣。
韓信の卓越した才能を見抜いて劉邦に推挙し、漢の建国後は丞相として国政を支えた。
韓信:
前漢の初代皇帝・劉邦に仕えた名将。
若い頃は無名で身分も低く「股くぐり」の屈辱にも耐えたが、
蕭何に才を見出され、後に劉邦の天下統一に大きく貢献した。
孔明・文若とくれば、時代的には士元かなとも思いましたが、韓信にしました。。
張松だと、ちとマイナーかなぁ。。郭嘉だとぶっ飛びすぎかなぁ。ん?貴丸?郭嘉?




