第218話 高国との謁見前
そして、貴丸、元伯、三兵衛の三人は、陣所として使われている寺院の一室へと案内された。通されたのは、謁見を待つための控えの間だった。
道中、案内役から聞いた話によれば、先の戦の後も戦いは続いているらしい。
下田中城(現:兵庫県三田市下田中周辺)では、細川方と三好方の間で本格的な戦となっており、孫三郎もそこに留まって一進一退の攻防を続けているという。
その間に高国は京へ戻り、ここ相国寺で情勢を見守っているのだそうだ。
部屋の中には、これといった調度品もなく、殺風景な空間が広がっていた。しかも師走だというのに、茶の一杯も出されず、火鉢すら置かれていない。障子の隙間から入り込む冷気が、容赦なく室内を冷やしている。
元伯はしばらく室内を見回したあと、声を潜めて貴丸に話しかけた。
「……先日の使者の不興を買ったゆえ、わざとこのような部屋に通されたのではないか」
「……」
貴丸はもはや返事をする気力もないらしい。寒さに耐えかねたのか、いつの間にか元伯の膝の上にちょこんと座り、身体を縮めている。
そして、ふと思いついたように元伯の両腕を掴むと、自分の肩の前へとぐいっと回した。
「おい、敦丸。何をしておる」
「じいさん、あったかいんだから〜」
貴丸は元伯の腕をそのまま抱え込み、さらに身体を縮めた。まるで元伯を人の形をした上着にでもするつもりらしい。
「……ワシを着るな」
「ぬくぬく~」
元伯は呆れた顔をしながらも、結局は振りほどかなかった。そのまま元伯を上着代わりにした格好で、貴丸がぼそりと呟く。
「もう謁見なんていいから、帰ろうよ……もう萎えた……萎えー……」
元伯は呆れたように貴丸を見下ろした。
「何を言っておる。京を押さえる管領殿を袖にして帰れば、もう京にはおられぬぞ。しばしの辛抱をせよ」
「だって寒いんだもん……だもん…だも…あ、口が凍ってきた……」
「我慢せよ…凍りなどせぬわ…」
貴丸は元伯の膝の上で身を縮め、ぶるぶると震えている。
しばらくすると、貴丸が何やらもぞもぞと動き始めた。元伯の腕に抱きついたまま、自分の手を元伯の袖口へと近づける。
そして――。
「……何をしておる」
元伯が怪訝そうに尋ねるより早く、貴丸は元伯の袖の中へ自分の手を突っ込んだ。
「手が冷たいんだもん」
「だからといって、ワシの袖を使うな」
「じいさん、温いのう〜……」
貴丸は満足そうに呟きながら、元伯の袖の中で手を温める。
しかし、それだけでは足りなかったらしい。今度は元伯の膝の上で身体を少し持ち上げると、冷えた足をそっと元伯の着物の裾から差し入れようとした。
「……おい」
貴丸は答えない。元伯の膝元へ、さらに足を押し込もうとする。
「敦丸」
「足も冷たい」
「やめよ。わしも冷たいではないか」
「でも、じいさんの中、あったかそう」
「中と言うな。中と…気色の悪い……」
それでも貴丸は、元伯のあぐらをかいた足の間へ、自分の足を滑り込ませようとする。
ついに元伯が眉をひそめた。
「やめよ! それ以上するならば、投げ捨てるぞ!」
その声に、貴丸の動きがぴたりと止まった。
「……」
やがて貴丸は、しぶしぶ元伯の袖から手を抜いた。そして、着物の中へ入れかけていた足も引き戻す。
「吝嗇。じいさん、あったかいの独り占めしてる」
「誰が吝嗇じゃ。着物を着ておるのは、独り占めのためではないわ」
貴丸は不満そうに口を尖らせたものの、再び元伯の胸元へ背中を預け、腕だけを自分の身体の前へ回してもらう。
「……じゃあ、これだけで我慢する」
「最初からそうせい」
元伯は呆れながらも、貴丸を抱える腕を少しだけ締めた。
その様子を見ていた三兵衛は、何も言わない。ただ、いつものことだというように、静かに視線を戻した。
その様子を、三兵衛は少し離れたところから静かに見守っていた。先ほどまで担いでいた一抱えほどの袋も、足元にきちんと置かれている。
やがて、先ほどまで一行を案内していた男が部屋へ戻ってきた。
「お待たせいたしました。高国様の御前へご案内いたします」
そう言ってから、男は室内を見回した。そこで初めて、茶も出されておらず、火の気すらないことに気づいたらしい。男の顔が強張る。
「……これは……まことに申し訳ございません。侍女には、お客様を饗する支度を整え、火桶にも火を入れておくよう申し付けておいたのですが……」
貴丸は元伯の膝の上から答えた。
「……ズズッ……まあ、いいんでない? 俺、この陣ではあんまり好かれてないみたいだしね。尹賢さん……だったっけ? なんか、あの人を怒らせちゃったみたいだし」
「そのようなことは……」
男は困ったように口ごもる。貴丸は寒そうに鼻水をすすりながら、男を見上げた。
「まぁ、これが高国様のお心なんだろうしねぇ。ズズッ…」
その言葉に、案内役の男は何とも苦渋に満ちた顔をした。
「……」
しばし迷った末、男はさらに言いにくそうに口を開く。
「あの……一つ、お伝えせねばならぬことがございます」
元伯が顔を上げた。
「何だ?」
「細川右馬頭尹賢様より、敦丸殿のみを高国様の御前へお連れするよう、申し付けられております」
元伯の顔色が変わった。
「何だと? この孫はまだ十歳ですぞ。元服もしておらぬ童を、一人で高国様の御前へ出すなど……いささかご無体ではありませぬか」
案内役の男は困ったように眉を寄せる。
「……私も、そのように申し上げたのでございます。ですが尹賢様は、『敵を手玉に取るほどの童ならば、大人と同じように扱えばよい』と……」
「なんと……」元伯が絶句する。
しかし、貴丸は意外にもあっさりしたものだった。元伯の膝から降りると、肩をすくめる。
「まぁ……さっきも言ったけど、これが高国様の謁見の作法なんでしょ?」
「いや、そういう問題では――」
元伯が言いかけるが、貴丸は気にせず立ち上がった。
「いいんじゃないの? 俺一人で行けばいいんしょ?」
「貴……いや、敦丸……」
元伯は心配そうに貴丸を見る。
「大丈夫だって。高国様だって、いきなり俺を斬ったりはしないでしょ」
「縁起でもないことを申すな」
元伯は眉間に皺を寄せた。だが、貴丸がすでに覚悟を決めているのを見ると、それ以上止めることもできなかった。
案内役の男は申し訳なさそうに頭を下げる。
「では……こちらへ」
貴丸は部屋を出る前に、三兵衛へ目を向けた。
「三ちゃん、その袋よろしくねぇ」
「承知いたしました」
「じゃあ、行ってくるっぽいよ」
貴丸はそう言って手をひらひらと振ると、案内役の後について部屋を出ていった。
その小さな背中を見送りながら、元伯は不安そうに眉をひそめる。
「……あやつ、本当に大丈夫なのであろうな」
三兵衛は何も答えなかった。ただ、貴丸の去っていった襖を静かに見つめている。
こうして貴丸は、ただ一人、細川高国の待つ謁見の間へと向かうことになった。
案内役に続いて廊下を進み、やがて一際広い部屋の前で足を止める。
「こちらにございます」
襖が開かれる。その瞬間、貴丸の目に、広い座敷の光景が飛び込んできた。
上座には、まだ誰もいない。
その左右には、高国に仕える重臣や側近たちがずらりと居並んでいた。皆、身なりを整え、姿勢を正している。だが、貴丸の姿を目にした途端、その場に小さなざわめきが広がった。
「……あれが、例の童か?」
「聞いていた話とは、ずいぶん違うではないか」
「これが三好元長の軍を翻弄したというのか?」
「まさか。孫三郎殿も、随分と大仰な話をされたものだ」
「童の知恵を、さも大した策のように申しておるだけではないのか?」
「狐か狸が化けておるのではないか」
クスクスと笑い声が混じる。貴丸は何も答えなかった。案内役に促されるまま、部屋の中央へ進む。
そして――どっか。
まるで自分の家の座敷にでもいるかのように、貴丸はその場へ腰を下ろした。
「……おい」
すぐに、どこからか声が飛んだ。
「礼を知らぬ童だな」
「高国様の御前へ出るという自覚がないらしい」
「挨拶もせぬのか」
「どこの田舎者なのだ」
「これでは、噂の神算鬼謀とやらも怪しいものだな」
嘲笑が次々と飛んでくる。しかし、貴丸はまるで何も聞こえていないかのように、ぼんやりと前を見つめていた。
「おい、童! 聞こえておるのか!」
声を張られても、貴丸は答えない。すると別の家臣が鼻で笑った。
「なるほど。戦場では策を弄したというが、人の話を聞くことすらできぬらしい」
「所詮は童よ」
その言葉に、周囲からまた笑い声が漏れる。
貴丸はそこでようやく顔を動かした。右にいる者、左にいる者を順に眺め、それから不思議そうに首を傾げる。
「……?」
しばらくそうしていたかと思うと、何事もなかったように再び正面へ向き直った。
「……なんだ、無視しおったぞ」
「小癪な童だ」
「礼儀知らずにもほどがある」
相手にされないことが気に入らないのか、家臣たちの声は次第に大きくなっていく。それでも貴丸は一向に反応せず、ただ涼しい顔で座っている。
やがて貴丸は、小さく息を吐いた。
「……雛が随分と元気ですな」
その一言に、近くにいた家臣が眉をひそめる。貴丸は膝の上に手を置いたまま、平然と続けた。
「……先ほどから、雛というものは、親鳥が来るまでは随分と元気なものですな」
「貴様……!」
一人の家臣が思わず声を荒らげた。だが、その瞬間――廊下の向こうから、こちらへ近づいてくる足音が聞こえてきた。
続いて、案内役の声が響く。
「高国様の御成にございます!」
その声が響いた途端、先ほどまで騒がしかった座敷が嘘のように静まり返った。
家臣たちは一斉に姿勢を正し、誰一人として口を開かない。先ほどまで貴丸を嘲っていた者たちまで、何事もなかったかのように前を向いている。
その変わり身を、貴丸は横目で眺めていた。ほんの少しだけ、口元に笑みが浮かぶ。
――なるほどな。
だが、それ以上は何も言わなかった。
やがて廊下から、先ほどよりもゆっくりとした足音が近づいてくる。貴丸も気配を察すると、姿勢を正して静かに頭を下げた。
部屋にいる者たちも、息を潜めたように身じろぎ一つしない。
やがて襖の前で足音が止まり、しばしの静寂が訪れる。
そして――襖が静かに開かれた。
細川高国が、ゆっくりとその姿を現した。




