第217話 謁見前のいつもの…
翌朝。
まだ朝の冷気が残る早朝、妙心寺の一室では、元伯たちがすでに起きていた。朝の支度を整え、朝食を囲む準備も進んでいる。
ただ一人、貴丸だけが姿を見せない。
――まあ、これも日常のことではある。
そして、貴丸を起こす役目といえば、今や三兵衛の仕事になっていた。三兵衛は貴丸の部屋の前まで来ると、いつものように一礼してから襖を開ける。
「貴丸様、おはようございます」
返事はない。布団の中では、貴丸が気持ちよさそうに眠りこけている。
三兵衛は慣れた様子で部屋へ入り、敷布団の端を両手でしっかりと掴んだ。
そして――一気に引き抜く。
貴丸の身体は布団に巻き込まれるようにして、横倒しの車輪のようにぐるぐると回転した。そのまま勢いよく床板へ転がり落ちる。
「どすんっ!」
しかし、それでも貴丸は目を覚まさない。
……いや。もしかすると、今の衝撃で気を失ったのかもしれない。
三兵衛は一瞬だけ考えた。しかし、貴丸を起こしてきたこれまでの経験から言えば、この程度では判断がつかない。
貴丸は寝ていても、気を失っていても、ほとんど同じような顔をしているからだ。
三兵衛は何事もなかったかのように敷布団を畳み始める。しばらくして、床板の冷たさがようやく貴丸の身体に伝わった。
「……さむっ」
ぶるりと身体を震わせ、貴丸がようやく目を擦りながら起き上がる。すでに敷布団は綺麗に畳まれていた。
貴丸は眠そうに欠伸をすると、両腕を大きく伸ばした。
「んちゃ!」
そして、目の前に座る三兵衛を見ると、にっこり笑う。
「いやー……清々しい朝だねぇ」
三兵衛はいつも通り、深々と頭を下げた。
「おはようございます」
貴丸は立ち上がると、三兵衛の肩へぽんと手を置く。
「いつもありがとうね。丁寧に起こしてくれて」
「いえ、これも私の務めでございます」
そう言いながら、三兵衛は淡々と身支度の準備を始める。
その横で、貴丸は三兵衛の肩に置いた手をそのまま三兵衛の頬へ移した。
「三ちゃん、ありがとね」
次の瞬間、貴丸の指が三兵衛の頬へ、ずぶずぶと食い込む。
「……」「……」
三兵衛は無言で耐えている。
「貴丸様。そろそろやめていただけますか?」
貴丸は満足そうに手を離した。そして、腰をさすりながら顔をしかめる。
「しかし、この起こし方、目は覚めるんだけどさ……尻が痛いんだよな」
どうやら三兵衛による目覚ましは、清々しいとは言ったが、決して気持ちのよい目覚めではないらしい。
その後、三兵衛に着替えを手伝ってもらった貴丸は、まだ眠そうな顔のまま、とぼとぼと元伯たちのいる部屋へ向かった。
襖を開けると、元伯、忠家、そして泰能は、すでに朝食を終えようとしていた。
貴丸の姿を見た元伯が、呆れたように目を細める。
「今日は起きるのが早いな」
「でしょ?」
「まあ、いつもより早いというだけで、完全に寝坊なのだがな」
貴丸は元伯の言葉など気にする様子もなく、用意されていた朝食の前へ向かった。
そして、まだ腰を下ろしきらないうちに、思い出したように、「……おいたます」とだけ唱え、そのままどっかりと座り込んだ。
次の瞬間には、さっさと飯を口へ放り込んでいた。
「……何だ、それは? 初めて聞いたぞ、そんな挨拶は」
貴丸は元伯の言葉など気にすることもなく、そのまま飯を食べ続けた。
「まったく……」
元伯は呆れながらも、それ以上は何も言わなかった。
貴丸を見届けてから、元伯は改めて一同へ向き直る。
「さて、今日の高国様との謁見だが、ワシと敦丸(貴丸)で参ることにしたぞ」
忠家と泰能が顔を上げる。
「お二人だけでございますか?」
「うむ。忠家殿は相馬家の家臣、泰能殿は今川家の家臣であろう。もし、そのことが高国方に知られれば、そなたらだけでなく、それぞれの家にも余計な迷惑が及ぶやもしれぬ。今回はワシと貴ま……いや、敦丸だけでよい」
忠家と泰能は顔を見合わせた後、静かに頷いた。
「承知しました」「私も異存ございませぬ」
元伯は貴丸を見る。
「それに、ワシも今のうちから気をつけておかねばならぬな。今日、高国様の御前で『貴丸』と呼んでしまっては話にならぬからな。今からそなたを敦丸と呼ぶことにしておこう。練習しておかねば、いざという時に口を滑らせかねん」
「じゃあ、俺もじいさんのことを『くそじじい』とか、『うんこじじい』って呼ばないといけない?」
「なんでそうなるのだ……そこは普段から、じいさんで良いではないか」
「でさぁね〜!」
貴丸は笑いながら飯を口へ運ぶ。
「では、敦丸。飯を急いで食べよ。迎えが来るまで、それほど刻はないぞ」
「はいはい、敦丸でございます。『おでは、あづまるだべさ〜』」
「その返事も、もう少し真面目にせぬか」
「練習中なんで。えへへ」
元伯はまた深いため息をついた。
「……わしを迎えに来るのは、高国様の使者より、閻魔様のほうが先かもしれぬな」
その呟きに、貴丸が顔を上げる。
「じいさん、まだ生きてるよ?」
「お前のせいで、寿命が縮んでおるのだ」
「でさぁね〜!」
元伯はまた深いため息をついた。
それから朝食を終えると、三兵衛の手を借りながら一行は身支度を整えた。貴丸も普段よりきちんとした衣服に着替え、髪を整えられる。
やがて、妙心寺の境内に朝の気配が満ち始めた頃――外から人の訪れを告げる声が聞こえてきた。
「細川様よりのお迎えにございます」
元伯が静かに立ち上がる。
「来たか。よし、それでは行くとするか」
貴丸も立ち上がり、衣服の裾を整えた。
「うぃーっす」
今度は貴丸も素直? に頷いた。
こうして元伯と貴丸は、戦場で名乗った名――大和田敦丸として、細川高国の待つ相国寺へ向かうことになった。
妙心寺を出てから、元伯たちは細川高国の陣所が置かれている相国寺へ向かった。
相国寺までは、およそ一里半ほど。歩いても二刻とかからぬ距離ではあるが、普段あまり長く歩かない貴丸にとっては、朝から歩くにはなかなかの距離である。
出立前、貴丸は「念のため」と言いながら、昨夜から何やらごそごそと準備をしていた。
何を用意しているのか、三兵衛にもよく分からない。
あれこれと袋の中へ詰め込んだ結果、貴丸の前には、一抱えほどもある大きな袋が出来上がっていた。
どう見ても、貴丸が自分で抱えて歩くには大きすぎる。
「三ちゃん、これ持ってってね」
「……承知いたしました」
三兵衛は特に問いただすこともなく、その袋を肩に担いだ。中身が何であれ、貴丸の従者として同行する以上、それも自分の役目だと思っているらしい。
こうして、元伯を先頭に、貴丸と三兵衛、それに細川方から迎えに来た案内役が続き、朝の京の町を進んでいった。
しばらく歩いたところで、元伯が前を歩く案内役の様子をちらりと窺った。案内役が少し先を歩いているのを確認すると、声を落として貴丸に尋ねる。
「そういえば、貴、敦丸。その袋には何が入っておるのだ?」
貴丸も声を潜め、少し考えるように首を傾げた。
「うーん……なんか、昨日の使者の人、感じ悪かったしょ? だから、念のためにね」
元伯も声を落としたまま、先日の使者の顔を思い浮かべる。
「確かに、あの者は感じが悪かったのう。名からして、高国様のご親族なのであろうが……」
「なんか、あの辺の人たちって、誇りだけは高そうだし、それに、どろどろしてそうでしょ?」
「……」
元伯は一瞬黙ったあと、苦笑した。
「まあ……否定はできぬな」
「でがんしょ?」貴丸も小さく笑う。
二人はそれ以上話さず、何事もなかったように前へ向き直った。
三兵衛だけは、そんな二人の会話を黙って聞きながら、肩に担いだ袋を持ち直した。
「……ねえ」
案内役が振り返る。
「なんでございましょうか?」
「馬で迎えに来てくれてもよかったんじゃない?」
「……」
「せめて輿とかさ。ほら、俺、一応細川高国様に呼ばれてるんしょ? もっとこう、偉い人を迎える感じのやつがあってもよくない?」
「……」
案内役は苦笑しながら答える。
「申し訳ございません。そこまでは用意されておりませぬので」
貴丸はしょんぼりしたように肩を落とした。だが、それから十歩も進まないうちに、また口を開く。
「そうかぁ……ねえ、俺を背負ってくれる人は?」
「……おりません」
「なんで?」
「なんで、と申されましても……」
「じゃあ、途中で休憩しようよ」
「まだそれほど歩いておりませぬが……」
「喉渇いた」
「先ほど水を飲まれたばかりでは?」
「でも喉渇いた」
案内役の笑顔が、少しだけ引きつった。
さらに歩く。
「……あ」
「今度は何でございましょう?」
「尿が出そうかも」
「……」
「厠、どこかな?」
「ありませんので、草むらがあるところまでもう少々お待ちください」
「えー、野尿かぁ……しょうがないな…分かったです」
貴丸は素直に頷いた。
しかし、しばらくすると、「……やっぱりもう漏れそう。謁見の床を汚すかも…」
案内役の歩みが、わずかに速くなる。
ようやく草むらを見つけて用を済ませて戻ってきた貴丸は、何事もなかったかのように歩き始めた。
「いやー、すっきりした」
「それは何よりでございます」
「……あ」
「今度は何でございますか?」
「ついでに…ちびっとだけ、糞が出たかも」
「……それは、先ほど申された『尿が出る』とは別の話でございますな」
「うん」
「そうですか……では、その話はもう終わりにいたしましょう」
案内役は、それ以上何も言わなかった。
元伯は少し前を歩きながら、聞こえてくる貴丸の声に何度もため息をついている。
「た、敦丸、少し静かにせぬか」
「だって疲れたんだもん」
「一里半程度で何を言っておる」
「一里半もあるんしょ?」
「……」
「ねえ、じいさん。やっぱり馬、借りられない?」
「無理だ」
「輿は?」
「もっと無理だ」
「じゃあ、三ちゃんに背負ってもらうのは?」
「三兵衛はお前のなにやら袋を背負ってるではないか」
「俺、軽いよ?」
「そういう問題ではない」
貴丸はぶつぶつと文句を言いながら、それでも歩き続ける。
相国寺へ近づくにつれて人の姿が増え、やがて寺の周辺には細川高国の軍勢が物々しく布陣しているのが見えてきた。
兵たちが行き交い、武具を身につけた者たちがあちらこちらに立っている。
最初のうちは、案内役も貴丸のそんな様子を微笑ましく見ていた。
細川高国に呼ばれた童が、緊張するどころか、疲れた、喉が渇いた、休みたいと好き勝手に言っているのが、どこか子供らしく思えたのだ。
しかし、相国寺の門が見えてくる頃には、その表情も完全に消えていた。
「……疲れた」
「もうすぐでございます」
「もう無理。一歩も歩けない」
「……あと少しでございますから」
「あ、足が固まった。もう動かない。石のように重いの……」
「……」
「帰りはさ、やっぱり馬にしてくれない?」
「……」
「それか輿。牛車でも良いよ。風情があるしさ」
「……」
「ねえ、聞いてる? おーい! 案内役さん?」
やがて案内役は、無表情のまま前だけを見て歩いていた。
一行は、物々しい兵たちが行き交う相国寺の中へと入っていく。
その先には、細川高国の陣所があった。
それまで貴丸は、疲れた様子で足元を見たり、周囲をきょろきょろと眺めたりしていた。
だが、ふいに足を止める。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先――寺の奥、高国がいるであろう方角を、じっと見つめる。
「さて……この戦、果たして最後に笑うは、どちらであろうかな? ふふっ……」
誰にも聞こえぬほど小さく呟くと、貴丸は口元に浮かんだ笑みをすぐに消した。
そして何事もなかったように、いつもの顔へ戻る。
「じいさん、待ってー! もう無理~! 抱っこして~!」
そう言いながら、貴丸は先ほどまで疲れ切っていたとは思えぬ軽い足取りで、一行の後を追った。




