第215話 狸寝入り
そして、妙心寺の小僧が深々と頭を下げ、部屋を退出していった。
襖が静かに閉じられると、その途端、部屋は妙な沈黙に包まれる。
元伯と忠家が揃って貴丸へ視線を向ける。
二人の顔を見た貴丸は、露骨に嫌そうな顔をした。だが、すぐに何かを思いついたように、ぽんと手を叩く。
「あ、そうだ。俺、急に癪が出てきた。それに熱もある。……尻も痛い」
貴丸は、そこで大きく頷いた。
「うん。これは駄目だ。もう立っていられない。寝るしかないな!」
「……」
貴丸はそう言うなり、さっさと隣の部屋へ向かった。
客間は、昼の間は座敷として使われているが、夜になれば寝所にもなる。壁際には畳んだ夜具が重ねて置かれ、その脇には薄い衝立や行灯が置かれていた。
「布団、布団っと……」
貴丸は畳まれていた夜具を引っ張り出すと、何食わぬ顔で床の上へ広げ始めた。敷布団を整え、その上に枕まで置いて、すっかり寝る支度を整えていく。
「……そんなわざとらしいことはやめよ…」
「いやいや、本当に具合が悪くてですね…」
元伯の声が低くなる。
「ほう、では、そのような者が、なぜ元気に布団を敷いておるのだ?」
「はははっ、病人は自分で布団くらい敷くものですよ、絶対に確実に!」
「貴丸。あと十数えるうちに戻ってこい。戻ってこなければ、どうなるか分かっておろうな? 一、二、三……」
貴丸は布団を敷く手を止めた。振り返れば、元伯が無言でこちらを睨んでいる。どうやら逃げ道はないらしい。
「座れ」
「ほい……」
貴丸は観念して、元伯の前へ戻って腰を下ろした。元伯はしばらく何も言わずに貴丸を見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「ずっと聞かずにいたがな……一つ、聞いておきたい」
「……なんでしょうかねぇ?」
「なぜ、あの高国軍との戦場で、わざわざ『敦丸』などと名乗っていたのだ?」
「あー……それは、その……うーん……なんとなく?」
貴丸の顔が気まずそうに歪む。しばらく考えた末、小さく肩をすくめた。
元伯の目が細くなる。
「なんとなく、で済ませるつもりか?」
「いや、まあ……ちゃんと理由はあるんすよ?」
「ならば申してみよ」
貴丸は頭を掻きながら、どう説明したものかと言葉を選ぶ。
「えーっと……あの時は、大和田の者だって知られたくなかったんだよ。それで、とっさに敦丸の名を名乗ったんだけど……そのまま『大和田貴丸』って名乗って、それが後々まで名前が残ったら面倒かなって思ったんだよね」
「面倒?」
「もし、この先俺が大和田の家を継ぐことになって、万が一、幕府の人たちとか三好さんたちに、俺が大和田の領主だって知られたら困るかもしれないじゃん。あの戦場にいた『大和田貴丸』と、後々の大和田家の当主が同一人物だって分かったら、大和田の家に何か悪い影響が出るかもしれないしさ…」
元伯は黙って聞いている。貴丸はさらに続けた。
「だからって、木暮伝衛門とか、まったく関係ない名前を名乗るのも、それはそれで危ないかなって。もし後になって、俺が偽名を使って京のお偉いさん方に名乗っていたことが露見したら、それはそれで大変なことになりそうだし……」
「…それで、敦丸か」
「うん。まあ、身近な名前なら何かあっても、どうにでも誤魔化せるかなって……」
そこまで聞いた元伯は、深々とため息をついた。そして、貴丸をじっと見据える。
「……要するに、後々面倒なことになったなら、その責任を『敦丸』に負わせようとしたのだな?」
「…………」貴丸は答えなかった。
代わりに両手を頭の後ろへ回し、斜め上を見上げる。そして、ぴゅう、と小さく口笛を吹いた。
「……」
「……」
忠家が呆れたように貴丸を見る。
「貴丸殿。今、ものすごく分かりやすく誤魔化そうとしましたな」
「いやぁ、なんのことでしょうか?」
貴丸は明後日の方向を向いたまま、知らぬ顔を決め込んでいる。忠家は呆れたように首を振った。
「まったく……そなたは、本当に妙なところだけ用心深いのう」
元伯も額を押さえる。
「用心に越したことはないからさ」
元伯は呆れたように言ったが、すぐに表情を改めた。
「その用心深さを、もう少し別のところにも使ってもらいたいものだ。とはいえ……細川高国様のご使者を、このまま待たせておくわけにもいくまい」
貴丸の顔が露骨に曇る。
「……ですよねぇ」
元伯は忠家へ視線を向けた。
「仕方がない。ワシと貴……いや、敦丸が会ってくるしかあるまい」
「なんで俺まで……」
「そなた宛てに来た使者であろうが」
「でも、俺はもう具合が……」
「さっき治ったであろう」
「……」
貴丸はしばらく黙り込んだあと、そっと立ち上がった。そして、何食わぬ顔で襖の方へ向かう。
「じゃあ、俺はここで待ってますんで。じいさんと忠家様で、しくよろ――」
だが、あと少しで襖へ手が届くというところで、元伯の手が、貴丸の襟首をがっしりと掴んだ。
「待て。逃がすと思うか」
「ぐえっ!」
「いや、俺は病人なんだげんちょ!」
「ならば病人らしく大人しくして、ワシの隣にいるのだ」
「でも、使者と会うのは……」
「そなたが会うのだ」
元伯は貴丸の首根っこを掴んだまま、忠家へ目を向けた。
「三兵衛。貴、いや、敦丸の身なりを整えさせよ」
「承知しました」
貴丸は力なく肩を落とした。三兵衛はすぐに、貴丸の衣服や髪を整え始めた。
「貴丸様、襟元をもう少し整えますので」
「三ちゃん、俺、病人なんだけど」
「先ほどまで元気に布団を敷いておられましたので、大丈夫かと」
三兵衛まで容赦がない。髪を整え、襟元を直し、乱れていた衣服を整え終えると、元伯が貴丸の姿を一通り眺めて頷いた。
「よし。これならば、先ほどまで尻が痛いと言っておった童にも見えぬ」
「そりゃそうでしょうよ……」
貴丸は諦めたように呟いた。
こうして、元伯と忠家、そして貴丸――いや、戦場での名を使うならば敦丸は、細川高国の使者が待つ部屋へ向かうことになった。
貴丸は歩きながらも、どこかに逃げ道がないかと周囲をちらちらと見回していた。だが、その肩には元伯の手がしっかりと置かれている。
「逃げるなよ」
「逃げませんって……」
「本当か?」
「……たぶん」
「たぶんではない」
観念した貴丸は、二人に連れられるまま歩を進めた。
向かう先には、細川高国から遣わされた使者が待っている。
そして、その使者が訪ねてきた相手の名は――『敦丸』。
「……あーあ」
貴丸は小さく呟いた。
自分で適当に名乗ったはずの名が、今になって、逃げ道を塞いでいた。




