第214話 元伯と忠家01
万里小路秀房からの返事は、未だ届いていなかった。
相馬と大和田の一行が京へ上ってから、すでに幾日かが過ぎている。
「万里小路様からの返事は、まだ来ぬか……」
元伯が誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
その声が聞こえていたのだろう。そばにいた三兵衛が、静かに首を横へ振る。
「まだ来ておりません。何度か確認させておりますが、今のところ返事はないようです」
「そうか……」元伯は小さく息を吐いた。
忠家も難しい顔をしている。
「ないですな。秀房様も、何とかしてくださろうとしているとは思うのですがな」
「そうであろうがな」元伯は小さく息を吐いた。
貴丸が言い出した「帝への献上」は、元伯や忠家にとっても、決して悪い話ではなかった。陸奥からはるばる京までやって来た以上、相馬と大和田の名を朝廷へ届けることには、それなりの意味がある。
ただし、そもそも今回の上洛には、少々変わったところがあった。
戦国の世にあって、地方の武家が京へ上る目的は、朝廷への献上だけではない。将軍や管領をはじめとする幕府の要人に挨拶し、公家と縁を結び、京における人脈を広げることも、上洛する大きな理由の一つである。
官位を得ることもあれば、所領や家格について朝廷や幕府の力を借りることもある。公家との縁が、新たな政治的なつながりへ発展することも珍しくない。
だからこそ、地方の有力者が京へ来れば、誰を訪ね、誰と縁を結ぶかは重要だった。
だが――。
今回の相馬・大和田の一行には、そうした意識がほとんどなかった。
そもそもの始まりが、貴丸の思いつきだった。
相馬の殿から「褒美は何がよい」と問われた貴丸が、何を思ったのか、「じゃあ、京へ行って帝に献上したい」などと言い出したのが事の始まりである。
帝への献上に相馬を巻き込めば、大和田の旅費をかなり抑えられる。
それならば、せっかくの機会だから京へ行ってみよう。貴丸の考えは、その程度のものだった。
もっとも、貴丸には貴丸なりの下心もあった。
地元から持ってきた献上品に加え、請戸で作った鮭の薫製、それに養蜂で採れた蜂蜜も献上する。
この日の本では、まだ広く知られている品ではない。
もし帝への献上をきっかけに、大和田の鮭の薫製や蜂蜜が京で知られるようになれば、商売の種になるかもしれない。
――そんな欲望丸出しの思惑まで抱えての上洛だった。
元伯は、最初こそ半ば呆れていた。しかし、貴丸の思いつきに付き合ってみるのも悪くないと思い、結局は話に乗った。
忠家もまた、この機会を逃せば、一生京へ上ることなどないかもしれないと考え、貴丸の案に加わった。
だから、京まで来た以上、必要な挨拶くらいはするつもりだった。
だが、積極的に公家を訪ね、幕府へ顔を売り、将軍や管領との縁を作ろうなどとは、この一行の誰も考えていなかった。
言ってしまえば――。
今回の上洛は、政治的な目的を持ったものというより、貴丸の思いつきに付き合って京まで物見遊山に来たようなところさえあった。
そんな事情もあり、元伯と忠家は、今のところ大きく動かずにいた。
幸い、今川氏親の後援はある。泰能も、その縁を頼って中御門宣胤を訪ねていた。
宣胤は泰能の義理の父にあたる。頼めば、朝廷への取次について力を貸してもらえる可能性は十分にあった。だが、それをしてしまえば話が少々変わってくる。
中御門家を通じて朝廷へ取り次いでもらえば、どうしても今川氏親の後援による献上という色合いが強くなる。
それでは、今回の献上に込めた意味が薄れてしまう。
相馬と大和田が、陸奥から自ら京へ上り、その名で帝へ献上する。貴丸が望んでいるのは、あくまでそれだった。
だからこそ、元伯も忠家も今は中御門家に頼ることを避け、万里小路秀房からの返事を待っていた。
しかし、その秀房からの返事が来ない。もちろん、秀房が協力する気がないわけではなかった。
むしろ、陸奥からはるばる京までやって来た相馬と大和田の事情を聞けば、何とか力になってやりたいと思っていた。
問題は、朝廷へ取り次ぐには、それなりの準備が必要なことだった。
献上する品。それに伴う礼。取次を願う側としての体裁。そして、さまざまなところで必要となる銭。
相馬も大和田も、決して潤沢な資金を抱えて京へ来たわけではない。
陸奥から京まで人を送り、長い道のりを旅してきただけでも、それなりの費用がかかっている。そのうえ、今回は将軍や管領、公家との交際を目的として準備していたわけではない。
特に、鮭の燻製と蜂蜜は十分な量があるわけではなかった。
あちこちへ配るほどの量はなく、献上する相手もごく限られた者に絞るつもりだった。
秀房も、何とか話を進めてやりたいとは思っていた。だが、献上の品も銭も十分とは言えず、朝廷へ取り次ぐ側としても簡単には話を進められない。
何の準備も整わぬまま話を持ち込めば、かえって相馬・大和田のためにならぬばかりか、秀房自身の面目にも関わる。
急かしたところで、どうにもならない。
「貴丸は、何も考えておらぬのだろうな」
忠家が苦笑する。
「何をですかな?」
「将軍や管領に挨拶をしておくとか、公家に顔を売っておくとか……そういうことを、まあ、考えておらぬだろうな」
元伯も苦笑した。
「……まあ、あの童らしいと言えば、あの童らしい」
忠家がそう言って笑う。元伯も、つられるように笑った。
「確かに……」二人とも、そこでそれ以上は口にしなかった。
貴丸が京へ来るまでに、何をしていたのか。
細川高国方に巻き込まれ、三好元長の軍との戦にまで出ていたこと――。
それについては、元伯も忠家も、あえて誰にも話していなかった。
そもそも、童が管領同士の争いに加わって戦場へ出ていたなど、広まってよい話ではない。
それが京で知れ渡れば、貴丸本人だけの問題では済まない。相馬や大和田が、いったい何のために童を戦場へ出したのかと問われるかもしれぬし、細川高国との関係まで余計な詮索を受ける恐れもある。
ましてや、まだ幼い貴丸が管領家の争いに加わったなどという話が公家や幕府の耳に入れば、どのように受け取られるか分かったものではない。
だからこそ、元伯と忠家の間では、あの一件は「なかったこと」にしていた。
少なくとも、京にいる間は余計なことを話さない。それが二人の暗黙の了解だった。
「まあ……あの童については、余計なことを考えぬくらいで、ちょうどよいのかもしれませんな」
忠家が、少し遠い目をして言う。
元伯も苦笑する。
「そうだな。戦に出たことまで知られれば、今度は何を言われるか分からぬ」
「ですな」二人は顔を見合わせ、今度こそ苦笑した。
ところが――。
そんな話をしていた矢先のことである。貴丸が、いつもの調子で二人のところへやって来た。
「そういえばさ、今日山科言綱様の家に行ってきたよ」
「……山科言綱様だと?」
元伯が眉を上げる。貴丸は何でもないことのように頷いた。
「うん。今日ね、道で浪人にからかわれてた女の子を助けたら、それが言綱様の姪だったみたいでさ。それで山科邸にお邪魔してきたよ」
「……」
元伯と忠家は顔を見合わせた。それだけなら、まだよかった。
翌日、貴丸が言った。
「今日は双六をしに遊びに行ってきたよ。でね、今度はね、双六を作りに行くんだ」
「双六を作る?」
元伯が聞き返す。だが、貴丸はそれ以上詳しく説明するでもなく、いつものようにけろりとしていた。
そして幾日か後、また貴丸が言った。
「明日はね、俺が考えた双六ができたから、長さんとチーちゃんのところへ持っていくんだ」
忠家が、とうとう堪えきれずに口を挟んだ。
「貴丸殿、その……長さんとチーちゃんというのは、いったいどなたなのですか?」
貴丸は、きょとんとした顔をした。
「ああ、長さんは言綱様の嫡男で、チーちゃんは姪御さんだよ」
何でもないことのように答える。
「…………」「…………」
元伯と忠家の動きが、同時に止まった。
「だから、長さんとチーちゃん」
「いや、そこではない」
元伯は額を押さえた。山科言綱といえば、朝廷に仕える公家として今は従二位・権中納言として、名のある人物である。
その嫡男と姪を、貴丸はいつの間にか「長さん」「チーちゃん」などと呼んでいる。しかも、それだけではなかった。
しかも話を聞けば、言綱本人とも貴丸は何度か顔を合わせ、すでにかなり気安い間柄になっているという。
「……貴丸、お前は、いったい京へ何をしに来たのだ?」
「帝に献上しに来たんですけど、それが何か?」
貴丸は、本気で不思議そうな顔をした。
元伯は、もう何も言えなかった。帝への献上だけでも、十分に大事なことだと思っていた。
ところが、この童はその足で、いつの間にか山科家の屋敷へ出入りし、その家の嫡男や姪と親しくなっている。
それも、自分から人脈を作ろうとしたわけではない。道端で助けた少女が、たまたま山科家の姪だった。
ただ、それだけである。
「……まあ、貴丸殿なら、そういうこともあるのでしょうな」
忠家が苦笑する。元伯も、もはや反論する気力を失っていた。
「そうだな……」
ふと横を見ると、当の貴丸は床の上にだらりと寝そべっていた。いつの間にか、自分の歯を爪でこそいでいる。
そして、何を思いついたのか。指先に付いたものの匂いを一度だけ確かめるように嗅いでみた。
次の瞬間、貴丸の顔が歪んだ。
「うっ……!」あまりの臭気に、一度咳き込む。
それでも懲りるどころか、何やら満足そうな顔になると、意気揚々とその指を高々と掲げた。
三兵衛は何も言わなかった。ただ、すっと近寄ると、懐紙を取り出し、貴丸の指先をそっと拭ってやる。
元伯は、それを横目に大きなため息を吐いた。
「……貴丸。お前は何をやっておるのだ」
貴丸は掲げていた手を下ろし、何でもないことのように答えた。
「この頃、歯木を使ってなかったから、歯糞が溜まってさ。でも、これって溜めて誰かに投げつければ、武器になるんじゃね?」
元伯は、しばらく何も言わなかった。
それから――。心の底から、大きなため息を吐いた。
「……わしは、いったい何を聞かされておるのだ」
貴丸は不思議そうに首を傾げる。
「武器になるかもしれないじゃん」
「ならぬわ」
即座に言い切った元伯だったが、その声にも、もはや怒るだけの力は残っていなかった。
「……貴丸……あまりにも不精すぎるぞ」
そう言われた貴丸は、返事をする代わりに、少しだけ尻を持ち上げた。
「ぷぴっ」
「……」元伯の額に、ぴくりと青筋が浮かぶ。
「貴丸……お前と言うやつは!!」
さすがに怒鳴りつけようとした元伯だったが、踏ん張ったせいなのか、ほんのりと顔を赤くしている孫の姿を見て、途中で力が抜けた。
「……もうよいわ……怒るのにも疲れたわ……」
元伯は力なく肩を落とした。その横で、忠家が肩を震わせている。
山科家の嫡男と姪を気安く呼び、当主である言綱とも親しくなっている童が、今は床の上で歯糞をこそげ取り、屁をしている。
元伯には、もう何が何だか分からなかった。
そして、さらに数日が過ぎた。その日の夕刻。貴丸が戻ってくるなり、開口一番に言った。
「じいさん。言綱様に呼ばれて、ちょっと話してきたんだよ。そしたらさ、俺が考えた『一生双六』ってのがあるんだけどね。なんか、あれを言綱様の名で売りたいんだってさ」
「……何の話だ?」元伯の眉が跳ね上がった。
「だから、いいよって言ってきた」
あまりにも軽い。あまりにも軽すぎる。
「ちょ、ちょっと待て、待つのだ、貴丸殿」
忠家まで慌てて身を乗り出した。
「山科言綱様が、その双六を売りたいと? それを……貴丸殿は、了承したのですか?」
「うん、そうだよ」
「……」元伯と忠家は、揃って貴丸を見る。
本人は、何でもない顔をしている。まるで、道端で菓子をもらったから食べていいかと聞かれ、それを了承した程度の顔だった。
「いや……貴丸、何度も言うが、お前は……いったい何をしておるのだ?」
元伯は、深々と息を吐いた。
貴丸は首を傾げる。
「だって、面白いものを作ったんだから、みんなに遊んでもらえたほうがいいじゃん」
「そういう話ではない……ないのだ……ないのだよな? 忠家殿?」
忠家も無言で首を振る。元伯は、とうとう頭を抱えた。
帝への献上を思いつき、陸奥から京までやって来たと思えば、いつの間にか山科家へ出入りするようになり、その嫡男や姪と親しくなっている。
挙げ句の果てには、自分の考えた双六を山科家の名で売り出す話まで取り付けてきた。
しかも、本人には、それがどれほど大きなことなのか、まるで分かっていない。
忠家も、もはや笑うしかなかった。
「元伯殿……この一行で、一番京を楽しんでおるのは、間違いなく貴丸殿ですな」
「……否定できぬな」
元伯は、もう一度だけ大きなため息を吐いた。
歯木:細い木の枝や楊枝を使い、先端を噛んで房状にして歯を磨く道具。
当時の歯ブラシに近いもの。
あ、泰能さんは、中御門家へ行っていて数日は戻ってきません。




