第213話 言綱の部屋で02
そして、床に置かれた『一生双六』へ視線を戻した。
「この話、進めさせてもらってもよいのですな?」
「もちろんでっす。面白いものが、もっと大勢の人に遊んでもらえるなら、その方が俺も嬉しいですよ」
言綱は静かに頷いた。
「そうですか。では、まずは商人の伝手を探すとしましょう。山科家が自ら売り歩くのではなく、こちらの意を汲んでくれる者に任せるのがよいでしょうな」
言綱がそう話すと、貴丸はふと思い出したように顔を上げた。
「それなら、堺に知り合いがいますよ。武野信久さんのところです。皮を扱っていて、俺とは懇意にしてもらってまっす」
「武野殿か。名を聞いたことはあるな……」
その名を聞くと、言綱はしばし考えた。
堺にはさまざまな品と人が集まる。商人との繋がりを持つには、これ以上ない場所である。何より、貴丸が懇意にしている相手だというのなら、話を持ちかける価値は十分にあった。
「それならば、一度相談してみるとよいかもしれぬな。では、武野殿への紹介状を書いていただけますかな?」
「紹介状、すか?」
「うむ。そなたが武野殿と懇意にしていることが分かれば、話も通りやすかろう。それを添えて、こちらから正式に使者を出そう」
「ああ、なるほど。わかりましたっす」
貴丸は気軽に頷いた。
「では、そうするとしよう」
言綱が話をまとめようとしたところで、貴丸が何かを思い出したように口を開いた。
「あ、あの、言綱様。もう一つ、ご相談なんですけど……」
「なんですかな?」
「その一生双六なんですが、安く作れる物と、贈り物にできるような立派な物の、二種類を作るのはいかがですか?」
言綱が興味深そうに貴丸を見る。
「ほう。二種類とな?」
「はい。安く作れる物を廉価版といいます。盤を版画にして、駒も竹や木も使った簡単なものにするんです。そうすれば、一つ一つに手間を掛けなくても、たくさん作れると思いまっす」
貴丸は床に広げられた盤面を指差した。
「逆に、贈り物にできるような立派な物を高級版にします。今みたいに絵師さんに一枚一枚描いてもらって、牛車の駒も、もっと凝った作りにするんです。家の模型なんかも、職人さんにきちんと作ってもらえば、かなり立派なものになるんじゃないかなぁと」
「なるほど……廉価版と高級版とな……」
言綱は口を挟まず、じっと貴丸の話を聞いている。
「それで、どちらにも『山科家御用』とか『山科家御認之品』みたいな印を、大きく入れるんです。そうすれば、勝手に真似して作る人も減るんじゃないかなって。それに、庶民や商人だけじゃなくて、お武家様や公家の方までこれで遊ぶようになれば、自然と山科家そのものの名前も広まります。高級版の方も、『山科家が認めた品』ってことになれば、それだけで価値が出ると思うんです」
貴丸は少し考えながら、さらに言葉を続けた。
「廉価版は、とにかく大勢の人に遊んでもらう。町の人だけじゃなく、もっと多くの人に広まれば、『一生双六といえば山科家』ってなるでしょ?」
「ふむ……」
「その一方で、高級版は誰にでも売るんじゃなくて、贈答用を中心にするんです。それで、言綱様が認めた相手にだけ売るようにする」
「認めた相手にだけ?」
「はい。たとえば、公家や有力な武家、それから大きな商家とか。『山科家から贈られた一生双六』ってだけで、価値が出るようにするんす」
貴丸は指を折りながら、自分の考えを整理するように話した。
「そうすれば、高級版そのものに価値がつきますし、誰に贈るかを言綱様が決めれば、自然と山科家との付き合いも増えるんじゃないでしょうか。そうなれば、言綱様のお名前も、今より広く知られるようになると思うんす」
そこまで聞いても、言綱はすぐには答えなかった。ただ、先ほどまでとは明らかに違う目で、貴丸を見つめている。
貴丸はそれに気づくことなく、さらに話を続けた。
「あ、それと……幸い、先日、版画の絵師と彫り師、それに刷り師をしていた一家がいたんです。今は俺が世話をしてるんすけど、その人たちなら版画を作れるので、廉価版の盤面は、その一家にお願いできると思いますよ」
「ほう」
「俺が聞いた限りでは、当面は食事の面倒を見てもらえれば、仕事をしてくれるってことでしたから。山科家で仕事を請け負う形にして、その一家に版木を彫って、刷ってもらえばいいんじゃないすか?」
貴丸はそこで一度言葉を切った。
「そうすれば、廉価版を誰が作っているのかもはっきりしますし、版木も山科家で管理できます。勝手に同じものを作られる心配も、少なくなると思いまっす」
その言葉を聞いた瞬間、言綱の表情が変わった。
「……版木まで、山科家で管理するのですか?」
「はい。だって、版木が原版なんでしょう? なくしたり勝手に持ち出されたりしたら、同じものをいくらでも作られちゃいますから。誰が持っていて、誰が使えるのかは、ちゃんと決めておいたほうがいいと思います」
言綱はしばらく貴丸を見つめた。
まさか十歳の童から、版木を単なる道具ではなく、商品の原版であり、管理すべき財産として扱うべきだという発想が出てくるとは思っていなかった。
「……なるほど。そこまで考えておったのですか。いや……そなたにとっては、普通なのでしょうな」
貴丸はきょとんとした。
言綱は思わず苦笑した。広間に、しばし沈黙が落ちた。
言綱は床に広げられた一生双六へ目を落とし、それから貴丸へ視線を戻した。
先ほどまで、言綱はこの童を「面白いことを考える子供」だと思っていた。
だが、今の話を聞いて、その認識を改める必要があると感じていた。
この童は、ただ面白い遊びを考えたのではない。
どうすれば多くの人に届けられるのか。どのような品にすれば手に取りやすくなるのか。そして、どうすればそれを山科家の名と結びつけられるのか。
安価な品を広く行き渡らせる一方で、高価な品には別の価値を持たせる。そのうえ、贈答という形で人との縁まで作ろうとしている。
さらには、そのために必要な職人まで自分の手元に確保している。
「……貴丸殿。そなたは、見た目以上に恐ろしいことを考える童ですな」
言綱はそう言って話を切り上げると、しばし考え込んだ。
そして、やがて静かに頷いた。
「よいでしょう。廉価版と高級版、どちらも進める価値がありますな」
貴丸の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか!」
「うむ。ただし、具体的な値段や、高級版を誰に贈るかについては、もう少し考える必要がある。堺の商人との話も含めて、後日改めて相談するとしましょう」
貴丸が嬉しそうに頷く。言綱はそのまま、先ほどの話を思い返すように続けた。
「それと、その版画を作れる一家のことだが……今は、そなたが面倒を見ているのであったな?」
「そうです。今は路頭に迷って苦労してたみたいですけど、元は土佐派の由緒ある家柄だったみたいですし、仕事さえあれば、ちゃんと働いてくれると思いますよ」
「……土佐派とな。なるほど、それならば腕も確かなのでしょうな。ならば、その者たちにも仕事を用意するとしよう」
言綱は迷いなく答えた。
「食事だけで働かせるのではなく、きちんと仕事として扱う。版木を作り、刷り、納めてもらう。その技を山科家のために使ってもらえるのであれば、それに越したことはない」
「ありがとうございまっす!」
貴丸が嬉しそうに頭を下げる。
言綱はそんな貴丸を見ながら、静かに目を細めた。
「一生双六を売るだけではない。職人に仕事を与え、山科家の名を広め、商人との繋がりを作り、贈答を通じて人との縁まで作る……」
そこまで呟いて、言綱は床の盤面へ目を向けた。
「なるほど。貴丸殿がこれを『一生』と名付けた意味が、少し分かった気がしますな」
「え?」
「いや、こちらの話です」
言綱はそう言って、今度こそ穏やかに笑った。
一枚の和紙から始まった遊び。それは今や、単なる子供の遊戯ではなくなりつつあった。
廉価版が町へ広がり、高級版が公家や武家への贈答に使われれば、山科家の名は自然と人々の間に広がっていく。
言綱は改めて、床に広げられた『一生双六』を見つめた。
――これは、確かに山科家の刀になり得る。しかも、血を流す必要も、人を傷つける必要もない。
ただ人の心を惹きつけ、楽しませる。それだけで、山科家の名を世に広めていく。
言綱は、そんな『一生双六』の可能性に、静かな期待を抱いていた。
版画の版木の管理:
同じ図柄を繰り返し印刷するための原版であり、当時の出版・印刷において重要な財産。
版木を失ったり、無断で持ち出されたりすれば、商品の複製や販売にも大きな影響が出る。
そのため、版木の所在や状態を把握し、誰が使用できるかを管理することは非常に重要。




