第211話 双六遊戯後
そして――『一生双六』の遊戯が終わると、部屋にはしばしの静けさが残った。
先ほどまで盤面を追っていた四人は、それぞれの牛車や駒を眺めながら、まだ遊戯の余韻を楽しんでいる。
長松丸と千代は、初めて味わった面白さに目を輝かせ、満足そうな笑みを浮かべていた。
そんな中、貴丸が落ち着きなく身じろぎを始めた。
「……あの、言綱様。ちょっと厠をお借りしてもいいすか?」
三人が一斉に振り向く。 貴丸は気まずそうに立ち上がると、前後を両手で押さえ、ぷるぷると震えていた。
「もう……両方、漏れそう……あっ……………………ぷりっ…」
あまりにも切実な様子に、言綱は思わず吹き出した。
「ははは、そうであったか。誰か、侍女を呼んで、厠へ案内して差し上げなさい」 すぐに侍女が呼ばれる。
「こちらへどうぞ」
「おねしゃす!」
貴丸は侍女に促されると、もはや体裁を取り繕う余裕もなく、小走りに部屋を出ていった。
その後ろから、三兵衛も苦い顔を浮かべながら立ち上がり、慌ててその後を追っていく。
その姿を見送った長松丸と千代は、とうとう堪えきれずに笑い出した。
「ははは……!」「ふふっ……」
やがて長松丸が、堪えきれぬように顔を上げる。
「私は、これほど面白い遊びに興じたのは初めてです」
その言葉に千代も大きく頷いた。
「私もです。生まれてから大往生するまで、武士、僧侶、農民、公家、商人――それぞれの身分や生業の者が、どのような一生を歩むのか。それを遊びとはいえ、自分で辿ることができるのは、まことに面白うございます」
千代は先ほどまでの盤面を思い返すように、並べられた駒や銭へ目を向ける。
「それに、ただ進むだけではございません。どの升で銭を得て、どこで使うのかを考えねばなりませんし、道を選ぶときには先のことも考えなければならない。銭の勘定の稽古にもなりますし、どうすれば身代を増やせるかを考えるのも、とても面白うございました」
そして、千代は盤面を見つめながら、はっきりと言った。
「これは、ただの遊びではありませぬ」
言綱も、その言葉に静かに頷いた。
「うむ。千代の申す通りだな」
言綱は改めて、床いっぱいに広げられた盤を見渡した。
遊戯として見れば、流運列図を用いて駒を進めるだけのものに過ぎない。だが、実際に遊んでみると、その一つ一つに意味がある。 最初に職を定める。
そこから働き、銭を得る。運が良ければ出世し、身代を増やすこともできる。祝言をすれば伴侶を得、子を授かれば家族が増える。
さらに銭を蓄えれば屋敷を手に入れ、財を成して生涯を終えることもできる。 しかし、その一方で病に倒れ、火事に遭い、凶作に苦しみ、山賊に襲われることもある。
借財を重ねれば身代は傾き、大勝負に敗れれば、積み上げてきたものを一度に失うことさえある。
成功もあれば失敗もある。 栄える者もいれば、没落する者もいる。 そして最後には、誰もが大往生へ辿り着く。 言綱は、ふと盤面全体を見渡した。
「……まるで、人の世を上から眺めているような仕組みだな」
誰に向けたともなく、静かに呟く。 一人の人間が生まれ、その身分や生業を定められ、世の中へ出ていく。
その後の人生には、本人の働きだけではどうにもならぬ運もあれば、自らの選択によって変えられるものもある。 それらを一枚の盤の上へ置き、最後まで辿らせてみせる。
「神仏が、人の一生を眺めておられるならば……このようなものをご覧になっているのやもしれぬな」
言綱はそう呟き、改めて貴丸を思い浮かべる。
これまでにも双六は数多く見てきた。絵柄を楽しみ、賽の目に一喜一憂し、酒宴や集まりの席で人と遊ぶ。それらはそれらで趣深いものだ。 だが、これは違う。単に駒を進める遊びではない。
「人の一生そのものを、遊びの中へ落とし込んでおる……」
言綱の脳裏には、先ほどの貴丸の人生が浮かんだ。
公家として始まった貴丸は、銭に恵まれず、借財を重ねた。その一方で子宝には異様なほど恵まれ、最後には屋敷すら買えず納屋しか手に入れられず、挙げ句の果てには大勝負に敗れて隠岐へ流された。
それを思えば、笑い話に過ぎない。だが、その笑いの中には、人の世の姿そのものがあった。
言綱は盤上へ目を落とした。
職を定め、出世を目指し、伴侶を得、子を成し、財を蓄える。その一方で、災難に見舞われることもあれば、自ら大きな勝負に出ることもある。
「……なるほど。人の一生とは、こうして見れば、運だけで決まるものでもないのだな」
言綱は、盤上の升を一つずつ追うように目を動かした。
「どこで銭を使うか、どの道を選ぶか、いつ勝負に出るか……遊ぶ者自身が、その一生を決めてゆくのか」
その声音には、次第に感嘆が滲んでいた。
貴丸が考えたものは、単なる玩具ではない。
人が生きる上で遭遇する喜びも、苦しみも、富も貧しさも、出世も没落も、一枚の盤の上で味わわせる。 まさに、人の一生を凝縮したような遊戯だった。 そして、そこまで考えが及んだとき、言綱はふと別のことに気づいた。
「……これは、求める者が多かろうな」
思わず漏れた言葉に、長松丸が顔を上げる。
「求める者が、ですか?」
「うむ。武家の者はもちろん、公家も興じるであろう。商人ならば、なおさら面白がるはずだ。自分とは異なる身分の者が、どのような一生を送るのか。それを遊びながら辿れるのだからな」
言綱は盤面へ目を落とし、先ほどまでの遊戯を思い返す。
「作りを簡素にすれば、値も抑えられよう。そうなれば、裕福な者だけでなく、町の者にも広まるやもしれぬ。農村でも、何人かで銭を出し合えば遊べるようなものにできれば、なおよい」
そこまで考えたところで、言綱はふと眉を寄せた。
だが――。 これを山科家が自ら売り歩くというのは、どうであろう。
山科家の名を掲げて品を作り、それを商人の店先へ並べ、銭を受け取って売る。そうなれば、文化を扱う公家の家というより、商いそのものを生業とする家のように見えてしまう。
それは、山科家の家格や体面を考えれば、あまり良い形とは言えない。
「……いや、山科家が自ら商う必要はないな」
言綱は静かに呟いた。
「作るところまでは、こちらでよい。絵柄や文言、盤面の仕立てについても、山科家として目を通す。それを商いに長けた者へ預ければよいのだ」
幸い、山科家にはこれまでの付き合いから、頼れる商人もいる。
そうした者に製作や売り捌きを任せれば、山科家が表立って商売をする必要はない。売れれば商人にも利益が入り、山科家にも相応の銭が入る。
そして何より、山科家の名を冠した文化として世に広めることができる。
「それならば、山科家の面目も立つ」
言綱はそう考えながら、盤面に並ぶ色とりどりの駒を見つめた。
この双六が広まれば、ただ銭を得られるだけではない。
「一生双六といえば山科家」と知られるようになれば、それは山科家が生み出した新たな文化となる。
公家や武家、寺社、商人との縁も、これまで以上に広がるかもしれない。
戦乱の世にあって、公家が家を保つには、朝廷での家格や故実だけに頼っているわけにはいかない。人との縁を結び、文化を育て、それを世に広める。
その中から新たな縁と糧を得ることもまた、家を存続させるための一つの道である。 言綱は、改めて盤面を見渡した。
一枚の和紙から始まった遊びが、山科家の名を世に広めるものになるかもしれない。 そう思うと、先ほどまでとは違ったものに見えてくる。
やがて、貴丸がすっきりした顔で戻ってきた。
どうやら先ほど粗相をしたらしく、この邸の侍女から替えの褌を借り受けたらしい。三兵衛は苦い顔をしながら、汚れた褌を包んだ布を抱えている。
その一方で、貴丸は何事もなかったかのような晴れやかな顔で、先ほどの遊戯に使った駒を拾い集めていた。
「しかし、よくこんなものを思いついたものですな」
言綱が声を掛けると、貴丸が顔を上げる。
「え? 面白かったでしょう?」
「うむ。実に面白かったですな」言綱は穏やかに笑った。
床に広がる『一生双六』へ目を落とす。先ほどまでただの遊びに見えていたものが、今は商いの種にも見えていた。
――まずは、付き合いのある商人に見せてみるか。
どれほどの費用で作れるのか。どれほどの者が買い求めるのか。調べてみる価値は十分にある。
そして、ふと貴丸へ目を向けた。
(しかし……この年で褌に粗相しておる童のほうが、よほど面白い気もするがな)
三兵衛の抱える布を見て、言綱は思わず苦笑する。
だが、それはそれとして――この『一生双六』が、山科家に新たな財と名をもたらす可能性は十分にありそうだった。




