第210話 双六遊戯
そして――いよいよ、『一生双六』の試作で遊ぶことになった。
「では、始めましょうか」
両替商役を務めることになった三兵衛が、盤の脇に銭を並べた。
今日の遊戯には、貴丸、長松丸、千代、そして言綱の四人が参加する。
三兵衛は遊戯者には加わらず、両替商役として、升の指示に応じて銭を渡したり、足りなくなった者に銭を貸したりする役目だ。
まずは四人がそれぞれ自分の牛車を選ぶ。
貴丸は青、長松丸は黒、千代は朱色、言綱は緑の牛車を手に取った。
「私はこれにします」
千代が朱色の牛車を盤の上へ置き、その上に自分の駒を載せる。ただし、千代だけは女であることが一目で分かるよう、牛車に朱色の竹製の棒を一本差し込むことになっていた。
こうして準備が整うと、いよいよ一生双六の始まりである。
最初の升は『誕生』。そこから流運列図を回し、止まった先でそれぞれの人生が決まっていく。
貴丸は公家。千代は武士。言綱は農民。そして長松丸は僧侶。
「おお、父上は農民ですか!」
長松丸が面白そうに言うと、言綱は盤面を眺めながら穏やかに笑った。
「たまには、そういう人生もよかろうよ」
一方の貴丸は、公家という結果に少しばかり満足げだった。
「俺は公家か。やはり、こういうところで育ちの良さが出るんだろうねぇ」
だが、その直後から、貴丸の運命は急速に怪しくなっていった。
最初のうちは、四人とも似たような速度で盤上を進んでいた。だが、何度か流運列図を回していくうちに、明らかに運の差が出始めた。
とりわけ強かったのが言綱である。
豊作の升に止まって銭を得れば、次の災いは見事に避ける。病にも火事にも遭わず、商いも順調。分かれ道では都合のよい道を選び、さらには「もう一度振る」の運命まで引き当てた。
「父上、随分と運がよろしいですね」
長松丸が盤を覗き込みながら感心する。
「これも双六の運というものよ」
言綱は笑っているが、三兵衛が差し出す銭の山は、着実に増えていった。
反対に、貴丸は悲惨だった。病に倒れ、家屋の修繕費を払い、商いにも失敗し、挙げ句の果てには賊に遭って銭を失う。ようやく稼いだと思えば、すぐに何かの升へ引っ掛かって出費が発生する。
とうとう持ち銭が尽きると、三兵衛から借りることになった。
二万。四万。六万。八万。気が付けば、借金は八万にまで膨れ上がっている。
「……公家なのに、借金八万」
長松丸が盤を見ながら呟いた。貴丸は何も答えず、ただ仏頂面のまま流運列図を回す。
その様子をしばらく眺めていた言綱が、ふと苦笑を漏らした。
「まるで、現実の公家のようですな」
「……父上、それはどういう意味でしょうか?」
長松丸が尋ねると、言綱は盤上の貴丸の牛車を見ながら答えた。
「いやなに。銭に困り、借りを重ねながら、それでも家を保たねばならぬ。今の公家の有様を見ているようで、つい口にしてしまった」
「…せめて遊びの中くらい、羽振りのよい公家にしてほしいんだけど」
貴丸が恨めしそうに呟く。その一言に、千代が思わず吹き出し、長松丸も肩を震わせた。言綱も「これは失礼」と笑いながら頭を下げた。
「貴ちゃん、次はきっと良いことがありますよ」
千代が慰めるように言う。しかし、千代自身はすでに何度も良い升を引き当て、貴丸との差を大きく広げていた。
それでも貴丸には、たった一つだけ異様なほど恵まれているものがあった。
子宝である。
祝言を終えた貴丸の牛車には、妻の駒が一つ加わった。その後、子宝の升に止まるたび、子どもの駒も一つずつ増えていく。
牛車には、本人と伴侶、それに子どもの駒を載せるための穴が設けられている。
ところが貴丸は、子どもの駒が増えても止まらなかった。とうとう最後には六人目が生まれたのである。
「……」
貴丸は牛車をじっと見つめた。
貴丸と妻の駒の後ろには四人の子どもの駒が並び、置き場所のない五、六人目の駒が窮屈そうに押し込まれていた。
千代はそのたびに、口元を袖で隠してくすくすと笑っていた。
「何だよ……」
「いえ。貴ちゃんは、随分と子宝に恵まれましたね」
「銭は全然恵まれてないんだけどな」
その言葉に長松丸が吹き出す。
「公家で借金まみれなのに、子どもだけは六人か。貴の一生は面白いな」
貴丸がますます不機嫌そうな顔になる。すると、盤面を眺めていた言綱が、ふと思いついたように呟いた。
「貴丸殿は、大足彦忍代別天皇のようですな。子宝に恵まれたという意味では」
「ふふっ……!」
千代がまた笑い出す。とうとう堪えきれなくなったのか、袖で口元を押さえたまま「けほっ、けほっ」と咳き込んでしまった。
貴丸は言綱を見上げると、ため息交じりに言う。
「……俺は八十人も作らないっすよ」
一瞬、部屋が静まり――今度は言綱まで腹を抱えて大笑いした。
その後も貴丸の牛車には子どもの駒が増え続け、終盤に差しかかる頃には、ついに八人にまでなっていた。
さらに遊戯が進むと、今度は出世の升へ差しかかる。
ここでは、それぞれの職に応じて身分が上がっていく。最初に運を味方につけたのは言綱だった。
農民から見事に庄屋へ。続いて長松丸は僧侶から大僧正へと出世を果たした。
千代も武士から領主へと昇りつめる。
「おお、皆すごい!」
長松丸が喜ぶ一方、貴丸の駒だけは、いつまで経っても変わらなかった。
公家のまま。借金だけが増え、子どもだけが増え、出世だけはしない。
「……俺は?」
貴丸が盤を見つめる。しかし、どれだけ進んでも出世の機会は訪れなかった。
それを見た長松丸は、とうとう堪えきれずに笑い始める。
「貴、ずっと公家のままだな」
「うるさいなぁ。俺も大臣になりたかったよ……」
貴丸はふくれっ面で流運列図を回した。
その後も四人の差は縮まらなかった。やがて終盤へ入り、いよいよ屋敷を買う場面になる。この頃には千代が大きく先頭を走っていた。
最初に選べるのは、もっとも立派な屋敷――城である。
千代は迷うことなく城を手に入れた。続いて言綱が大屋敷。長松丸は中屋敷。
そして最後に残されたのは、小屋敷と、そのさらに下にある小さな納屋だった。
貴丸は盤の上に残された建物を見比べる。
「小屋敷……」
だが、手持ちの銭は残っていない。というか、まだ借金を返済していない。
三兵衛が計算を終え、静かに告げた。
「貴丸様、借金がありますので、こちらの方が良いのではありませんか?」
三兵衛が指したのは、屋敷ですらない。
小さな納屋だった。
貴丸はしばらく無言でそれを見つめた。
長松丸も千代も、言綱も笑いそうになったが、さすがに貴丸の顔を見て口を閉じる。
「……納屋かよ。俺、公家なんだけど」
貴丸が呟く。誰も返事をしなかった。
「公家なのに、納屋」その呟きに、言綱たちは笑いそうになり慌てて口を押さえた。
それでも三兵衛は真面目な顔で答える。
「銭がございませんので……」
貴丸は深々とため息をついた。
こうして四人の人生は、いよいよ終盤へ差しかかった。最後に残されたのは、『一生最大の賭け』という大きな升だった。
貴丸はその前で腕を組み、しばらく盤を睨んでいた。
「……ここに賭ける。もういい。どうせここまで来たんだ。最後くらい、ひっくり返してやる!」
長松丸が心配そうに見つめる中、貴丸はもう引き返す気などなかった。
「ここで当てれば、今までの借金も全部ひっくり返せるんだからさ」
そう言って、最後の賭けに挑む。
四人が見守る中、流運列図が回された。からからと音を立てて針が回り、やがて勢いを失っていく。
貴丸は身を乗り出した。
「頼むぞ……!」
針が止まった。
外れ。一瞬の静寂。そして、三兵衛が淡々と告げた。
「……貴丸様は、隠岐へ島流しとなります」
次の瞬間。
「あはははははっ!」
長松丸が腹を抱えて笑い出した。
千代もとうとう堪えきれず、袖で口元を覆いながら肩を震わせている。言綱まで顔を背け、笑いを隠していた。
貴丸は盤面を見つめたまま固まっていた。
公家のまま出世せず、借金は返せず、子どもだけは八人に増えた。屋敷は納屋。そして最後は島流し。
「……俺の一生は、なんなんだよ」
その呟きが決定打となった。三人の笑い声が、山科邸の一室に響き渡る。
やがてすべての遊戯を終え、三兵衛が結果をまとめた。
一位、言綱。
二位、千代。
三位、長松丸。
そして――最下位、貴丸。
「見事に負けましたな」
三兵衛が淡々と告げる。千代は盤面を眺めながら、くすくすと笑った。
「貴ちゃんのお嫁さんは、さぞ苦労をしそうですね。子育てに、銭の工面。ふふふっ」
すると言綱が、真顔のまま頷く。
「そうですな。千代を貴丸殿に嫁がせるのは、やめておいたほうがよさそうですな」
冗談なのか本気なのか分からない声音だった。
千代が目を丸くした次の瞬間、長松丸が吹き出し、千代も堪えきれずに笑い出す。
「なんで俺が責められてるんすか……」
貴丸だけが、ますます苦い顔になった。貴丸はしばらく不満そうにしていたが、やがて観念したように息を吐いた。
「……約束だから、仕方ないか」
遊戯を始める前、最下位になった者は何か一芸を披露する、と決めていたのである。
貴丸は懐へ手を入れ、小さなものを取り出した。
「じゃあ、これをやりまーす」
手の中に現れたのは、一枚の銭。
「銭? それで何をするのだ?」
長松丸が不思議そうに見つめる。
貴丸は答えず、銭を一枚、指の間に挟んだ。
次の瞬間――。
「……あれ?」長松丸が目を瞬かせる。
さっきまで貴丸の指の間にあった銭が、消えていた。
「えっ?」千代も目を丸くする。
貴丸は何食わぬ顔で手のひらを開く。
何もない。ところが、次の瞬間には、消えたはずの銭が反対の手から現れた。
「おおっ!」今度は言綱まで身を乗り出す。
貴丸は得意げに、さらに一枚、二枚と銭を消しては現してみせる。最後には、言綱の目の前で消えた銭が、なぜか長松丸の袖口から出てきた。
「な、なぜ私のところから!?」長松丸が慌てて袖を確認する。
千代は声を上げて笑い、言綱も思わず目を細めた。
「これは面白い。双六に負けても、最後にこのような芸が見られるとはな」
「でしょ?」貴丸はようやく機嫌を直し、得意満面に胸を張った。
こうして、一生双六の初めての遊戯は幕を閉じた。
言綱は一位、千代が二位、長松丸が三位。そして貴丸は最下位。
借金を抱え、納屋を手に入れ、最後には隠岐へ流されるという、まさに散々な一生であった。
それでも四人の顔には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
一枚の和紙から始まった遊びは、本当に人の一生を笑いながら追体験できるものになっていた。
大足彦忍代別天皇:(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
第12代景行天皇。日本武尊の父。
記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人、合計80人の御子がいたらしい。




