第208話 山科邸の帰り
山科邸を辞した一行が妙心寺へ向かう頃には、日は少しずつ西へ傾き始めていた。
京の町は、華やかな御所や大寺院の周囲こそ人の往来が絶えないものの、少し道を外れれば、戦乱の爪痕を残した場所がいくらでも残っている。
崩れかけた土塀。主を失ったまま朽ちていく屋敷。雑草に覆われた空き地。かつては人の暮らしがあったはずの場所を、今では風だけが通り抜けていた。
いつもなら、ここから妙心寺へ向かう道は決まっている。だが、その道の分かれ目で、貴丸がふと足を止めた。
「あっちの道、行ってみたい!」
貴丸が指差したのは、いつもの道とは反対側へ伸びる細い道だった。
泰能は眉を寄せる。
「……向こうの道か? 妙心寺へ戻るのであれば、いつもの道を通ればよかろう」
「でも、今日は探検したい! あるある探検隊!」
「……たんけん? あるある?」
聞き慣れぬ言葉に泰能が首を傾げる。三兵衛も同じように貴丸を見つめていた。
貴丸は二人の顔を見比べ、少し考えてから、自分なりの言葉に置き換える。
「えっと……初めての道を通って、新しいことを見つける的な?」
「なるほど。つまり、知らぬ道を歩いて、珍しいものを探すということでございますか」
「そう、それっそれぇ!」
貴丸は嬉しそうに頷いた。
「ならば、最初からそう仰ってくださればよろしいものを」
「でも、探検って言ったほうがかっこいいじゃんよ」
「はあ……貴丸様らしいと言えば、貴丸様らしいですな」
三兵衛は苦笑し、泰能も肩をすくめた。
「じゃあ、行こう!」
貴丸が意気揚々と歩き出そうとしたところで、泰能がすぐに肩を掴んだ。
「待て。ここは京なのだぞ。見知らぬ道を好き勝手に歩くような場所ではないのだ。特にこの辺りは人の往来も少なさそうだ。何があるか分からんぞ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫ではない」
「大丈夫だって」
「だめだ」
「やだようん」
「だ・め・だ!」
しばらく押し問答を続けた末、横にいた三兵衛は小さくため息を吐いた。
「……貴丸様。妙心寺へ戻るのであれば、いつもの道を通る。それが一番でございます」
「でも、違う道を行きたい」
「なりませぬ」
「絶対?」
「絶対に」
貴丸はしばらく黙り込んだ。やがて、何かを思いついたように顔を上げる。
「じゃあ、違う道に行かないと……」
嫌な予感を覚えながら、泰能が聞き返す。貴丸は真顔になった。
「“んこ”、漏れるかも!」
「…………」「…………」
三人の間に、妙な沈黙が落ちた。三兵衛が額を押さえる。
「……何を仰っているのですか、貴丸様」
「だって、漏れそうだもん」
「今まで、そのような素振りはまったくございませんでしたが?」
「今、漏れそうになった。もう今度は口からじゃなくて、耳からも漏れそう」
「……嘘でしょう」
「ほんと、ほんと! 弥太さんが俺の言うことを素直に聞くくらいにほんと!」
泰能は何かを言おうとしたが、ふと以前の戦場での一件を思い出したのか、天を仰いだ。そして、深いため息を吐く。
「……分かった。ただし、道を外れたり、勝手に走ったりしてはならんぞ」
「ほんと?」
「本当だ。仕方がなかろう。漏れるのであろう?」
「やったぁ! 弥太!」
満面の笑みを浮かべる貴丸を見て、三兵衛は呆れたように笑った。
「まったく……最後はそれで押し切るのでございますか」
「だって、探検したいんだよんだよん!」
こうして一行は、普段なら通らない細い道へと入っていった。
だが、寺町から少し外れたところまで進むと、次第に人の気配が少なくなっていく。右手には半ば崩れた廃屋が並び、左手には背の高い竹藪が続いていた。道を歩く人影もなく、聞こえるのは竹の葉が風に擦れる音ばかりである。
その時、竹藪の陰から二つの人影が現れた。
一人は大柄な男、もう一人は、それよりも小さい少年だった。二人とも頭には布を巻き、顔には泥や煤が付いている。
服もひどく汚れており、男は痩せ、少年の頬もこけていた。表情こそよく分からないが、その歩き方を見れば、怯えていることは明らかだった。
泰能が貴丸を一瞬睨む。「だから言ったであろうに」小さく呟くと、一歩前へ出た。
「何者だ。この先に用がない者なら、道を開けよ」
低い声が響く。男はびくりと肩を震わせた。しかし、逃げることもできず、追い詰められたように懐へ手を入れる。取り出したのは、小さな刃物だった。
「……銭を置いていけ。食うものでもいい……渡せば、無体なことはしねぇ」
隣の少年も、震える手で鑿のような道具を握りしめている。
泰能の目つきが変わった。すらり、と刀が抜かれる。
夕日の光を受けた刃が白く輝いた瞬間、男の顔から血の気が引いた。自分たちが向かっている相手が、ただの旅人ではないことを悟ったのだ。
貴丸は二人をじっと見つめた。痩せて頬はこけ、服は汚れている。武器を持っているというより、武器にすがっているようにしか見えなかった。
その時、小さな少年が震える声で呟いた。
「……父ちゃん」その一言で、貴丸には何となく分かった。
この二人は、最初から人を襲いたかったわけではない。武器を握っているというより、追い詰められて、それに縋っているように見えた。
貴丸は一歩前へ出た。
「ねえ。今、その武器を下ろせば、ここは見逃してあげるけど?」
男が顔を上げる。貴丸は続けた。
「俺の前後を守っている人たちは、本当に強いよ。そんな小刀や鑿じゃ、向かったところで斬られるだけだから。どうする?」
しばらく沈黙が続いた。やがて、男の手から小刀が落ちた。
からん。乾いた音が道に響く。少年も慌てて鑿を捨てる。すぐに三兵衛が近づき、二つの刃物を拾い上げた。
その時だった。竹藪の奥から、別の声が聞こえた。
「お許しくださいませ!」
現れたのは、一人の女と、さらに幼い少女だった。女は涙を流しながら泰能へ頭を下げる。
「もう……こうするしか、この子たちに食べさせる方法がなかったのです……どうか、お許しくださいませ」
男も少年も、その場へ膝をついた。
「申し訳ございません……命だけは……」
泰能はしばらく黙っていたが、やがて刀を鞘へ戻した。そして貴丸を見る。貴丸は小さく頷いた。
貴丸が男へ問いかける。
「どうしたの?」
男は顔を上げられないまま、震える声で答えた。
「……私は、以前は版画の彫り師をしておりました。寺社の縁起や経典などを刷る仕事でございます。ある寺の出版物を扱う版元で、私は版木を彫っておりました」
貴丸は男の手を見る。指は太く、節が張っている。指先には細かな傷がいくつも残っていた。長年、刃物を使ってきた者の手だった。
「じゃあ、その鑿は……」
「仕事道具でございます。私に残された、最後の道具でございます」
男は落とした鑿へ目を向けた。
「もともと、私は武家の生まれでございました。父の代までは、小身ながらも武家として仕えておりましたが、戦で父を亡くし、家も失いまして……武士として生きる道を失った後、寺の版元に拾われたのでございます。そこで働くうちに、版木を彫る技を覚えました」
「へえ……」
貴丸は感心したように男を見る。武士から職人へ。その道のりが、決して楽なものではなかったことくらいは分かった。
「では、奥さんは?」
女が少し迷うように視線を伏せてから、静かに答えた。
「土佐行定の娘にございます。幼い頃より父に絵を習っておりました。大した腕ではございませんが、寺社の縁起などの下絵を描く仕事をしておりました」
「土佐行定の娘だと? もしや、土佐派の絵師として名のある一族か?」
その名に、泰能もわずかに目を見開いた。
女は俯いたまま、小さく頷いた。貴丸は女の顔を見つめ、それから少年へ視線を向けた。
「大した腕じゃないの? じゃあ、その子は?」
少年はびくりと肩を震わせたが、男が代わりに答えた。
「息子でございます。私から彫りを教え、版元では刷りの仕事も覚えさせておりました」
「刷りもできる?」
少年は小さく頷いた。
「……はい」
貴丸は三人を順番に見た。
絵を描く者。版木を彫る者。そして、それを紙へ刷る者。
「……すごいじゃん」
思わず、貴丸の口から声が漏れた。
男も女も、意味が分からないという顔をする。
男は苦しそうに続けた。
「ですが、その寺が争いに巻き込まれまして……」
室町の京では、寺社もまた武力と権力を持っている。争いが起これば、そこに関わる職人たちの暮らしまで巻き込まれる。
「版元も焼け、仕事も道具も失いました。その後、他の版元を探しましたが、紹介もなく、道具もない私を雇ってくれるところはありませんでした。妻と子を連れて、寺社が施す食などを頼りに、どうにか生きておりました」
女が静かに続ける。「ですが……」
そこで声が震えた。男が悔しそうに拳を握る。
「僧兵の中には……妻に、その……一夜の相手をすれば、食べ物を渡すと言う者もおりました……」
その言葉を聞いた瞬間、泰能の表情が険しくなった。だが貴丸は、湧き上がる怒りを飲み込むようにして、目の前の家族を見つめた。
「今日、俺たちを襲ったのは初めて?」
女が頷く。
「はい。今までは……どうにか耐えておりました。ですが、三日前からほとんど何も食べておらず……このままでは、この子たちが……」
そこから先は、言葉にならなかった。
貴丸は四人を見回した。そして、しばらく考える。
「じゃあさ。俺も居候みたいなものだけど、仕事を探してみる。それまで寺に来る?」
「……え?」
四人とも意味を理解できず、固まった。貴丸は三人の職人を見ながら続ける。
「数日だけ待って。絵師がいて、彫り師がいて、刷り師もいるんだよね? だったら、きっと仕事になるよ。だって、せっかく技を持っているのに、それを使わないのはもったいないじゃん」
男の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……よろしいのでございますか」
「うん。ただし、もう人を襲うのはダメだからね」
「……はい! ありがとうございます……」
男は深々と頭を下げた。妻も頭を下げ、少年と少女も慌ててそれに倣う。男は何度も何度も頭を下げ続けている。
その様子を隣で見ていた三兵衛が、深いため息をついた。
「貴丸様……やはり、貴方様は妙なお方ですな」
泰能も拾った小刀を眺めながら、小さく笑う。
「普通なら、盗人として然るべきところへ引き渡すか、斬って捨ててもおかしくはないでしょうに」
貴丸は首を傾げた。
「だって、盗みたいんじゃなくて、生きたかっただけでしょ?」
その言葉に、誰も返すことができなかった。
冬の京を冷たい風が吹き抜ける。
竹藪がざわざわと揺れ、傾き始めた日の光が細い道へ差し込んでいた。
その日、一つの家族は、久しぶりに明日の飯を心配せず眠れる場所を得た。
まぁ、お約束は大事ですからね。。




