第207話 貴ちゃんは運動音痴
その日も貴丸と三兵衛は山科邸を訪れ、長松丸の部屋へ向かった。
午後には、双六の駒や牛車、屋敷などを作る指物師や木地師が、打ち合わせのために訪れることになっている。その前のひととき、長松丸が笑顔で声をかけた。
「せっかくだ。今日は蹴鞠をいたそうか」「いいですね」
千代も嬉しそうに頷き、女房に手伝われながら、動きやすい狩衣へと着替えた。
貴丸も笑って頷いたが、ふと蹴鞠をする自分の姿を想像し、少しだけ苦笑した。
「蹴鞠かぁ。やってみたいけど、俺、”運痴”だからなぁ~」
「……う、うんち、ですか?」千代が思わず聞き返した。
その瞬間、貴丸は固まった。言ってから気づいた。知らぬ言葉とはいえ、女の子に自分はいったい何を言わせているのだ、と。
「えーっと……まあ、その……明では、そんなことを言ったとか、言わなかったとか……」
気まずそうに視線を逸らして濁すと、千代は「明では?」と首を傾げた。
「明では、そういう言葉があるのですか?」
「まあ……うん。そういう感じ……かも?」
貴丸が曖昧に答えると、千代は「なるほど……」と呟き、しばらく真剣に考え込んだ。そして、何かを思いついたように顔を上げる。
「『うんち』……一体、どういう意味なのでしょう。あ、貴ちゃんは、言わないでください! 私が『うんち』とは何かを当ててみます!」
嫌な予感がしたが、千代はもう自分の考えに夢中だった。
「えーっと……『うんち』の『うん』は、『運命』の『運』ではありませんか? そして『ち』は……『大地』を表す『地』。つまり、『運命の地』!」
貴丸は、何も言えなくなった。千代はさらに考えを巡らせる。そこで、ぱっと目を輝かせた。
「運命の地……。人が最後にたどり着く場所……あ、そうです!『うんち』とは極楽浄土ではありませんか!」
「なんでそうなるん!?」思わず貴丸が声を上げる。
「『うんち』とは、極楽浄土を示す言葉だったのですね! 良い言葉です『うんち』!」
「違う違う違う! そんな立派な言葉じゃないから!」
貴丸は慌てて手を振ったが、千代はむしろ納得したように頷いている。
「でも、運命の地の『うんち』が極楽浄土というのは、とても美しい意味だと思います。では明と言うことは、仏教の教えにある言葉なのですね?」
「違います!」
「そうなのですね!『うんち』、そう考えるととても素晴らしい響きです!」
「なんで納得したのよ!?」
千代は嬉しそうに微笑むと、すっかり気に入った様子で「では、今日から覚えておきます。『うんち』は極楽浄土を示す言葉……うんち、うんち、うんち」と呟いた。
「覚えなくていいよ!」
「うんち! 私もうんちに行きたいです!」
「言わないで!」
「うんち、うんち、うんち……」
「チーちゃん、だから連呼しないでよ!」
貴丸が頭を抱える横で、長松丸が怪訝そうに二人を見た。
「何を騒いでいるのだ?」
「長さんは、聞かない方がいい!」
「なぜだ?」
「知らない方が幸せだから!」
それでも千代は気にする様子もなく、「極楽浄土……うんち、うんち……」と楽しそうに呟いている。
「だから違うってば!」貴丸は必死に訂正したが、もう遅かった。
千代の中ではすでに、『うんち=運命の地=極楽浄土』という、とんでもない仏教用語が完成していた。
そして何より困ったことに、千代は満面の笑みで貴丸を見つめると言った。
「でも、なぜ貴ちゃんは『うんち』なのですか?」
貴丸は力なく肩を落とした。
そんな貴丸の嘆きをよそに、千代はまだ「うんち、うんち」と楽しそうに呟いていたが、やがて三人は蹴鞠をするため庭へと出た。
そして、庭へ出ると、長松丸は軽く鞠を蹴り上げる。ぽん。鞠は真っすぐ青空へ吸い込まれるように高く舞い上がった。
「おおー!」貴丸が思わず声を上げる。
長松丸は落ちてきた鞠を足の甲で柔らかく受け、そのまま何度も美しく蹴り続ける。鞠はまるで足に吸い付いているかのようだった。
「さすが長松丸様ですな」
三兵衛が感心して呟く。続いて千代も輪に加わる。
長松丸ほどではないが、足運びは軽やかで、危なげなく鞠をつないでいく。
ただ、鞠が高く舞い上がるたびに、千代は細い目をさらに眇め、顔を少し上へ向けて懸命に鞠を追っていた。
「あっ……見失いました」
一度だけ受け損ね、照れくさそうに笑う。それでも長松丸が蹴る高さを少し抑えると、再び上手につなぎ始めた。
「千代姉上も十分上手ですよ」
「ありがとうございます」
二人は楽しそうに鞠を蹴り合う。
そして――。「次は貴だ」貴丸は意気揚々と前へ出た。
飛んできた鞠を思い切り蹴ろうとする。しかし、すかっ。足は見事に空を切った。
「あれ?」
もう一度。今度は足が届かず、ぴょこんと跳ねるだけで終わる。
「えいっ!」
ようやく当たったと思えば、ぽこん。鞠は情けない音を立てて、目の前へころころと転がっていった。
「……」長松丸も千代も思わず苦笑する。
「まだまだ!」
貴丸は転がる鞠を追い掛ける。勢いよく振り上げた足が、ぶんっ。
「あぶなっ」
後ろで見守っていた三兵衛の脛すれすれを通り抜けた。三兵衛は慌てて半歩身を引く。
「貴丸様、拙者ではなく鞠を蹴ってくだされ」
「め、めんご!」
再挑戦。今度こそと思った瞬間、自分の足がもつれ、
どてっ。豪快に尻餅をついた。長松丸が吹き出す。千代も口元を袖で隠しながら肩を震わせている。
貴丸は立ち上がると、土を払いながらふてくされた顔になった。
「つまんないでごわす!」
「ごわす?」長松丸が首を傾げる。
「オラ、家の中で遊ぶ遊びが好きでごわす!」
何ともよく分からない口調で言い放つと、貴丸はぷいっと屋敷の中へ戻っていった。
「待ってください、貴丸様」三兵衛も苦笑しながら後を追う。
残された長松丸と千代は顔を見合わせ、
「あはははっ」思わず笑ってしまった。
部屋へ戻ると、まだ少しふくれた顔の貴丸が腕を組んで座っている。
そこで先ほどの蹴鞠の話でひとしきり盛り上がったあと、長松丸がふと思いついたように手を叩いた。
「そうだ。せっかくだから連歌をしようか」
「いいですね」千代も嬉しそうに頷く。
貴丸はきょとんと首を傾げた。
「皆で句をつないで遊ぶのです。まずお題を決め、それに合わせて上の句、下の句を詠んでゆくのですよ」
貴丸は少し考えた後、にやっと笑っていう。
「へぇ、おもしろそうだね。じゃあ、俺、下の句担当ね」
長松丸は少し考えていう。
「では、お題は『冬』にしようか」
そう言って静かに詠み始める。
「冬枯れの 野辺を渡れば――」
千代も少し考え込み、穏やかに続けた。
「――月の光の なお冴えにけり」
二人の視線が貴丸へ向く。
「貴、最後を頼む」
貴丸は腕を組み、「うーん」と唸る。
やがて真顔で口を開いた。
「それにつけても 銭の欲しさよ」
一瞬の静寂。そして、「ふふっ……!」千代が吹き出した。長松丸も肩を震わせる。
「冬なのに、最後だけ俗っぽすぎるではないか」
「だって銭は大事だもん。でしょ?」
貴丸は悪びれもせず笑った。
三人はしばらく笑い合う。
やがて長松丸が笑いを拭いながら言う。
「では次のお題は……双六だな!」
今度は二人とも真剣な顔になる。長松丸が盤を眺めながら一句。
「人の世を 盤の道ゆく――」
千代も続ける。
「――運に身を任せ 夢を追う」
そして再び貴丸の番。
「それにつけても 銭の欲しさよ」
今度こそ長松丸は堪えきれなかった。
「あはははっ! 貴、それはさっきと同じじゃないか!」
千代も口元を押さえながら笑っている。
しかし貴丸は胸を張った。
「でもさ、この句、何にでも合うでしょ?」
千代は試しに先ほどの句を頭の中で繰り返してみる。
冬の景色にも。双六の句にも。
不思議なことに、最後へ付けると妙にしっくりきてしまう。
「……本当ですね」思わず千代が笑った。
「何に付けても、それらしく聞こえてしまいます」
長松丸も腹を抱えて笑う。
「それでは連歌ではなく、『それにつけても銭の欲しさよ』遊びではないか!」
その一言に、部屋は再び笑い声に包まれた。
冬の午前、山科邸の一室には、貴丸たちの楽しげな笑い声がいつまでも響いていた。
午後になると、言綱が呼んでいた絵師、指物師、木地師たちが山科邸を訪れた。
先日、貴丸が原案を描き、長松丸と千代が手を加えて仕上げた一生双六を、実際の遊具として形にするためである。
職人たちが揃うと、言綱が一同を見渡した。
「皆、今日はよう参ってくれた。この者たちは、私が普段より仕事を頼んでいる者たちゆえ、腕は確かでございます。今日は貴丸殿の考えを聞きながら、作りについて相談してもらいたい」
そう言うと、貴丸が自分で描いた図面を広げた。
「これが一生双六の盤面で、こっちが牛車や家。それから銭の代わりに使う竹棒と、流運列図でっす」
貴丸は以前に説明した内容を繰り返すことはせず、図面を指しながら簡単に補足していく。
「牛車は六色で、家は五種類。牛車には家族を表す棒を差せるようにして、家には牛車と同じ色の旗を立てる。銭の竹棒には、額が分かるように印を付けてほしいんだ」
「なるほど」木地師が牛車の図を覗き込み、指物師は家の図へ目を移す。
「この牛車の穴は、棒を増やしても抜けにくいようにしたほうがよろしいでしょうな」
「うん。そこはお任せしていい?」
「承知しました」
続いて貴丸は、流運列図の図面を指差した。
「これが一番難しいと思う。回して、十の数字のどこかで止まるようにしたいんだけど……」
「軸と止まり具合はこちらで考えてみましょう」
絵師も盤面の図をじっくり眺めていた。
「京の町を描くのであれば、御所や寺社、町家などを道の脇に置くと、遊ぶ者にも分かりやすくなりそうですな」
「うん! そんな感じにしてほしいっす」
そこからは職人たちがそれぞれの専門について意見を出し、貴丸がそれに答えていく。
牛車の大きさや棒を差す穴の位置、家の造り、旗の仕立て、竹棒の印、そして流運列図の仕組みまで、細かな部分が次々と決まっていった。
やがて一通り話がまとまると、貴丸は嬉しそうに頭を下げた。
「じゃあ、これでお願いしまっす!」
職人たちも顔を見合わせ、どこか楽しげに頷いた。
「これは面白い仕事になりそうですな」「ええ。腕の使い甲斐がございます」
その様子を見ていた言綱が、穏やかに口を開く。
「今回は仮のものゆえ、まずは試作として頼みたい。これが評判となれば、またお願いすることもあろう」
「承知いたしました」
職人たちが頭を下げると、貴丸がふと思い出したように絵師へ声をかけた。
「あ、絵師さん。赤の岩絵具って、少し分けてもらえます?」
「赤でございますか? 何にお使いで?」
「ちょっと試したいことがあるんで。ほんの少しでいいっす」
絵師は不思議そうにしながらも、赤の岩絵具を少量取り分け、和紙に包んで貴丸へ渡した。
「ありがとうございます」貴丸はそれを懐へしまった。
こうして、その日のうちに細かな打ち合わせを済ませ、職人たちはさっそく試作に取り掛かることとなった。
貴丸は彼らが持ち帰る図面を眺めながら、嬉しそうに笑っていた。その隣で、千代も満足そうに頷いている。
「これが完成したら、もっとたくさんの人に遊んでもらえそうですね!」
「うん。いろんな人に遊んでもらえたら面白いだろうね」
貴丸がそう答えると、千代は下絵の盤面へ目を向けた。
「誕生から始まって、いろいろなことが起きて、最後は大往生……。人の一生を最後まで辿る遊びなのでしたね」
「そうそう。そこがこの双六の良いところなんだけど、ちゃんと面白いものになるといいなぁ」
千代は盤面をじっと見つめ、それから何かを思いついたように顔を上げた。
「では、大往生の先も作るのはいかがでしょう?」
「その先?」貴丸が首を傾げると、千代は嬉しそうに頷いた。
「はい。大往生の先といえば、極楽浄土です。つまり――」
千代は満面の笑みを浮かべた。
「大往生の先の『うんち』です! 絵師の方に『うんち』を描いてもらいましょう!」
「…………」
貴丸の笑顔が固まった。
「……チーちゃん。それ、たぶん俺の知ってる『うんち』とは全然違うからやめよ?」
「でも、貴ちゃんが明の言葉だとおっしゃったではありませんか」
「言ったけど……そういう意味じゃないんだよなぁ」
千代は不思議そうに首を傾げた。
「そうなのですか? でも、私は『うんち』という言葉、好きですよ」
「……もう、チーちゃんの好きにして」
貴丸は諦めた。
「大往生の先に極楽浄土……『うんち』も忘れずに描いてもらいましょうね」
なんという言葉を連呼させてるのでしょうか。。
ぐへへへへ。
しめて千代ちゃんは「二十四回」言ったとか、言わなかったとか。。。




