第202話 言綱との挨拶
案内された部屋は、広くはなかった。
だが、床には丁寧に手入れされた畳が敷かれ、奥の部屋の壁際には古い書物が整然と並べられている。
華美な飾りはない。しかし、その一つ一つから、長い年月を守り続けてきた家の重みが感じられた。
やがて家令が静かに部屋へ戻り、深く一礼する。
「間もなく言綱様がお越しになります」
その言葉からほどなくして、廊下の向こうからゆっくりと足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
穏やかな声とともに、障子が静かに開く。現れたのは、五十を過ぎた細身の公家だった。
何度も仕立て直された狩衣を端正にまとい、白くなり始めた髪を乱れなく結い上げている。決して豪奢な身なりではない。だが、その立ち居振る舞いには、長年朝廷に仕えてきた者だけが持つ気品と落ち着きがあった。
柔和な眼差しでありながら、不思議と人を圧するものがある。
(この人は……)武で人を従わせる人間ではないと貴丸は思った。知識や教養と、何より言葉で人を動かしてきた人なんだ――貴丸はそんな気がした
言綱が一同へ穏やかに視線を向ける。
「長松丸、千代。その方々は、どなたであられるかな」
長松丸は一歩進み、丁寧に頭を下げた。
「はい、父上。こちらの方々は、千代姉上が賊に襲われていた折、お助けくださった方々にございます」
言綱は穏やかに頷いた。
「それは、まことに有り難きことでございました。姪をお救いくださった由、まことに忝く存じます」
その姿を見て、泰能も居住まいを正す。貴丸と三兵衛もそれにならい、深く頭を下げた。
「初めてお目にかかります。某は駿河守護・今川修理大夫氏親様に仕えております、朝比奈備中守泰能と申します」
名乗りを聞いた言綱は、わずかに首を傾げた。
「朝比奈殿……。今川家と申されますと、氏親様の御正室は桂殿であられましたな」
少し記憶をたどるように目を細める。
「そういえば、朝比奈家へ、中御門宣秀様の御息女・菫殿がお嫁入りなされたと記憶しておりますが……」
泰能は静かに頷いた。
「はい。左様にございます。菫は某の妻にございます」
「おお、やはりそうでございましたか」
言綱は穏やかな笑みを浮かべた。
「菫殿は息災であられますかな」
「はい。おかげさまで、変わりなく元気に暮らしております」
その答えに、言綱は安堵したように何度か頷く。
「それは何よりにございます。幼き頃より存じておりますゆえ、つい懐かしく思い出してしまいました」
思いがけない縁に、その場の空気は少しだけ和らいだ。
貴丸は泰能の半歩後ろへ静かに進み出た。畳の縁を踏まぬよう足を運び、言綱からほどよい距離で足を止める。
一度、姿勢を正す。
両手を膝の上へ置き、小さく息を整えてから、静かに膝を折った。右手、左手の順に畳へ添え、指先を揃えて円を描くように置く。
背筋は真っ直ぐ。額が畳へ届かぬ絶妙な高さまで上体を伏せる。幼子とは思えぬほど無駄のない、端正な拝礼だった。
部屋の空気が、わずかに変わる。言綱の目が細められた。(……この礼は)武家の見よう見まねではない。朝廷の作法を知る者の拝礼であった。
貴丸はゆっくりと身を起こす。視線を伏せたまま、落ち着いた声で口を開いた。
「初めてお目にかかりまする。陸奥国標葉郡請戸、大和田家嫡男、貴丸と申します。本日は拝謁の栄を賜り、まことに恐悦至極に存じ奉ります。何卒、お見知り置きのほど、お願い申し上げます」
一語一句に乱れはない。年嵩の公家が述べても違和感のない挨拶だった。
長松丸が目を見開く。千代も思わず息を呑む。
(この方……)十の童とは思えない。言綱もまた、内心で小さく頷いた。
(礼法を知っておるな……)しかも、言葉遣いまで崩れがない。誰が教えた。どこで覚えたのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎった――その時だった。
「ぷ~ぅぅぅううう……」
静まり返った座敷に、妙にはっきりとした音が響いた。
――誰も動かなかった。
貴丸自身も一瞬だけ目を丸くすると、周囲を見回した。そして――ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「いやぁ……少々、力みすぎちった…」
座敷には、まだ沈黙が残っている。貴丸は周囲の反応を見回すと、少し肩をすくめた。
その言葉に、三兵衛は思わず貴丸を見る。(……今の、わざとでは?)だが、貴丸は何食わぬ顔で続けた。
「『宇治拾遺物語』にも、藤大納言忠家殿の御前で、ある女房が放屁してしまったという話がございましたな。人前では恥ずかしいことでも、後には笑い話になるものなのですが……まさか自分が同じことをするとは思いませんでした」
そう言って、照れたように笑った。長松丸は思わず目を見開く。
「……『宇治拾遺物語』を?」
十歳の童が、よりにもよってこの場でそんな故事を引き出してくるとは思わなかったのである。
貴丸は少しも悪びれず、言綱へ向き直る。
「忠家殿はあまりの出来事に驚かれ、出家まで考えられたそうですが。……どうか言綱様は、そこまではなさいませぬよう」
一瞬、座敷は再び静まり返った。
しかし――。「……ふふっ」
千代が、とうとう耐えきれずに口元を押さえた。その小さな笑いをきっかけに、張り詰めていた空気が和らいだ。
言綱は、目の前の童をじっと見つめていた。(礼法を心得ておる。それどころか、古き説話まで即座に引き出すとは……)
先ほどの挨拶は、十歳の童とは思えぬほど見事なものだった。
畳へ手をつき、身を低くし、言葉を選ぶその所作には、確かな礼の知識があった。
そして今度は、失態をただ恥じるのではなく、『宇治拾遺物語』の故事を引いて笑いへ変えてみせた。
(されど……)言綱は、ふと目を細めた。
(この童……もしや、わざとではあるまいな)そう思ったものの、確かめる術はない。
ただ一つ分かったのは――(何とも掴みどころのない御仁だ)ということだけだった。
『宇治拾遺物語』の逸話とは、藤大納言忠家の御前で、閨にいた女房が思わず放屁してしまったという説話である。
当時、人前でそのような失態を見せることは大変な恥とされていた。
あまりに思いがけない出来事に、忠家は大いに驚き、「このような世俗の中に身を置いていてよいのか」とまで思い詰め、出家を考えたと伝えられている。
しかし、この話は後世には単なる失敗談ではなく、身分の高い人物であっても思わぬ出来事に遭遇するという、人間味あふれる滑稽な説話として語り継がれた。
貴丸は、その故事を瞬時に思い出し、自らの失態を恥じるだけではなく、古の公家でさえ笑い話にした出来事として場を和ませようとしたのである。
張り詰めていた座敷の空気が少し和らいだところで、泰能がふと思い出したように貴丸に向かって口を開いた。
「……しかし、あれほど騒ぎを起こしておきながら、まだ腹の調子が戻っておらぬのか?」
その言葉に、長松丸が首を傾げる。「騒ぎ……ですか?」
泰能は一瞬、言葉に詰まった。「あ、いや……その……」
視線を貴丸へ向ける。あれをどこまで説明してよいものか、迷っているのが分かった。
すると、貴丸が代わりに口を開いた。少し気まずそうに笑う。
「いやぁ……そのですね。先日まで、俺たちは、その、三淵殿は……ええと、細川高国様の軍にいたので、その時にちょっと……」
そこまで言って、貴丸は少し考えるように首を傾げた。
「……夜中に元長軍を驚かせたり、あちこち動き回って揶揄ったりしてたから。どうも、そのせいで身体を冷やしたみたいで……それから、なんとなくお腹の具合がすっきりしなくてですねぇ…」
「……」
貴丸は自分の腹へ手を当て、困ったように笑った。
その話を聞いた言綱の目が、わずかに細まる。穏やかな声だった。
「……貴丸殿。今、細川高国様の戦へ参陣なされていた、と申されましたかな?」
その瞬間。貴丸の表情が固まった。
「あ……」しまった、と顔に書いてある。一瞬だけ目が泳ぐ。
そして――。
「えへへへ……また、おならしようかな? ぷぅ、とか言って……へへへ」
貴丸は意味のない笑顔を浮かべ、頭を掻いた。だが、その場にいた者たちには十分伝わっていた。
長松丸は思った。(……今、誤魔化したな)
千代も同じように、貴丸を見つめる。(とても分かりやすいですね……)
泰能に至っては、思わずため息をついた。
言綱もまた、静かに貴丸を見ながら心の中で苦笑する。
(なるほど……)礼法を知り、古典を語り、しかし肝心なところでは子供のように顔へ出る。
やはり、この童は不思議な人物である。
だが――。
先ほどまでとは違う興味が、言綱の中に芽生えていた。
貴丸! わざとか! わざとなのか?
上級公家の言葉遣いについて:
この頃の上級公家は、後世の創作で描かれる「〜おじゃる」「〜じゃ」といった特徴的な公家言葉を、日常的に使っていたわけではありません。
実際には、古典的な教養を背景とした、整った文章調の表現が重視され、「〜にございます」「〜と存じます」など、格式ある丁寧な言葉遣いが用いられてたようです。
本作では、当時の公家社会に残る日記や文書表現を参考に、知性と品位を感じさせる口調として描写しています。




