第201話 山科家
長松丸の案内で、貴丸たちは山科家の屋敷へ招き入れられた。
門をくぐると、そこに広がっていたのは、貴丸が思い描いていた「公家の館」とは少し違う景色だった。
屋敷そのものは広い。だが、金銀に飾られた豪奢な調度が並んでいるわけではない。柱や建具には長い年月を経た艶があり、几帳や調度も幾度となく繕われながら、大切に使われている。
廊下では女房たちが巻物を干し、若い公達は古い書物を書き写していた。別の場所では、誰かが衣を畳み、誰かが庭の手入れをしている。
屋敷の中は静かではあるが、決して人の気配が少ないわけではない。
あちらでは女房が忙しそうに行き交い、こちらでは小者らしき者が何かを運んでいる。さらに奥へ目を向ければ、姿こそ見えないものの、人の話し声や物音がかすかに聞こえてくる。
貴丸は歩きながら、何となく屋敷の中で働いている人間の数を数えてみた。
目に入るだけでも、二十人ほどはいるだろう。
「……結構、人がいるんだな」思わず呟く。
山科家の屋敷は、華やかさよりも、代々受け継いできたものを静かに守り続けているような空気に包まれていた。
それでも、これだけ広い屋敷なら、奥にもまだ人がいるはずだ。
女房や下働きの者、それに身の回りの世話をする者などを合わせれば、十人ほどはいるのではないか。
そう考えると、屋敷で暮らし、働いている者は全部で三十人余り。多く見積もれば、四十人近くになるかもしれない。
貴丸は、ふとそんなことを考えながら、泰能に言う。
「……公家様のお屋敷って、もっと立派なものだと思ってたよ」
その呟きに、泰能が穏やかに笑う。
「それは武家や商家の価値観だな。山科家が守ってきたものは、広い領地でも莫大な財でもない。朝廷の儀礼、有職故実、そして書物なのだ」
「書物?」
「何百年も積み重ねられた知識こそ、この家の宝だ」
(なるほど……金じゃなく、知識や伝統を守る家なんだな)
貴丸は泰能を横目に首を傾げた。
「でも、本ってそんなに大事なの?」
泰能は静かに頷く。
「大事だとも。公家には日々の出来事を書き留める習わしがある。朝廷の儀式、政のこと、天候や飢饉、疫病、都で起きた出来事まで、細かく日記へ記して子孫へ伝えていくのだ」
「毎日?」
「そうだ。そうした記録は何十年、何百年と積み重なっていく。後の世の者は、それを読んで『この年には何が起きた』『人々はどう暮らしていた』ということを知ることができるだろうな」
貴丸は感心したように頷いた。
「そんなことをしてる人、他にもいるの?」
「寺社でも記録は残す。だが、このように代々、家の務めとして書き継いでいるのは公家くらいのものだろう」
泰能は廊下で巻物を書き写している若者へ目を向ける。
「だから山科家にとって書物は、ただ読むためのものではない。この国の歴史や文化を後の世へ伝える、大切な務めでもあるのだ」
貴丸は静かに頷いた。(だから皆、こんなにも大切そうに本を扱ってるんだな)
泰能の話を聞き終えた貴丸は、感心したように目を丸くした。
「弥太さん、公家のことをよく知ってるね」
そう言われると、泰能は少し照れたように頬をかいた。
「……妻の菫から聞いたのだ。あれは中御門家の娘ゆえ、公家のことには私などよりよほど明るい」
「ああ、そうか。スミレちゃん、公家の娘さんだもんね」
貴丸は納得したように頷く。
泰能も頷いた。
「うむ。朝廷のことや公家のしきたり、家々のことまで、私が教えられるばかりだな」
貴丸はにやりと口元を緩める。
「へぇ、スミレちゃんからかぁ。お熱いねぇ〜」
「……お熱い?」
泰能は首を傾げた。「それは、どういう意味だ?」
貴丸はくすりと笑う。
「仲が良すぎてさ。その仲の良さに周りが当てられちゃうってことだよ」
意味を理解した途端、泰能の顔がみるみる赤く染まる。
「そ、そのようなことはない!」
泰能は咳払いして顔を背けるが、耳まで真っ赤になっていた。
その様子を見て、貴丸は肩を震わせる。
「へへへ、めんごめんご」
長松丸は苦笑しながら一行を振り返った。
「では、こちらです」
一行が再び屋敷の奥へ向かって歩き始める。すると千代が、少しだけ歩みを速めた。
「叔父上へ、早くご報告したいのです」
嬉しそうにそう言って、一歩踏み出したところで――ふと、腕の中に抱えていた本へ目を落とす。
「……あ、この本だけは、先に書庫へ戻しておかなければ」
まるで大切な友人にでも語りかけるような口調だった。
長松丸が苦笑する。
「千代姉上。まずはお客様をご案内するのが先でございます」
「あ……そうでしたね」
千代は少し照れたように笑い、本を大事そうに抱え直した。
その様子を見ていた女房たちからも、思わず微笑みがこぼれる。どうやら、これもいつものことらしい。
その時だった。「千代様、お帰りなさいませ」
廊下の奥から、年配の家令らしき人が姿を現した。
「ただいま戻りました」
先ほどまで本に夢中になっていた少女とは思えないほど、千代はすっと背筋を伸ばした。
そして、裾を整えると、美しく一礼する。その鮮やかな切り替えに、貴丸は少し驚いた。
長松丸が家令らしき人へ向かって告げる。
「こちらの方々が、浪人者に襲われていた千代姉上を助けてくださったのだ」
その言葉を聞いた家令の顔に、驚きが浮かんだ。
「そうでしたか……」家令は千代へ目を向け、それから改めて貴丸たちへ視線を移す。
しばし一行の姿を見つめていたが、やがて安堵したように微笑んだ。
「それは誠にありがとうございました。ただちに言綱様へお知らせいたします」
そう言って、家令は一行へ深々と頭を下げて、足早に屋敷の奥へと去っていった。
「父上を呼びに参ったのでしょう」長松丸がそう説明する。
貴丸は、家令が去っていった廊下の奥へ目を向けた。
その先では、若い公達が何人も机に向かい、静かに筆を走らせている。先ほどから目にする女房や小者たちも、慌ただしく行き交っていた。
広い屋敷ではあるが、決して人の気配が途切れることはない。そんな様子を眺めていると、長松丸がふと苦笑した。
「叔父上も、きっと話を聞いて『千代は昔から変わらぬな』と笑っておられるでしょう」
「……そうでしょうか」
千代は少し考えるように首を傾げ、それから小さく笑った。
「では、昔から本を見つけると、周りが見えなくなっていたのでしょうね」
「ええ。まさにその通りです」長松丸が即答する。
「長松丸、それは余計です」千代が少し頬を膨らませる。
そのやり取りに、家の者たちから小さな笑いが起こった。
貴丸も思わず頬を緩める。(やっぱり、この人は面白いな)
礼儀正しく、家の者として振る舞うこともできる。けれど、本を見つければ夢中になり、昔から変わらないところもある。
それが、千代という人なのだろう。
京には京の人がいる。
貴丸は、この山科家という家に漂う空気と、その中で育った千代の姿を見て、そんなことを思った。
山科言綱:山科言継の父。
山科家当主で、朝廷の儀式や有職故実に通じた学識ある公卿。
正室は中御門宣胤(宣秀の父)の娘・黒木殿。
今川氏親正室・桂殿(後の寿桂尼)は中御門宣秀の妹であり、
朝比奈泰能の妻・菫は、宣秀の娘にあたるため、言綱から見れば姪にあたる。
長松丸(幼名):後の山科言継。
公家・歌人・日記作者。正二位・権大納言。
戦国時代の朝廷を支えた公家で、『言継卿記』を著し、
当時の政治・文化・宮中生活を伝える第一級史料を残した。
医薬や音楽、有職故実にも通じ、朝廷と武家・諸勢力の間でも活動した。
幼名が不明な為、ここでは長松丸としている。




