第200話 千代と長松丸との出会い
その時だった。
妙心寺の門前へ続く道の向こうから、石畳を打つ慌ただしい足音が響いてきた。
「千代姉上――!」
まだ声変わりもしていない高い声が境内へ響き、一人の少年が息を切らせながら駆け込んでくる。
年の頃は貴丸より二、三歳ほど上だろうか。後ろでは供の者が二人、必死に追いかけていたが、少年は構わず一直線に千代のもとへ駆け寄った。
「千代姉上、ご無事ですか!」
勢いよく駆け寄る少年を見て、千代は抱えていた書物を胸へ寄せ、小さく眉を寄せる。
「長松丸様。そのような大きなお声では、周りの方々にご迷惑ですよ」
慌てる様子もなく、静かにたしなめる声だった。
「浪人者が騒ぎを起こしていると聞いたのです! 千代姉上のことです、本を読んでいて巻き込まれたのではないかと……!」
「少し書物を落としただけです。大事には至りませんでした」
「少しではございませぬ。近場とはいえ、供の者を連れてくださいと申し上げたのです。それなのに千代姉上は、いつものように『大事ではない』と仰るのですから……」
困り果てたように言う長松丸へ、千代は抱えた書物へ視線を落とし、小さく首を傾げた。
「……ですが、本が落ちたのも、私が落としたというより……風の悪戯だったのではないでしょうか。気づいた時には、何冊か地面に落ちておりました」
少し考えるように空を見上げる。
「風吹けば われ読む先を めくりゆく 書の心は 風ぞ知るらむ」
ぽつりと歌を口にすると、照れたように微笑んだ。
千代は、一冊ずつ書物の角へそっと指先を添え、折れや汚れがないかを確かめていく。
貴丸はその様子を見つめた。先ほど浪人たちに囲まれていた時よりも、今の方がよほど真剣な顔をしている。
(あの言葉遣いと立ち居振る舞い……)貴丸は二人を観察した。
供を連れている少年。慌てることなく少年を嗜める少女。衣服は質素ながら仕立てが良く、所作にも幼い頃から身につけた教養がにじんでいる。
(奉公人……いや、それにしては違う気もするな。公家様のお屋敷の家人か……そんなところかな)
少なくとも、普通の町人や武家の子ではなさそうだった。
長松丸が千代を案じる様子を、泰能も微笑ましげに見守っていた。
やがて長松丸は落ち着きを取り戻すと、貴丸たちへ向き直った。
「そなたたち、千代姉上に何をしていたのだ! 浪人の仲間か!」
落ち着いた声だったが、その奥には千代を守ろうとする強い意志が滲んでいる。
すると千代は慌てて一歩前へ出た。小さく首を横へ振る。
「違います。この方々は、私を助けてくださったのです」
長松丸は一瞬驚いたように目を見開いた。そしてすぐに深く頭を下げる。
「それは、大変失礼をいたしました」
千代は乱れた袖をそっと整えた。
「申し遅れました。私は山科家に縁ある者、千代と申します。先ほどは危ないところを助けていただき、誠にありがとうございました」
その声音は柔らかく、それでいてよく通る。その名を聞いた瞬間、泰能の表情が変わった。
「山科……ですか。もしや、お父上は山科言綱様でございますか」
千代は静かに首を横へ振る。
「いいえ。言綱様は私の叔父にあたります」
泰能は頷き、居住まいを正した。
「申し遅れました。某は駿河守護・今川修理大夫氏親様に仕えております、朝比奈備中守泰能と申します」
千代が目を見開く。「今川様の……」
泰能は記憶をたどるように続けた。
「私の妻は、中御門宣秀様の娘、菫と申します。確か私の記憶違いでなければ、山科言綱様の御正室は宣秀様の妹君であられたはず」
その言葉に、長松丸が驚いたように声を上げた。慌てて姿勢を正し、深く一礼する。
「なんと! 申し遅れました。私は山科言綱が嫡男、長松丸にございます。菫殿には幼き頃、何度かお目にかかった覚えがございます」
泰能も笑みを返した。「そうでしたか。世の中とは、不思議なものですな」
千代も小さく頷く。泰能は改めて千代へ視線を向けた。
「では千代殿は、言綱様の姪御でございましたか」
千代が小さく頷く。
「先ほどから長松丸殿が『千代姉上』とお呼びしておられましたので、年の頃もさほど変わらぬご様子ゆえ、不思議に思っておりました。そのようなご縁であられたのですな」
千代は静かに頷く。指先をそっと表紙へ添えて答える。
「私は、亡き山科言国の娘・茶子の子にございます。父も母も、私が幼い頃に流行り病で亡くなりました。それ以来、叔父上――言綱様のお屋敷で養っていただいております」
千代は少し懐かしそうに目を細め、微笑んだ。
「幼い頃、寂しくなると、よく書庫へ入り込んでおりました。叔父上のお屋敷には古い書物がたくさんございます。本を読んでおりますと、不思議と一人ではないような気持ちになれたのです。頁を開けば、何百年も昔の人々が、今もそこにいるような気がして……」
千代は照れくさそうに微笑む。そのやり取りを見て、貴丸は笑みを漏らした。
ふと目を向けると、千代が抱える書物の一番上にある一冊が目に留まった。年季の入った和綴じの本だったが、題箋に記された文字には見覚えがある。
「……その本、『瀛涯勝覧』? 馬歓が書いた本……だよね?」
思わず声が漏れた。
千代は一瞬きょとんとしたあと、驚いたように貴丸を見つめた。
「ご存じなのですか?」
「読んだことはないんだけど……題だけは知ってる。明の人が書いた、西洋や南海諸国の見聞録だったっけ?」
貴丸がそう答えると、千代の表情がぱっと花が咲くように明るくなった。
嬉しそうに頷く。
「はい! 叔父上が『面白い本だから、一度読んでみるとよい』と仰って、近くのお寺へお話を通してくださったのです。それで私がお借りに伺ったのですが、書庫には他にも面白そうな本がたくさん並んでおりまして……。つい、あれもこれもとお願いしてしまい、このような量になってしまいました」
大切そうに表紙を撫でながら続ける。
「異国の港の賑わいや、人々の暮らしまで記されているそうです。まだ見ぬ国々のことを知れると思うと、頁を開く前から胸が躍ります。もっとも……漢籍ですので、一頁読むにもずいぶん時間が掛かってしまうのですが」
貴丸が言う。「へぇ……俺も読んでみたいな」
その言葉に、千代はさらに目を丸くした。
「あなた様は……もうそのお歳で漢籍がお読みになれるのですか?」
貴丸は頭をかきながら、照れくさそうに笑う。
「いや、まあ……なんとなくね」
肩をすくめながら苦笑する。
「千代姉上は、本のお話になりますと、時の経つのも忘れてしまわれるのです」
「長松丸様……」
その言葉を聞き、貴丸は改めて『瀛涯勝覧』へ目を向けた。(この時代に、『瀛涯勝覧』か……)
千代はそんな貴丸の視線に気づいたのか、『瀛涯勝覧』の表紙へそっと指を添えた。
「不思議なものですね。この一冊がなければ、私は馬歓という方のことも、海の向こうにある国々のことも知ることはなかったでしょう。けれど、書物を通して知った人々や土地のことを考えておりますと……まだ会ったことのない方々とも、どこかで繋がっているような気持ちになるのです」
そう言って小さく微笑む。
「…縁とは、細き糸のようなものなのかもしれません。普段は見えませぬのに、ある日ふと気付けば、遠く離れた人とも結ばれております」
その言葉に泰能は感心したように頷いた。
「なるほど。まことに、その通りですな」
貴丸は二人のやり取りを眺めながら、先ほど泰能と山科家の繋がりが明らかになったことを思い出していた。
(京って、不思議なところだな)
堺では、商いを通じて人との繋がりが広がっていく。だが京では、思いがけないところから人と人の縁が結ばれる。
今日の出会いも、そうしたものなのかもしれない。
そんなことを考えていると、三兵衛がそっと耳元で囁いた。
「貴丸様。先ほどまでは浪人騒ぎ、今度は山科家とのお付き合いでございますか」
「……俺、何か悪いことした?」
「何もしておられませぬ。何もしておられぬのに、こうなるのでございます」
三兵衛は真顔で答える。その言葉に泰能まで小さく吹き出した。
長松丸は一同の様子を見渡すと、改めて姿勢を正した。
「此度は千代姉上をお助けいただき、誠にありがとうございました。父にも、このたびのことをご報告したく存じます。それに、菫様には幼き頃よりお世話になっておりますゆえ、父もきっと近況をお聞きしたいことでしょう。どうか我が屋敷へお越しいただけませぬでしょうか」
泰能は笑みを浮かべた。
「なるほど。そういうことでございましたか。それならば、ありがたくお招きを受けましょう。妻にも、よい土産話ができそうです」
長松丸も安堵したように息をついた。
その時、千代がおずおずと一歩前へ出た。少し恥ずかしそうに貴丸を見つめ、言葉を選ぶように間を置いてから、口を開く。
「先ほど、貴丸殿はこの本にご興味を持ってくださいましたよね」
「うん。読んでみたいなって思って」
貴丸が答えると、千代の顔が嬉しそうに綻んだ。
「それでしたら、叔父上の書庫をご覧になってはいかがでしょう。明の書物も、和歌集も、物語も、たくさんございます。私も本のお話をするのが好きですから……貴丸殿と、いろいろお話ししてみとうございます」
最後の言葉だけは少し照れくさそうに、千代は視線を伏せた。
「千代姉上は、本のこととなると本当に熱心ですからな」
長松丸が苦笑する。
「……長松丸様」
千代は頬を赤らめたが、やがて小さく笑った。
「ですが……貴丸殿でしたら、きっと叔父上の書庫も楽しんでくださると思います」
貴丸は少し考えてから、泰能へ視線を向けた。
「……弥太さん、いいよね?」
泰能は穏やかに頷いた。「もちろんだ」
その言葉を聞き、長松丸は嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます。父も、きっと喜びましょう」
千代も嬉しそうに微笑む。
「それでは、書庫へご案内いたしますね」
こうして、貴丸たちと山科家との縁は、一人の本好きな少女と、一冊の漢籍をきっかけに始まることとなった。
山科さんでしたー。
おーっと、、遂に二百話!!!
だらだらとここまで、、、、
もっとだらだら書きますね!!w




