第199話 座頭の市?
寺の外れの道から、一人の少女が歩いてきた。
年の頃は貴丸より少し上だろうか。両腕には何冊もの書物を抱え、その一番上に開いた本へ、しきりに視線を落としている。
本を閉じる様子はない。歩いては本を見て、また前を向き、数歩進むと再び頁へ目を落とす。
その姿に、貴丸は思わず目を細めた。
「……よくあれで歩けるね」
泰能も苦笑する。
「余程、本が好きなのだろうな」
少女はふと足を止めると、本を顔へ少し近づけた。何かを確かめるようにしばらく頁を見つめ、小さく頷く。満足したように本を少し離し、また歩き始めた。
その時だった。
向こうから、昼間だというのに酒瓶を片手にした男たちが四人、ふらつきながら歩いてきた。
着物は武士のものだが、着崩れ、腰の刀もだらしなく揺れている。酔いのせいか足取りも覚束ない。
泰能の表情が曇った。
「あれは……」
男たちは道いっぱいに広がるように歩いてくる。
少女もようやく男たちへ気付いたらしく、本を閉じると道の端へ寄った。これで十分と思ったのだろう。
そのまま男たちが通り過ぎるのを待つように立ち止まる。
しかし――。
酒で足を滑らせた男が大きくよろめいた。
その肩が、少女へまともにぶつかる。少女は体勢を崩し、抱えていた書物が石畳へ散らばった。
「きゃっ! ああっ!」
慌ててしゃがみ込み、一冊、また一冊と拾い集める。だが、ぶつかった男は悪びれるどころか少女を睨みつけた。
「貴様、どこへ目をつけて歩いておるのだ!」
少女は驚いて顔を上げた。その表情には、一瞬だけ納得のいかない色が浮かぶ。だが、男たちの腰に差された刀を見ると、その顔はすぐ消えた。
深々と頭を下げる。「も、申し訳ありません」
男は鼻で笑った。
「申し訳ないで済むと思うておるのか。俺達は三条西様のお屋敷へ出入りを許された身だ。そんな俺達にぶつかるとは、生意気にもほどがあるぞ」
隣の男も酒臭い息を吐きながら笑う。
「都ではな、そのような歩き方では生きていけぬぞ。田舎者は身の程を知れ」
男の一人が散らばった本を拾い上げる。
「ほう……和歌に古典か」
ぱらぱらと頁をめくり、鼻で笑った。
「女がこんなものを読んでどうする。学など身につけたところで、飯は食えまい」
そう言って本を石畳へ放り投げる。
「……!」
少女は思わず一歩踏み出した。怒るより先に、本を拾い上げる。土埃を払う手つきは、壊れ物を扱うように優しかった。
その様子を見ていた泰能が、小さく息を吐く。
「京には、ああいう輩も少なくないと聞くな」
貴丸は男たちから目を離さない。
泰能は静かに続けた。
「戦で主家を失い、都へ流れてきた者。あるいは公家へ召し抱えられ、門番や供回りを務める者どもであろうな。身分は高くない。されど、『公家に仕えておる』というだけで威を借る者もおる」
その時だった。酔った男が少女の腕へ手を伸ばした。次の瞬間、小さな影が二人の間へ滑り込む。
貴丸だった。
泰能と三兵衛が思わず目を見開く。普段は面倒くさがりなくせに、こういう時だけは誰よりも動きが速い。
「まったく……その身軽さを、普段から少しは見せていただきたいものですな」
三兵衛が苦笑し、泰能も肩をすくめた。
突然割って入ってきた小柄な童に、男たちは眉をひそめる。
「……何だ、お前は」
貴丸は答えない。ただ一歩だけ前へ出ると、静かに目を閉じた。
「……お兄さん方、おやめなせぇ」
穏やかな声だった。
諭すようでもあり、どこか眠たげでもある。とても喧嘩の仲裁へ入った者とは思えぬ、力の抜けた口調だった。
そのまま貴丸は、右手に持っていた木の棒をゆっくりと体の正面へ運ぶ。
二十寸(約六十センチ)ほどの、普通の木の棒。右手を柄でも握るように添え、左手をその先へ軽く添える。
膝をわずかに緩めると、上体がすっと前へ傾いた。肩から余計な力が抜け落ちる。棒を構えているというより、腰の刀へ手を添えた剣士そのものだった。
目は閉じたまま。風だけが境内を吹き抜ける。
貴丸は小さく肩をすくめた。
「……お願いでさぁ。この辺でお引き取り願えませんか。どうしてもってんなら……あっしも困るんですよ」
男たちは顔を見合わせる。貴丸は木の棒をほんの少しだけ持ち上げた。
「見たところ、ただの木の棒に見えましょうがねぇ……こいつぁ仕込みでして」
口元だけがわずかに緩む。
「その先へ出ますと……逆手の居合が飛び出しますぜ」
男たちは思わず足を止めた。
「……何だ、このガキ」「目ぇ閉じてるぞ」「頭がおかしいんじゃねぇか?」
笑おうとした男だったが、その笑みは最後まで続かなかった。
十歳ほどの童でしかない。それなのに、踏み込めば何かが起きる。そんな説明のつかない気配だけが、じわりと肌を這い上がる。
貴丸はなおも目を閉じたまま動かない。
「争いなんざ、やめた方がお互いのためでございますよ」
静かな声。だが右手の指先だけが、木の棒を握り直す。
ほんのわずかな動き。それだけで空気が張り詰めた。しかし、その空気を壊したのは酔っ払いだった。
「ガキが、何を訳の分からんことを!」
男は酒壺を振り回す。
ごつん。見事な音を立てて、酒壺の底が貴丸の頭へ直撃した。
「いってぇぇっ!」
貴丸はその場にしゃがみ込み、頭を抱える。
「痛い! 本当痛い! マジ痛選手権!」
先ほどまでの得体の知れない雰囲気は一瞬で消え失せた。
その隙を逃さず、泰能と三兵衛が前へ出る。二人は少女を背に庇うように立ち、泰能は静かに刀の柄へ手を添えた。
「先ほどのお話、耳に入っておりました」
穏やかな口調だった。しかし、その眼差しに笑みはない。
「三条西様へ仕えておられると仰いましたな」
「だったら何なのだ」
泰能は一歩も退かない。
「我らは万里小路秀房様へお目通り願うため、この先の妙心寺へ逗留しております。ここで騒ぎとなれば、寺男も門番も、すぐに駆けつけましょうな」
静かに周囲へ目を向ける。
「それまでの間、お相手するくらいは難しくありませぬ。もっとも……皆様は酒が入っておられるご様子。刃傷沙汰となれば、困るのはどちらでしょうな」
男たちは顔を見合わせた。その一言で男たちの表情が曇る。
「……ちっ、覚えてやがれ!」
捨て台詞を吐き、四人は足早に立ち去っていった。その背中が見えなくなると、ようやく張り詰めていた空気が静かにほどけた。
少女は胸をなで下ろすと、散らばった書物を抱え直し、大切そうに胸へ抱き寄せた。それから深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
安堵したせいか、その白い頬はほんのりと紅潮している。
泰能は静かに首を横へ振った。
「礼には及びませぬ。当然のことをしたまでにございます」
その落ち着いた立ち居振る舞いは、いかにも名家に仕える武士らしかった。
その横で――
「いててて……最初に飛び込んだの、俺なんすけど……」
貴丸が頭を押さえながら立ち上がる。
少女はその姿を見て、一瞬だけ目を丸くした。
そして――
「……ふっ」思わず笑みが漏れた。慌てて口元を押さえる。
「も、申し訳ございません。ただ……あれほど真剣なお顔で立ち向かわれたのに、最後のお言葉との落差が、あまりにも……」
笑ってはいけないと思えば思うほど肩が震える。
貴丸は口を尖らせた。
「笑うことないじゃんよぅ」
少女はようやく笑みを収め、小さく息を整えた。
「失礼いたしました。本当にありがとうございました」
もう一度頭を下げる。少し照れたように微笑む。そして少しだけ首を傾げる。
「助けようとしてくださったこと、とても嬉しゅうございました。……もっとも、最後に助けてくださったのは、あちらのお侍様でしたけれど」
貴丸は言葉に詰まる。
「そ、それはそうだけどさぁ……」
その様子を見て、少女はまた小さく笑った。
先ほどまで怯えていた表情はもうなく、どこか安心したような柔らかな笑顔だった。
三兵衛が苦笑する。
「貴丸様らしい結末でございますな」
泰能も思わず口元を緩めた。ようやく場の空気が和らぐ。
三兵衛が貴丸へ尋ねた。
「ところで、貴丸様。先ほどの妙な構えと、お言葉は何だったのでございますか」
貴丸は頭をぽりぽりとかく。少し考え込んでから口を開いた。
「ええっと……盲目の侠客、座頭の市さん。仕込み杖を持っててさ。ああいう感じで『おやめなせぇ』って言う人」
「……は?」
貴丸は首を傾げる。
「あ、あと、パン……褌の中に危ないモノを入れてる怖そうなおじさん!」
泰能も三兵衛も、揃って首を傾げた。
「そのようなお方、存じ上げませぬな」
しかし少女だけは、先ほどとは違う表情になった。笑顔が消え、目がきらりと輝く。
「……そのお話…どちらの書物に載っておりますの?」
思わず一歩前へ出る。
「え?」貴丸は固まる。
少女はさらに身を乗り出した。
「宋のお話ですか。それとも明でしょうか。それとも南蛮から渡った物語なのでしょうか」
期待に満ちた目だった。
「仕込み杖を持つ盲目の侠客など、私はまだ読んだことがございません。ぜひ拝読してみとうございます」
「あー……いやー、その……夢で見た、とか……かな?」
貴丸の額から冷や汗が流れて、少女が首を傾げる。
三兵衛が苦笑する。「また貴丸様の『なんとなく』でございますかな」
「う、うん……そんな感じ」
貴丸は観念して頷いた。
少女は少しだけ残念そうに肩を落とした。
「夢……でしたか。ですが、夢でそのようなお話を思いつくとは、不思議なお方ですね」
そしてすぐに表情を戻し、小さく微笑む。
泰能も肩をすくめた。
「夢のお話にしては、妙に細かいのでございますがな」
貴丸は照れくさそうに頭をかいた。
「いやぁ……頭は痛かったけど、まぁ、無事でよかったよ」
「その痛みは自業自得かと…」
三兵衛が即座に返す。泰能も吹き出した。
「確かに、自ら酒瓶へ頭をぶつけに行ったようなものであったな」
「違うって! あれは向こうが――」
貴丸が慌てて抗議する。
少女はまた口元へ袖を当てる。今度は声を立てて笑うことはなく、くすくすと肩を震わせるだけだった。
「ふふ……」
その笑みは、先ほどまでの恐怖をすっかり忘れさせるほど穏やかだった。
やがて居住まいを正すと、もう一度丁寧に一礼する。
貴丸はそんな少女を見て、不思議そうに首を傾げた。
まだ、この時の貴丸は知らない。
この何気ない出会いが、やがて陸奥の大和田家と京を結ぶ、大きな縁の始まりとなることを。
たけしさんのもカッコよかったですが、
やはり圧倒的に勝新さんの存在感が良いですね。
唯一無二の俳優さんでした。
黒澤さんの影武者、勝さんで見たかったなぁ。。
たけしさん版のガダルカナルタカさんの新吉役、好きです。。
「ブラインド・フューリー」は見てないな。。面白いのかな。。




