第197話 妙心寺での挨拶
2026年8月7日19時に文章を書き直しています。
その年の暮れようとする頃――。
京の町は、冬の澄み切った空気に包まれていた。
山々から吹き下ろす冷たい風が頬を撫でる中、元伯は忠家と泰能、三兵衛と孫の貴丸を伴い、妙心寺の山門をくぐる。
境内には凛とした静寂が満ちていた。砂利を踏む音だけが、規則正しく耳に届く。高く伸びた松や杉の間を歩きながら、貴丸は思わず辺りを見回した。
(すごい……。空気まで違う気がするな)人の話し声もほとんど聞こえず、聞こえるのは風に揺れる竹の葉擦れと、どこかで鳴る木魚の音だけ。
前を歩く元伯が振り返る。
「貴丸。ここは妙心寺じゃ。禅宗の大本山の一つ。今日お会いするお方は、この寺でも指折りの高僧ゆえ、くれぐれも粗相のないようにな」
「うん。……たぶんね……進化して…めがたぶんね…」貴丸は素直に頷いた。
そんな孫の顔を見て、元伯は小さくため息をつく。
(そのたぶん"が一番怖いのじゃ……。それにその”しんか”とは何なのじゃ? 本当にこの孫は……)
やがて一つの塔頭へ案内される。
障子が静かに開かれ、一行が中へ通されると、一人の僧が穏やかな笑みを浮かべて待っていた。
「お懐かしい。何年ぶりでしょうかな。ようこそお越しくださいました、元伯殿」
「ご無沙汰しております、景川宗隆様。こちらは、私と同道いたしました相馬家の名代、桑折忠家殿。それと供の朝比奈泰能殿、石川三兵衛でございます」
互いに一礼を交わし、貴丸も慌てて頭を下げる。
「この爺さんのお孫さんの大和田貴丸です。よろしくお願いしまっす」
宗隆は柔らかく頷いた。
「うむ」だが、その視線は貴丸から離れなかった。じっと、ただ静かに見つめ続ける。
「……?」
貴丸が首を傾げると、宗隆もほんのわずかに首を傾げた。部屋には、しばし静かな沈黙が流れる。
忠家は居心地悪そうに元伯へ目を向け、小声で囁いた。
「……元伯殿。何か、まずいことでもございましたでしょうか」
「いや……わしにも分からぬな」
元伯も困ったように眉をひそめる。
それでも宗隆は何も言わず、貴丸を見つめ続けていた。
一方の貴丸も見つめ返すことはせず、部屋の掛け軸や庭先へ何気なく目を向け、肩の力を抜いたまま自然体で立っている。
そこには気負いも、取り繕う様子もない。やがて宗隆は小さく「ふむ」と頷き、ようやく元伯へ視線を移した。
「元伯殿のお孫様は、奇妙なお子のようですな。私を恐れるでもなく、媚びるでもなく、ただ自然にそこにおる」
その言葉に元伯は苦笑する。
「……奇妙、でございますか。幼き頃より、このような調子でしてな」
宗隆は再び貴丸へ目を向けると、穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「どうでしょう。このお孫様を、私に一年……いや、数年預けていただけませんかな」
「ぅえ?」思わず貴丸が声を漏らす。
一方の元伯は腕を組み、意外にも真剣な表情で考え込み始めた。
「ふむ……それも良いかもしれませぬな」
「じいさん!? おれを見捨てるの?」
貴丸が目を丸くして叫ぶが、元伯はまるで気にも留めない。
「この童はいろいろなところへ首を突っ込み、問題ばかり起こしますのでな。一度、宗隆様のもとで教えを乞うのも良い薬になるやもしれませぬ」
「ちょっとぉ……!」
貴丸が情けない声を上げると、元伯は苦笑しながら孫へ目を向けた。
「どうじゃ?」
「やだ!」貴丸は勢いよく首を左右へ振る。
その様子を見て宗隆は微笑み、穏やかな声で尋ねた。
「ほう。それはなぜですかな」
貴丸は少しだけ考え込むと、照れくさそうに頭を掻いた。
「俺ね、禅のお坊さんで憧れてる人がいるんだ」
「ほう。どなたですかな」
「寒山と拾得さんがいいんです。昔、蔵にあった絵を見てから、ずっと好きなんだ」
その名を聞いた瞬間、宗隆の眉がぴくりと動く。
「寒山と……拾得ですか。どういうことでしょうかな」
興味深そうに促され、貴丸は静かに頷いた。
「もちろん、二人とも悟りを開いた立派な人だよね。でも、俺が好きなのは、そこじゃないんだ。寒山は山で詩を書いて、拾得は寺の厨で残り飯を集める。偉くなろうとも、お金持ちになろうとも思わない」
穏やかに笑みを浮かべながら続ける。
「人から変人だって笑われても、自分たちは毎日笑って暮らしてる。それって、すごく幸せそうじゃない?」
宗隆は口を挟まず、ただ静かに耳を傾けていた。
「俺は、人は生きるために働くんであって、働くために生きるんじゃないと思う。飯が食えて、お腹いっぱいになったら昼寝して、春になれば花を見て、夏は川で遊んで、秋は月を眺めて、冬は囲炉裏で温まる。たまには友達と馬鹿話して、子どもが笑って、大人も笑って。それで一生が終わるなら、俺はそれで十分」
部屋にはしばし静かな沈黙が流れた。
やがて宗隆の傍らに控えていた弟子が、思わず口を開く。
「それでは、大望はどうなるのですか」
「なくてもいいしょ」迷いのない即答だった。
その言葉に、元伯でさえわずかに目を見開く。武家の嫡男が、これほどあっさりと大望を不要と言い切るとは思ってもみなかった。
貴丸は気負う様子もなく続ける。その言葉には、打算も虚勢もなかった。
「もちろん、お腹を空かせてる人がいたら助けたい。困ってる人がいたら力になりたい。でも、それって偉くなりたいからじゃないでしょ。誰だって、お腹いっぱいご飯を食べて、夜は安心して眠れて、朝起きたら『今日もいい天気だな』って笑える世の中がいい。俺がやりたいのは、その当たり前を少し増やすこと。だから寒山と拾得なんだ」
静かな口調のまま、最後にこう締めくくる。
「あの二人は、何かを手に入れたから笑ってたんじゃない。何もなくても笑ってたんでしょ?」
部屋は水を打ったように静まり返った。
宗隆は貴丸を見つめたまま、長いこと何も言わない。やがて静かに息を吐き、その口元にかすかな笑みを浮かべる。
「……なるほど。寒山と拾得を『何も持たぬ者』と見る者は多い。しかし、お主は『足るを知る者』と見たか」
ゆっくりと頷きながら、宗隆は続けた。
「面白い。寒山は世を捨てたのではない。世の執着を捨てたのだ。拾得もまた、残り飯を集めながら、心は誰よりも豊かであった」
そう言って貴丸へ優しい眼差しを向ける。
「そなたの見方は、禅に遠くない」
その言葉に、元伯はどこか誇らしげな表情で孫を見た。しかし次の瞬間、宗隆は表情を改め、真っ直ぐ元伯へ向き直る。
「元伯殿。やはり、このお孫様を私にお預け願えませんかな。しばらくの間でも構いませぬ」
先ほどまでの穏やかな笑みは消え、その声音には本心からの願いが滲んでいた。
元伯は思わず苦笑する。
「これでも大和田家の嫡男にございますゆえ……」
「……左様ですか」
宗隆は静かに肩を落とし、心底残念そうな表情を浮かべる。
その様子を見た貴丸は、胸をなで下ろした。
(あ、俺、ドナドナ一歩手前で回避。危なかったっぽい……)
そんな貴丸とは対照的に、宗隆の目にはなおも名残惜しさが宿っていた。その視線は、惜しい宝を手放すような思いを隠しきれていなかった。
そして景川宗隆のもとを辞した元伯と貴丸たちは、山内をさらに奥へと進んだ。
冬の冷えた空気の中、竹林を抜けると、一つの質素な塔頭が見えてくる。
元伯は歩みを緩め、小さな声で告げた。
「こちらじゃ。次にお会いするのは、悟渓宗頓様じゃ」
「ごけいそうとん……」貴丸はその名を小さく繰り返す。
(また弟子にしたいとか言われたら嫌だなぁ……)そんなことを考えながら部屋へ通されると、一人の老僧が静かに座していた。
元伯の後ろには忠家、泰能、そして供の三兵衛が控え、皆そろって一礼する。
年の頃は元伯より幾分若く見えるものの、その眼差しは深い湖のように穏やかで、どこか人の心を見透かすような静けさを湛えていた。
「ご無沙汰しております、悟渓宗頓様」
元伯が深々と頭を下げると、宗頓はゆるやかに目を細めた。
「元伯殿か。久しいのう」
二人は旧交を温めるようにしばし言葉を交わし、やがて元伯は後ろに控える者たちへ手を向ける。
「こちらは、桑折忠家殿、朝比奈泰能殿。そして供の三兵衛にございます」
「お初にお目にかかります」三人が揃って頭を下げると、元伯は隣の貴丸へ視線を移した。
「そして……こちらが、孫の大和田貴丸にございます」
貴丸も慌てて頭を下げる。
「大和田貴丸でっす。よろしくお願いしますでっす」
その瞬間だった。宗頓の視線が、ぴたりと貴丸で止まる。
先ほどまで穏やかだった表情から笑みがすっと消え、ただ静かに貴丸を見つめ始めた。
「……へへへ」貴丸は愛想笑いを浮かべてみるが、宗頓は何も言わない。
ただ、じっと見つめ続けるだけだった。(あれ……この流れ、さっきと同じじゃない?)
嫌な予感が胸をよぎる。宗頓の視線はまったく揺るがない。
(まずい……! こうなったら!)貴丸は覚悟を決めると、突然口を思い切りすぼめた。
「ぶぅ〜」
さらに目を限界まで見開き、両手で鼻を持ち上げる。
「ふがっ、ふがっ」
豚のような顔を作ってみせるが、宗頓は微動だにしない。元伯の額には、すでに青筋が浮かんでいた。
「……」部屋には重い沈黙だけが流れる。
(効かない!?)貴丸は焦り、さらに変顔を続けた。
舌をべっと出し、頬をいっぱいに膨らませ、鼻を鳴らす。
「ふごっ、ふごっ」
その瞬間――ぺしん。元伯の拳骨が貴丸の頭へ飛んだ。
「いたっ!」
「これ、やめぬか! 悟渓宗頓様の御前じゃぞ!」
低く叱る元伯に、貴丸は頭を押さえながら口を尖らせる。
「だってぇ……」
それでも宗頓は怒らなかった。
しばらく無言のまま貴丸を見つめ続けていたが、やがて口元がわずかに緩む。
「ふっ……」漏れた笑みは、悪戯好きの孫を見守る祖父のように、どこまでも穏やかだった。
(勝った!)貴丸は心の中で小さく拳を握る。
ところが――。
「元伯殿。お孫様を、私にお預けくださらぬかな。数年……いや、一年でも構いませぬ」
その一言に、貴丸の笑顔がぴたりと固まった。
「なんでぇぇぇぇ!?」思わず声が裏返る。(変顔までしたのに!?)
貴丸は思わず宗頓の顔を見つめた。しかし、その表情には怒りなど微塵もない。むしろ、祖父が孫を見守るような優しい笑みを浮かべている。
(え……怒って弟子にして、説教でもされる流れじゃないの?)
まったく訳が分からない。その様子に、元伯も思わず苦笑を漏らした。
「実は、先ほど景川宗隆様にも、まったく同じことを申されましてな」
宗頓はわずかに目を見開き、「ほう」と小さく頷いた。
「そうでございましたか」
元伯は首を傾げながら続ける。
「この孫に、それほど見どころがございますかな?」
その問いに、宗頓はしばらく黙って貴丸を見つめた。やがて静かに口を開く。
「……いえ。真逆ですな。ここまで僧として見どころのない童を、私は初めて見ました」
その場にいた者たちが思わず息をのむ。
「えぇ………」今度は貴丸ががっくりと肩を落とす。
宗頓は穏やかな口調のまま言葉を続けた。
「普通は、どれほど悪戯好きの童であっても、仏道を求める心、人に認められたい心、知を誇りたい心――何かしらの芽が見えるものです。」
そう言って、改めて貴丸へ視線を向ける。
「しかし、この童には、それが見えませぬ。偉くなりたいとも、名を残したいとも思っておらぬようだ。人に勝ちたいとも思っておらぬのでしょうな」
貴丸は肩をすくめた。「面倒いもん」
あまりにもあっさりとした返事に、宗頓は思わず小さく笑う。そして、ゆっくりと目を閉じると、独り言のように呟いた。
「……そうですな。お孫様は、何かが欠けておるのではない。何かが……すでに満ちておるようですな。だからこそ……私には分からぬのか……」
その言葉に、元伯は思わず問い返す。「分からぬ……ですか」
宗頓は苦笑しながら頷いた。
「そうです。もし私の弟子となれば、仏道を教えることはできましょう。しかし、この童に、私が教えるべき仏道が本当にあるのか……それが分からなくなりました」
そこまで言うと、小さく首を横へ振る。
「やはり、人を導こうなどと申すのは、烏滸がましいことだったのかもしれませぬ。私の驕りでございました。この願いは、どうかお忘れくだされ」
その声音には、僧としての驕りを省みる静かな自省がにじんでいた。
元伯は返す言葉を見つけられず、ただ静かに頭を下げる。
「本日は、ありがとうございました」
宗頓もまた、穏やかに一礼した。
「こちらこそ、お越しくださり感謝いたします」
そうして一行は部屋を辞し、静かな冬の山内へと再び歩みを進めた。
廊下へ出ると、元伯は先頭に立って歩きながら、振り返りざまに「ぺしっ」と貴丸の頭を軽く叩いた。
「お前は何かせねば気が済まぬ性分なのか」
貴丸は頭を押さえながら口を尖らせる。
「だって、変顔したら弟子にされないと思ったんだもん」
「結果は逆効果であったではないか」
元伯は深々とため息をついた。その後ろを歩いていた忠家も苦笑を浮かべる。
「しかし、まさか悟渓宗頓様の御前で変顔をなされるとは思いませなんだ」
泰能も呆れたように肩をすくめた。
「普通なら、少しでも良く見せようとするものですがな」
貴丸は頬を膨らませる。
「だって弟子にされたくなかったんだもん……だもんだ……もんだ……揉んだ?」
一人で言葉遊びを始めた貴丸を見て、元伯はさらに大きくため息をついた。
「それで余計に目を付けられるのだから、お前という童は……まったく、何と言えばよいのやら」
呆れ半分、感心半分といった顔で孫を見つめる。
「それにしても……寒山と拾得とは。ほんに、お前は我が孫ながら底が知れぬのう」
貴丸は困ったように笑うしかなかった。
「俺も、自分でよく分かんない」
その飾らない返事に、忠家と泰能は顔を見合わせ、思わず小さく笑う。
「そこが、貴丸殿らしいのでしょうな」
和やかな笑い声を残しながら、一行は竹林の小径をゆっくりと歩き去っていった。
一方その頃――。
部屋に残った宗頓は、貴丸たちを見送ったあとも、その場に静かに座したまま動かなかった。
控えていた弟子が遠慮がちに声を掛ける。
「老師……」しかし返事はない。
宗頓は目を閉じたまま、ただ先ほど出会ったばかりの童の姿を思い浮かべていた。
(どこかで……。)初めて会ったはずなのに、初めて会った気がしない。
あの無邪気な笑顔。肩の力の抜けた立ち居振る舞い。
何事にも執着していないようでいて、困っている者は決して見捨てようとはしない、あの在り方。
(誰であったか……。)宗頓は遠い記憶をゆっくりとたどる。
何十年も昔――まだ自らも若き修行僧であった頃、京で一人の破天荒な老僧と言葉を交わしたことがあった。
酒を愛し、権威を笑い、それでいて誰よりも人を慈しんだ男。その面影が、不意に胸の奥からよみがえってくる。
「……起而溲、食而眠、唯待死耳…」
思わず口をついて出たその言葉に、弟子は不思議そうな顔を向けた。
宗頓は静かに目を開き、小さく呟く。
「……あの童の在り方が、どこか狂雲子殿を思わせるのだ」
酒を好み、権威を笑い「狂雲子」と号した一休宗純。
その瞬間、胸の奥で引っ掛かっていた違和感が、すとんと腑に落ちた。知識ではない。振る舞いでもない。人を見る眼でもない。もっと言葉にはできぬ何か――。
名声にも地位にも執着せず、仏道を説くことさえ目的とせず、それでいて人が笑って暮らせる世を願う、その生き方。
宗頓は静かに目を閉じ、小さく笑った。
「……されど、狂雲子殿の再来ではあるまい」
独り言のように呟き、しばらく沈黙する。やがて再び目を開き、穏やかな声で言った。
「貴丸殿は、貴丸殿か」
その言葉には、不思議な安堵と、これから先への静かな期待が入り混じっていた。
冬の風が障子をかすかに揺らす。
やがて夕刻を告げる妙心寺の鐘の音が、澄み切った冬空へ、静かに長く響き渡っていった。
景川宗隆:(けいせんそうりゅう)
妙心寺派の高僧。禅の修行と学問に優れ、多くの僧を導いた人物。後に妙心寺の発展にも関わった。
悟渓宗頓:(ごけいそうとん)
室町時代の禅僧。妙心寺において高い地位を占めた名僧。洞察力に優れ、後進の育成にも力を注いだ。
狂雲子:(一休宗純)
室町時代を代表する禅僧。一休の号の一つ。既成の権威を嫌い、酒や風狂の逸話を残しながら、人の本質を問い続けた。
寒山・拾得:(かんざん・じっとく)
中国唐代の伝説的な禅僧。寒山は山中で詩を詠み、拾得は寺の雑役を務めたとされる。身分や財に執着しない生き方の象徴として禅で尊ばれる。何も持たずとも心豊かに生きる姿は、禅における理想的人物として後世多くの画家や僧に描かれた。
起而溲、食而眠、唯待死耳:
「起きれば小便をし、飯を食らえば眠る。ただ死を待つばかりである」の意味。
一見すると、何の向上心もない怠惰な生き方を語っているように聞こえる。
しかし一休宗純は、名誉や地位、悟りへの執着すら捨て、ただありのままの生を受け入れる境地を、この言葉に込めたとされる。
語源は「世の中は 起きて箱して(糞して)寝て食って 後は死ぬるを待つばかりなり」。
それを漢文として創作した。




