第19話 老人の正体
歴史(文芸)部門で日間20位以内に入りました!
嬉しいのでもう1話投稿です!
やがて視界の先に、大和田館の土塀が現れた。
海風に晒された板戸はやや白み、門の上には見慣れた違い鷹の羽の家紋が静かに据えられている。
釣りの後の緩い疲労をまとったまま、貴丸は足取りも変えずに門へと向かった。
門番が一歩前へ出る。いつもの気安い顔で貴丸を迎えようとして――その後ろに続く三人の大人に目を止め、わずかに表情を曇らせた。
片腕のない僧形の老人。風体の整わぬ浪人。色白の若僧。
場違いな取り合わせに、門番の目が細まる。
だが、その空気を貴丸が軽く断ち切った。
「客人だ。『今日だけ』泊まるそうだ。親父様はいるのか?」
右手をひらりと振る。いつもの気の抜けた調子である。
門番は一瞬ためらいながらも、すぐに頭を下げた。
「はっ、もうお戻りでございます」
それだけ答えたものの、なおも視線は老人へと吸い寄せられていた。
どこかで見たような、しかし思い出せぬ――そんな引っかかりを残したまま、彼は口をつぐむ。
館の中へ足を踏み入れると、すぐに気配が動いた。
奥から現れたのは、父・慶久と母・琴であった。二人とも、どこか安堵したような顔で歩み寄ってくる。
「遅かったな、貴丸。魚は釣れたのか? その魚を昼に食べようと待っ――」
慶久の言葉が、途中で止まる。
視線が、貴丸の後ろへと移った瞬間だった。
空気が、変わる。
慶久の目が見開かれ、次の瞬間には、信じがたいものを見たかのように揺らいだ。
「……ち、父上……」
かすれた声だった。
その一言で、場の意味を理解したのは貴丸の母の琴である。
即座に一歩下がり、その場で床に手をついて深く頭を垂れた。言葉はない。ただ、その所作がすべてを物語っていた。
敦丸も、希丸も――何が起きたのか分からず、ただ立ち尽くす。
その静寂を、豪快な声が破った。
「今帰ったぞ。長かったがな!」
片腕の老人が、からりと笑う。
「それにな、この貴丸にあり金をすべて巻き上げられてしもうてな。『今日だけ』はここに泊めてもらうぞ」
冗談めかした言葉であったが、その声音には妙な重みがあった。
慶久は、はっと我に返ると、ほんの一瞬だけ貴丸を鋭く睨んだ。しかしすぐにその視線を収め、深く息を吸う。
「……そのようなことを仰らず。ここは父上の家にございます。どうか、ご随意にお過ごしください」
言葉は丁寧でありながら、どこか張り詰めている。
貴丸は、そのやり取りを眺めながら、首をかしげた。
「ということは……慶虎おじいさまですか」
驚きは薄い。ただ確認するような声音だった。
老人は、にやりと口元を歪める。
「今は岐秀元伯と名乗っておるがな。そうだ、お前の祖父だ」
わずかに目を細める。
「……それにしても、あまり驚かぬのう」
問うような視線。
貴丸は肩をすくめた。
「なんとなく、顔が親父様に似ていましたので」
そして、すっと姿勢を正す。
「あらためてご挨拶申し上げます。大和田家嫡男、貴丸にございます」
その一礼は、これまでの軽薄さとは打って変わって、妙に整っていた。
敦丸も慌てて頭を下げる。
「あ、敦丸です……」
震える声。希丸だけは事情が分からぬまま、胸を張った。
「おれ、希丸。おじいさん、よろしくな!」
場違いな明るさに、元伯はまた笑った。
そこへ、奥から足音が重なる。
「あ、兄上!」「……よ、慶虎様!」
現れたのは叔父の大和田慶光と小野田久秀であった。二人とも、目を見開き、信じられぬものを見るように立ち尽くす。
元伯は、軽く手を振る。
「今は岐秀元伯だと言うておろうに」
そして、後ろを振り返った。
「ついでだ、紹介しておこう」
指先で示す。
「この若い僧が空然。そして――」
「そこの、どこにでもいそうな顔をした男が――儂がかつて早雲様の元で世話になっておった折に縁を得た、風間出羽守盛影じゃ」
その名が落ちた瞬間だった。
貴丸の動きが、ぴたりと止まる。
ほんの一瞬。だが確かに固まった。
元伯の目が、すっと細くなる。
「……どうした?」
静かな問い。
貴丸は、ほんの刹那で思考を巡らせた。
「風間出羽…というと………ほ、北條の……風間小太郎…」
思わず口に出た名。
その瞬間、空気が変わった。
元伯と、風間盛影――二人の視線が、鋭く貴丸へと突き刺さる。
「なぜその名を?」
元伯の声は低い。
貴丸は、即座に思考を巡らして、適当に言葉を繋いだ。
「以前、山伏から聞いたことがあります。北條早雲様のもとには、忍びを束ねる者がいて、その棟梁が風間小太郎と――」
少し大げさに、手を広げる。
「身長七尺二寸(約二・二メートル)の大男で、筋骨隆々、眼はさかさまに裂け、口も両方に大きく裂けて四つの牙が出て、頭は福禄寿のように高く、鼻も高く、声を出せば五〇町(約五・五キロ)先まで聞こえると」
わざとらしく肩をすくめる。
「そんな話でしたが……どうやら違うようですね」
風間は、ふっと息を吐き、苦笑した。
「……そのような風聞があるのは承知しておりますが、見ての通りでございます。私は風魔小太郎ではありませぬ」
穏やかな口調。しかし”忍び”という言葉を否定しきらぬ余地を残す言い方だった。
貴丸は、そのわずかな綻びを見逃さない。
(……やっぱりか)
内心でだけ、そう呟く。
館の玄関先に、奇妙な緊張と静けさが満ちていた。帰還の安堵と、再会の驚き、そして得体の知れぬ縁が、一つの場に重なっている。
その中心で、岐秀元伯は愉快そうに目を細めていた。
老人僧の名前も、若僧の名前は、調べない方が。。
そのうち徐々に分かります。




