第168話 宿替え02
そして貴丸たちは、武野信久の皮屋へ宿を移すことになった。
信久は一足先に店へ戻ると、小者へ馬を引いてくるよう言いつけ、自身は受け入れの支度を整えて待っているという。
ほどなくして連れて来られた馬の背へ荷を積み込み、三兵衛には八田屋の治兵衛が泊まっている海老根屋へ向かわせ、宿を移すことを伝えてもらうことにした。
堺の町を歩いていると、不意に元伯が前を歩く貴丸の襟首をひょいと掴んだ。
「貴丸……これは、一体どういうことなのだ?」
貴丸が振り返る。
「ん? へへっ。なんとなく?」
元伯はじっと孫を見つめる。悪びれもせず笑う貴丸に、元伯は深々とため息をついた。
「今回は『なんとなく』では済まぬぞ」
横を歩く忠家も静かに口を開く。
「聞けば武野殿は、堺でも名の知れた皮屋を営んでおられるという。そのようなお方が、初対面の我らをここまで厚遇してくださる理由くらい、こちらも知っておかねば応じようがないではござらぬか」
貴丸はきょとんとした。
「え? さっき弥太さんが説明したんじゃないの?」
「聞いた。しかし、どうにも要領を得ぬ」
貴丸は頭をぽりぽりとかく。
「皮屋の工房を見てさ、仕事のやり方を少し話しただけだよ。今は一人の職人さんが最初から最後まで全部作ってるでしょ? だから仕事を分けたら、もっと早く、もっと簡単に、たくさん作れるんじゃないかなって」
「……それだけか」
「うん。それだけっぽよ、よ?」
あまりにもあっさりとした返事だった。元伯と忠家は思わず顔を見合わせる。
詳しい理屈までは分からない。しかし、大和田でも貴丸の思いつき一つで、大和田の領の暮らしが徐々に変わったことは何度も見てきた。今回も、その類なのだろう。
元伯は歩きながら、改めて静かに口を開いた。
「貴丸。お前は、自分の知恵をあまりにも気軽に人へ話し過ぎる」
先ほどまでとは違う、祖父として孫を案じる真剣な声だった。
「今までは運が良かっただけだ。泰能殿も、氏親様も、浦殿も、皆よき方々であった。雑賀殿もそうだ。だが、世の中には、お前の知恵だけを欲しがる者も必ず現れるのだぞ」
貴丸から笑みが消えた。
元伯はその肩へ静かに手を置く。
「ほんの一度会っただけの氏親様ですら、お前を見初め、家臣に迎えたいとまで仰った。それほど、お前の考えは人とは違うのだ」
忠家も頷く。
「これから向かう京は、陸奥とは比べものにならぬほど人も権力も集まる都にございます。欲に目の眩んだ者も少なくありませぬぞ」
元伯は真っ直ぐ貴丸を見据えた。
「お前を利用しようとする者、お前を攫おうとする者、お前の知恵だけを奪おうとする者……そのような輩がおっても何ら不思議ではない。京とは、そういう場所なのだ」
そして、小さく息を吐く。
貴丸はしばらく黙って歩いていた。やがて困ったように笑う。
「……うーん。気を付けてみようとは思うことにしようかと、考えることをしてみる……かもしれない」
その返事に、元伯は苦笑した。
「…その訳のわからん言葉が心配なのだがな…」
そんな話をしているうちに、一行は武野家へ到着した。
店先では、信久が穏やかな笑みを浮かべて待っている。その隣には妻の満が立ち、静かに頭を下げた。
満は透き通るような白い肌に、やや面長ながら柔らかな輪郭。切れ長の目は伏し目がちで、細く整えられた眉と、小さく紅を引いた口元が落ち着いた気品を漂わせている。いかにも京育ちと思わせる、穏やかな美しさを持つ女性だった。
その横では、新五郎が今にも駆け出しそうなほど嬉しそうに笑っている。
貴丸は大きく手を振った。
「よっ、松ちゃん(新五郎:幼名松菊丸)! 来たぞい!」
「貴丸!」新五郎も満面の笑みで駆け寄る。
すると貴丸は急に腕を組み、真剣な顔になった。
「でもさ、『松ちゃん』と『貴さん』じゃ、何か組み合わせが違うよな……」
「え?」
「今日から俺のことは『浜ちゃん』って呼んでくれ! それか、松ちゃんのことを俺が『ノリさん』って呼んだ方が良いのかな?」
松菊丸は目を丸くした。
「浜ちゃん? ノリさん?」
「うん。釣りはそんなに好きじゃないけどさ!」
ますます意味が分からない。松菊丸はしばらく考え込んだ末、にっこり笑った。
「じゃあ、俺は貴丸のこと、『貴ちゃん』って呼ぶ!」
「そっちかよ! まぁ、どうでも良いか! はははははっ!」
豪快に笑う貴丸につられ、松菊丸も笑う。
呼び名など、貴丸にとっては本当はどうでもよかった。
その様子を見ていた泰能が肩をすくめる。
「貴丸殿は、人へ妙な呼び名を付けたり、付けられたりするのが好きなのだな…」
貴丸は笑ったまま答えた。
「その方が仲良くなった気がするじゃん。ね、弥太さん!」
「私には、よく分からぬがな……」
泰能が苦笑すると、その場にいた者たちも自然と笑みを浮かべ、武野家には和やかな空気が流れるのだった。
やがて信久と満に案内され、一行は屋敷の中へと入る。
すると貴丸は、まるで何度も来たことのある我が家のような顔で、さっさと先へ進んでいった。
「ほら、こっちだよ。じいさん、忠家さんも早く早く!」
その様子に、泰能や三兵衛は思わず顔を見合わせる。
一方、信久は苦笑しながら元伯へ声をかけた。
「いやはや……お孫様は、どこへ行ってもすぐに馴染まれますな」
「困ったものでのう。申し訳ない……」
元伯はそう言いながらも、どこか嬉しそうに笑う。
信久は貴丸の背中を見ながら続けた。
「もしお武家様のお子でなければ、うちの商いを手伝っていただきたいほどですな。あのように人の懐へ入るのが早い方がおられると、商いの縁も広がりましょうな」
「確かに……あれには私も驚かされることが多くてな…」
元伯は苦笑した。貴丸は相手が武士であろうと商人であろうと、職人であろうと、あまり関係なく接する。
それが良いところでもあり、心配なところでもあるのだ。
そんな話をしながら奥へ進んでいると、貴丸はふと足を止めた。
部屋の隅で、一人の職人が何かを手に塗り込んでいたのだ。
「ん?」
貴丸は鼻を動かす。
「……何か匂うな」
その声に、職人が顔を上げた。
「これですか? 少し手が荒れましてな。黄の粉と言う薬を塗っております」
「手が荒れるの?」
「獣の皮を扱いますゆえ。毛や脂が残っているものもございますし、長く触れていると痒みが出る者もおります」
そう言って職人は白っぽい軟膏を見せた。
貴丸は興味深そうに近づく。
「ちょっといいすか?」
許しを得て、貴丸は匂いを嗅ぐ。
「……これ、硫黄じゃね?」
思わず目を見開いた。信久が少し驚いた顔をする。
「ほう……貴丸殿はよくご存じでございますな。薬師や職人の間では、黄の粉とか、硫黄粉と呼ぶ者も多うございますな」
「やっぱり?」
「ええ。皮膚の痒みを抑える薬として、薬師に作ってもらったものです。昔から使われておりますよ」
貴丸は軟膏を見つめた。
「へぇ……薬なんだな…」
貴丸は小さく呟く。そしてふと思う。
「これ、お風呂に入れたら温泉みたいな匂いになるのかな……」
「……貴丸殿?」
信久が怪訝そうな顔をする。
「いや、何でもないっす」
貴丸はそう言って笑った。
まぁ、【第165話】の木槌リズムは、、あまり評価は、、
あんなもんでしょうね。。




