第6話 ケリーバッグ
ドアを開けたらおかっぱ頭の若い女性がこちらを振り向いた。
ちょうど後ろ手でブラのホックを留めながら……
「何、見てんのよ!」
余りにも堂々とした態度で一瞬、部屋を間違えたかと思ったが、グシャグシャになった青いビニールシートが敷かれたその足元には裸の勝二がだらしなく寝そべっている。
明らかに情事の後だった……
しかしこのオンナは平然とジーパンを履き、茫然と立ち竦んでいる美穂子を押しのけてサンダルをつっかけ出て行った。
美穂子の頭が再起動したのはその数秒後……
「どういう事!!」
「お前こそどういう事だ!嶋本に“買い物”を持たせて! これから二人でシケこむつもりだったんだろう?!!」
その言葉に美穂子は嶋本に持って貰っていた荷物を引ったくって勝二に投げ付けた。
「これ!」
「みんな!」
「あなたの為の物よ!!」
ボロボロと涙を零す美穂子を庇って嶋本は勝二の前に出た。
「服を着終わるまでは待ってやる!出て行け!!」
この状況に急き立てられ、焦りの為に却ってモタモタと服を着る勝二を嶋本は腕組みして見ていたが、その様が気に食わない勝二はジーパンのジッパーを引き上げるや否や嶋本に殴り掛かり拳が嶋本の右目の下へめり込んだ。
しかし嶋本は微動だにしない。
「出て行けと言ってるんだ!ここは今木さんの部屋で、お前の部屋じゃない!!」
繰り出したパンチが決まって図に乗った勝二が嶋本の言葉を鼻で嗤った次の瞬間、勝二の体は開け放たれていたドアの外まですっ飛ばされた。
嶋本が勝二に体当たりしたのだ。
「出て行かなければ実力を行使する」
睨め付ける嶋本の視線に、勝二は尻餅をついたまま後ずさりする。
「私は飛び道具も持っている」
そう言いながら嶋本は後ろ手に持っていたクラッカーの紐を引いた。
パンッ!と言う音に勝二は叫び声を上げ、一目散に逃げ出して行った。
嶋本は開け放たれていたドアを閉めて美穂子の方へ向き直った。
彼の右目の下がどんどん赤黒くなって行く。
「高校の部活でラグビーをやっていました。思わぬところで役立ちましたね。あと、『子供みたい』とあなたが仰ったクラッカーも」
「どうして?!!」と涙混じりの声で美穂子は嶋本へ問い掛ける。
「ここはあなたのお部屋です。そして……彼はあなたが愛した人だった。私が怒りに任せて……彼に怪我をさせる訳にはいきません。彼は一応、ミュージシャンですしね。でも私を殴った事で指を怪我したとしても……それは彼の自業自得だとは思いますが」
嶋本は、それ以上は何も言わず散らばってしまった“買い物たち”を拾い集めた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」
美穂子はグズグズ泣きながら冷蔵庫から氷を出してビニール袋に詰め、タオルに包んで嶋本の顔に当てた。
嶋本は介抱してくれる美穂子の背中にそっと手を回した。
「今は思いっきり泣いてもいいんですよ」
その言葉に美穂子は嶋本のワイシャツに顔を埋めて叫び泣いたけど……嶋本の腕にグッ!と抱きしめられるとビクッ!っとして少し体を離そうとした。
「せっかく当ててくれた氷が離れてしまいますよ」
「ごめんなさい」
躊躇いつつも囁いた美穂子の唇は次の瞬間、嶋本の唇で塞がれた。
嶋本の腕は更に強く美穂子を抱きしめ、彼女を逃がさなかった。
美穂子の抗いは二人の胸の鼓動の高鳴りと共に消え……美穂子も嶋本を強く抱きしめた。
部屋には“営み”の残り香が漂っていたとでも言うのだろうか……?
そうとも言えるのかもしれない。
人のタガが外れるきっかけは様々。
嶋本の……歯を食いしばり続けた想いと
美穂子の……悲嘆と嫉妬と密かな憧れに“営み”の残り香と嶋本の胸に香るエキパージュが……
絡み合って二人を激情の渦へと押しやったのだ。
部屋を占拠したビニールシートはゴミ箱へ
代わりに敷かれた布団に洗濯したてのシーツを広げ、美穂子は白磁の肢体を嶋本に晒した。
「あなたの手、唇、そして体で……全てを上書きして下さい。あなたで……私を、この部屋をいっぱいにして下さい」
二十二歳のこの日まで……勝二しか知らなかった美穂子は……この日、男の本当の優しさと強さに……身も心も奪われた。
眠る事なくお互いがお互いを求め続けた二人に朝が来た。
朝陽が差す布団の中で……嶋本は美穂子を愛おしく抱きながら語り掛ける。
「私は近々家を建てる予定です」
その言葉に美穂子は涙を堪え微笑んで見せる。
「おめでとうございます。このアパートから卒業なさるのですね」
「何を言ってるんです!あなたが主役なんですよ!美穂子さんが気に入る家じゃ無きゃ、建てる意味が無い!」
「えっ?!」
「私は生涯、あなたひとりを愛し守り抜くから!私と結婚して欲しい!」
悲しみの涙は一転して喜びの涙となり……二人はまた睦み合った。
◇◇◇◇◇◇
「お互い今日は“痣”だらけなんだから、会社はサボってしまおう」
二人各々、アパートの公衆電話から会社へ連絡を入れ、場所を嶋本の部屋へ移して朝食を摂った。
朝食と言っても散々体力を使った二人だから……メニューはアメリカ仕込みの嶋本の手によるミディアムレアのステーキとバケットにコーヒーだ。
「差し当っての新居はもう手配してあるんだ!お互いの会社へも……ここよりは近い」
「どこなんですか?」
「私の“東京での父母”……正確には伯父伯母なのだが……山の手に住まいが有って広い庭の中に離れがある。そこを借りてある」
そんな“別世界”の話に美穂子は戸惑ってしまうのを見て嶋本は頷く。
「美穂子の心配は判るが……伯父も伯母もキミの事を心待ちにしているんだ。それにね、伯父伯母は若い頃駆け落ちして一緒になった仲なんだ」
「駆け落ちですか?」
「ああ、伯母は旧華族の家に生まれなのだけど、実家は家柄ばかりに拘ってすっかり没落していたんだ。伯母はそんな家を嫌い、自分の持ち物を売ってドルに替えた。まだ戦前の話だ。戦後になって隠し持っていたドルで都内の一等地を買い漁ったらしい。戦時中にドルを隠し持っている事がバレたら大変な事になるが、別件では“特高”には目を付けられたらしい。まだ17歳の女学生だったんだけどね。そこで同い年の伯父と出会ったんだが……終戦と同時に駆け落ちした」
「……そうなんですか……」
「その伯父が今では警察庁で警視監をやっているのだがら面白いね。私の実家は田舎の地主なんだが、三男の私は何の価値も無い“穀潰し”だから……母の兄である伯父を頼って高校から東京へ出て来た。子供のいない伯父伯母からは我が子同然に可愛がられたけど、なるだけ自立したかったから大学入学と共に今のアパートへ引越ししてアルバイトと奨学金で大学は卒業したよ。まあ、自慢にはならないがね」
「そんな事ありません」
「いや、大した事ではないよ、それよりだ!美穂子は私の名前を知っているのかな?」
「知ってます!」
「じゃあ、名前で呼んで欲しい」
「分かりました。孝平さん!」
その呼び掛けに孝平は美穂子を抱き寄せキスをした。
「私はいずれ“等々力”の養子となって“母”の仕事を手伝うつもりだ。だから美穂子もその心づもりで居て欲しい」
◇◇◇◇◇◇
必要最低限の荷物と美穂子をタクシーに乗せ、孝平は伯父の家へ向かった。
大きな門構えからタクシーが中に入ると伯母自らが孝平と美穂子を出迎えた。
「ただ今、母さん!」
「おやおや!久しぶりの“パンダ目”だわね」
「これでも美穂子が手当てしてくれたからだいぶ良くなったんだよ」
そう言うと“伯母”は美穂子を抱きしめ挨拶した。
「孝平のところへ来ていただいて本当にありがとうございます。私は等々力早百合と申します。どうか宜しくお願いします」
「いいえ!こちらこそ!! 今木美穂子と申します。末永く宜しくお願い申し上げます。」
「はい、これで私達は仲良しね、さっそくだけど傷の手当てについて教えましょう!ちょうどいい材料があるから」
柾子から言われて「ボクは練習台ですか?」孝平は苦笑いし「傷の手当についても詳しいのですか?」と美穂子は問う。
「ええ、主人の『正晴』は若い頃はヤンチャで喧嘩早くて警察にも度々ご厄介になる始末で……生傷が絶えなかったの。だから『オレ!警察へ勤める』って聞いた時はてっきり“お縄になった”のかと思ったくらいなのよ」と早百合は笑った
◇◇◇◇◇◇
「いつもは外商さんに来ていただくのだけど、美穂子さんもご自分で色々ご覧になりたいだろうから二人でお出かけしましょう。孝平さん!美穂子さんをお借りしますね」
この様に孝平に断ってから、早百合はクローゼットにズラリと並んだバッグの中からケリーバッグの一つを選び出して美穂子へ持たせた。
「今日からこれを日常使いにしなさい。もちろん満員電車へも持って行きなさい。傷などいくらついても構わないから。そうすれば自然とバッグを持つ事が身に着くわ。どこかお出かけへ行く時にはこの中から別のを選べばいいのよ。気に入った物が無ければ外商さんに商品を持って来てもらうからね」
それから二人は運転手付きの車に乗り、まずは早百合の御用達の美容院へ向かった。
その個室で、美穂子は今注目の美容師の手で髪をセットしてもらった。
それから二人は“松越百貨店”へ向かった。
地下の駐車場で車から降りると店長を筆頭に等々力早百合の御用達のスタッフが勢ぞろいして二人を出迎えた。
「ようこそお越し下さいました」「ご足労ありがとうございます」
次々と交わされる挨拶に頷きながら早百合は声を掛ける。
「瑤子さんはいらっしゃいますか?」
「はい!」と一人の店員が前に進み出る。
「こちらは息子の婚約者で美穂子さんです。美穂子さんが色々見て回る前に整えてあげて貰えますか?」
「はい!承ります!」と瑤子は美穂子を案内した。
◇◇◇◇◇◇
瑤子は美穂子の為にランジェリーからお見立てしたので……美穂子は“色々と”顔を赤らめたが瑤子は優しい笑顔を向けるだけだった。
それでも漏れ出たのは……
「本当に良かった」とのひと言。
「どうしてですか?」と美穂子が問うと……
「先日、私は孝平様から美穂子様の事をお聞きしました。その上で孝平様はおっしゃいました『あなたが一番似合うとお考えの物をこれらのプラチナのネックレスからお選びいただけますか?』と……そして私が選ばせていただいたネックレスを、こうして美穂子様は身に着けて下さっている……その事がとても嬉しいのです。私なぞが言うべき事ではございませんが……優しい孝平様とどうか末永くお幸せに……」
この瑤子の言葉に美穂子はまた涙し……瑤子は美穂子の化粧直しもさせていただいた。
さて、一気にお姫様展開となりましたが……明日で最終回になれそうです(^^;)
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