20 それだけを夢見て
人が人と食事をするのは、相互理解という理由もある。全てではないが、食事を同席して分かることもあるのだ。
たとえば、自分の好きな物しか食べないとか、ちょっと食べて終わりにするとか、出された物は何でも食べるとか・・・。
目の前にいる四人は、さほど食べ物にこだわりはないという共通性があるようだが。
しかし、それは生まれ育った立場が影響しているのだろうなと、そうレンダーは思った。
彼らは王族・貴族として、そして神官として様々な人々と会食する立場だ。同席者の様子を見ながら、食べる速度も主賓に合わせることがマナーとして身についている。だからだろう、互いの視線だけで取り分ける配分すらツーカーでこなしていた。
(これはあくまで軽食だから、そういうマナーはあまり適用されないが、・・・何ともまあ、少年三人に少女一人というよりも、青少年四人といった感じだな)
適当なところで舞踏会を抜け出してきた四人は、同じテーブルを囲み、なかなか話も弾んでいるようだ。ワインや果汁入り炭酸水、そしてハムやチーズやマリネ、クラッカーやサンドイッチなどをぱくぱくと平らげている。誰もが健啖家らしく、結構なことだ。
すぐ隣のテーブルではテルノス辺境伯とその部下、そしてレンダーがいるのだが、こちらはしっとりと酒とつまみ程度だ。若い食欲に付き合ってられるか、である。
「ところで、ジルドレア殿は、こちらのロムルス殿と婚約しておられるのか? わざわざ二人きりでいらしたということは、そういうことなのかと思ったのだが」
「いえ、全く」
ライジードの質問を、すっぱりとジルードが否定する。
「私はあくまでロムルス様のお供でやってきた一騎士にすぎません。伯爵家の一員としての肩書きも持ってはおりますが、通常ではこういった格好もしていませんし。ロムルス様も私を異性とは思っておられないでしょう」
「それはご謙遜だ。こんなにも存在感のある人を前に、異性として見ない奴はいない」
ライジードは面白そうに片眉を上げてそう言った。しかし、ロムルスとファルードは視線をテーブルに向け、食べるのに勤しんでいるフリをする。
ドレスアップしたこの姿しか見ていないライジード達にとってはそうだろうが、普段のジルードは髪も一つに束ね、ほとんど愛想もなく全ての会話をぶった切っていく少年でしかない。
(まあ、あのぶっきらぼうさは、性別がばれない為の壁でしかなかったけどさ。無表情で愛想もなければ、親しい友人もできにくいし、人嫌いだと言っておけば人を遠ざけることもできる)
ファルードがジルードの性別に気づいたのは、その自衛策が自分とは違う意味で同じようなものだったからだ。ファルードも女の子にしか見えない顔のせいで苦労してきた。だから分かったのだ。
「そりゃあね。こうしているとジルードは素敵な貴族令嬢だけど、僕は普段のジルードのファンかな。愛想もないしマイペースだけど、いい奴だよ」
「おい、ファルード。それ、・・・褒め言葉なのか?」
呆れてロムルスが口を挟む。
「え? 褒め言葉だよ。ねえ、ジード? だけどジードも、ジルドレア殿なんて堅苦しく呼ばず、ジルードって呼んだら? 彼女、別に気にしないと思うよ」
どちらかというと、普段の格好からしてもジルドレアと呼ばれる方が彼女にとっては面倒なのだろうなと考え、ファルードはそう提案してみる。
「だが、ジルードというのは男の名前だろう。こんなにも綺麗な令嬢を前に、それはさすがに・・・」
「全く構いません。私は令嬢として評価されるより、騎士として評価される方が嬉しいです」
どうしたものかと口元を彷徨わせてからささやかに抵抗してみせたライジードに、澄ました顔でジルードはそう言った。
「おや、そうなのかい?」
「ええ。だって、令嬢というのはドレスを着て微笑んで会話をそつなくこなし、どれだけ身分高い貴公子を射止めることができるかで評価されるわけでしょう? あえて私はそういうのとは全く違う立ち位置にあって、その上で評価される方が嬉しいですね」
「なかなか辛辣な。だが、身分高い貴公子というのであれば、ロムルスなんていい線いってるじゃないか」
ライジードにしてみれば、二人は息も合っているし、甘い空気は全く無いが良いコンビに見える。
「ご冗談を。ロムルス様にはいずれ私が素晴らしい令嬢を見つけて差し上げる予定なのですよ。何といっても、この方だと演技力の高いお嬢さんに良いようにされてしまいそうですから。そこは私が見極めさせていただかなくては」
「・・・おい、ジルード。お前なあ、そんなこと勝手に決めるな」
どうして自分の恋愛相手までジルードに決められなくてはならないのかと、ロムルスが辟易とした声になる。
「いいじゃないですか。いずれ私の眼力に、ロムルス様も泣いて感謝する日が来ますって」
「それは言えるかもね。ロムルスもジルードの意見は聞いておいた方がいいよ。そりゃ女の人ってのは、女の人同士で足を引っ張り合うこともあるけど、ジルードはロムルスにそういう恋愛感情を全く持っていないから、それはないしさ。その上で、ロムルスのことを放っておけないって思ってくれてるんだから、かなり心強いさ」
ファルードがジルードに味方したからだろう、ロムルスが怪訝そうな顔になってまじまじと見てきた。
「お前は誰の味方だ、ファルード」
「一般論だよ。だってジルードってば貴族のお姫様なんだよ? なのに、同世代の僕達に全く興味なしだったじゃないか。なら、恋愛感情が全く育っていないお嬢さんなのかなと思いきや、こうして一緒にいても素晴らしく女性としての嗜みも身についている。なのに恋愛もしくは結婚相手になりそうな同世代の貴族子弟に全く興味をみせなかったっていうのは、そういうことさ」
「どういうことだ?」
そこでライジードが興味深そうに身を乗り出してきた。
何と言っても、ライジードも王子として様々な令嬢から秋波を送られる立場だ。正直、同世代の貴族令嬢にそういう目で見られない方法があるというのなら、是非知っておきたい。
「ジルードにとって、僕達は青二才すぎてお話にならないってことだよ」
「・・・・・・」「・・・・・・」
そうだよね? と、ファルードがジルードに視線だけで尋ねれば、ジルードも面白そうに唇の端を吊り上げてみせた。
「ちょっと待てっ。ジルード、それはどういう意味だ? てか、話にならないって何だよ、おい」
「・・・落ち着いてください、ロムルス様。別にお互いに恋愛感情もなく、それでいて友情を育めるなら何よりじゃないですか。あなただって、私に口説いてもらいたいわけじゃないでしょう?」
「そりゃそうなんだが。というか、男としか思っていなかったから、それだけにどうしてお前に青二才呼ばわりされなきゃならないのかと、そっちが不満だ」
「・・・青二才といった言葉を使ったのはファルードであって、私ではありません」
たとえドレスアップしていても、ロムルスにとってジルードはいい奴というスタンスだ。はっきり言えば、親友が女装しているような気分でしかない。
誰だって、親友が自分を青二才だと思っていたと知ったらショックを受けるだろう。
一方、ライジードはあまりこの二人のケースは自分の参考にならないようだと判断していた。この存在感溢れる令嬢を男としてしか見ていなかったというロムルスも理解不能だが、どう考えてもジルードは普通の貴族令嬢っぽくなさすぎる。レアケースは一般事例に適用されないものだ。
「ですが、ファルードの言う通りですね。ええ、ロムルス様。あなた方のような十代の少年はあまりにも青すぎて馬鹿にしか見えないというか、鬱陶しいのです。私の好みは、もっと落ち着いて渋みのある方ですので」
「・・・・・・青二才よりもひどいこと、言ってないか?」
「気のせいです」
いや、気のせいではないだろう。
三人はそう思った。そこで、隣のテーブルにいたレンダーが面白そうに参加してくる。
「でしたら、私の友人を紹介しましょうか、ジルドレア様? とても落ち着きがありますし、年上ですよ?」
「お気遣いなく。私の好みは、少し年上というだけで自分に大人としての魅力があると勘違いしているような若僧でもありませんから。私は、私程度の小娘が持つ色香などに惑わされずに自分を貫く、そんな信念のある方が好みなのです」
「「「「「「・・・・・・」」」」」」
その場にいた、全ての男が黙り込んだ。
恐らく、既にこのジルードにはそういう対象者がいるのだろう。そして、ジルードは自分に対して劣情を抱くような男は願い下げだと、そう言いきったのだ。
ロムルス (ど、どんな修行僧が相手だ。何にせよ、普段のお前に色香は全くないっ)
ライジード (うちの貴族令嬢も、それだけ自分を貫いてくれれば苦労しないんだがなぁ)
ファルード (へえ。やっぱり年上趣味なんだ)
テルノス (ほう、これはなかなか。そう、男は若さではない。うむ、よく分かっておる)
レンダー (まさか、彼女にとっては私世代すら青すぎるとか? どんな好みだ・・・)
テルノス部下 (どこにでも規格外っているよな)
ジルードは少し目を伏せ、グラスを口に運んだ。
それ以上の質問を許す気はないと言うかのように。
けれども、その表情はどこかその場にいない誰かを想っているかのように幸せそうで、・・・その場にいた皆の目が引きつけられる。
とはいえ、そのひとときもすぐに終了したが。
「私のことなど、どうでもいいでしょう。今はまだ新芽だからこそ、あなた方もこうして三ヶ国の立場も気にせずに同じひとときを共有することができているのです。いずれあなた方は、自分の言葉で話すこともできなくなる立場になります。けれども心は自由です。その理想も夢も」
そうか、新芽か。お前にとっては新芽なのか。このジジイ好みが。
少年三人は、何だかやりきれない思いになった。
しかし、ジルードは気にせずに立ち上がる。
「テルノス様、レンダー様。そろそろお開きにいたしませんか? このお坊ちゃま方は、まだまだ食べ足りないし、話し足りないようですが、・・・大人がいない方が盛り上がることもあるでしょう」
「そうだな。どうせ客間は隣に用意してある。お休みになる時にはそちらをお使いいただきたい」
テルノス辺境伯も同意し、立ち上がった。
「それでは、若様方はどうぞお気のすむまで語り合ってくださるがいい。老人は立ち去るといたしましょう」
「えっ、いや、私はライジード様と・・・」
そこでレンダーが慌てて残ろうとするが、ライジードがそれに対して軽く手を振った。
「心配せずとも大丈夫だ。明日もあるだろう、お前ももう休め」
「はあ」
レンダーとしては、それでも心配だったのだが、こうなるともう残れるものではない。
ジルードも今晩の宿泊用の客間を用意されていたので、そちらに行ってしまう。
室内には三人だけが残った。
「やれやれ。どいつもこいつも過保護で困る。ロムルスはいいな。あんなよく分かっている令嬢がお目付け役で」
「・・・普段のあいつを見たら、その言葉も引っ込むだろうよ」
ライジードの意見にロムルスがぼやく。
化粧で女は変わると聞いていたが、まさにその通りだ。普段のジルードなんて少年以外の何物にも見えないのだから。今夜のジルードは、それこそ異国の空気がみせた夢だったのだろう。
「二人とも分かってないなぁ。女の人ってのは、・・・存在そのものが謎を孕んだ神秘的なものさ」
「へえ。言うじゃないか」
それこそ会場で一、二を争う美少女にすら見えたファルードが、すまし顔でそんなことを言うものだから、ライジードは、レイラが育ったらこういう感じになるのかと思いながらも、わざとからかうような口調で挑発してみせた。
それこそ、ファルードは性的な汚れなど一切ありませんといった清冽なイメージがある。
だが、ロムルスは、レイラにばれないよう昼日中からファルードがいささかいかがわしい場所に女性の方から誘われてしけこんでいたことを知っていたので、あえて無言を貫いた。お綺麗な顔をしているが、ファルードの中身はただの破戒僧だ。いや、リベラ神官は結婚も離婚も認められているとは聞くが。
「だが、実際にこんな出会いがあるとは思わなかったな。帝国といえば、まだ姫君を他国に出すことはあっても、皇位継承権を持つ男を外に出すことはまずないと聞く。ロムルスは、それこそいずれ宰相にもなる立場なんじゃないのか?」
「・・・いや、どうなんだろうな」
どちらかというと、一気に皇帝の座が転がり込んでくるか、もしくは反逆者として断頭台の露と消えるか、まさに生きるか死ぬかレベルで緊迫した状況下に置かれている自分である。
ロムルスも答えあぐねるしかない。
だが、ハイアレティ公爵家と言えば、現在、帝国の宰相だったように記憶しているライジードだ。
「何だ、そうじゃないのか? まあ、どっちかっていうと机に向かうのは苦手そうだもんな。何なら外務関係の大臣になれよ。そうすれば外国なんていつでも行けるだろう? 一度、うちの王都に来ればいい。今度はゆっくり。ファルードも、一度は戻らなきゃならないんだろうが、落ち着いたら今度はちゃんとした客人として来てくれないか?」
「そりゃ有り難いな。それこそ、そういうことなら是非一度ジードも帝国へとお誘いしたいところなんだが、・・・いささか事情があってね。だが、そうだな。いずれ落ち着いたら正式に帝国へお招きしよう。何といっても今回は世話になった。その時は是非、ファルード達も来てほしい。その時はハイアレティ家としても精一杯のおもてなしをさせてもらおう」
ロムルスは、胸の中に巣くう帝国で待つ様々な諸事情への不安を消せないまま、それでも全てがうまくいったら二人とレイラを招待しようと考えることで、笑顔を作った。
「有り難いけど、僕、そんな王子様とかお貴族様と肩を並べられる人間じゃないんだけど」
あくまでイディラートと養子縁組しただけの一般庶民であるファルードは、そこを指摘する。平民がどうして王子様のお城だの、帝国の公爵家だのに、お客様として行けるというのか。
「何を馬鹿なことを。そもそもフェイ・ゲオランド・テルノスの名を使える時点で、ファルードはリベラ神国の重要人物だろうが」
「え? 何それ?」
呆れたような声でライジードが言うと、ファルードは目を丸くした。
「何、寝とぼけてんだ。フェイ・ゲオランドの名を使って助けを求めることができるのは、基本的に大神殿の中枢に位置する人間と決まっている。それを使えたということは、ファルード自身が重要人物だからだ。大体、どうして私がここまで来たと思ってるんだ。・・・少なくともファルードは、いずれ最低でもどこかの神官長にはなる人間だろう?」
「・・・へっ?」
ファルードは目をぱちくりとさせた。
生憎、自分はただの下級神官だ。
「それ、僕じゃないよ。なら、イディラート様、つまり僕の父上になる方が重要人物だったからじゃないかな。あの方、既に神官長でいらっしゃるし。それに一度は次の大神官とも言われた方だし」
「父親は関係ないだろう? これはお前自身のことなんだから」
「・・・まさかぁ」
思いっきり否定するファルードは、本気で困惑している。それを見て、ロムルスが助け船を入れた。
「おいおい。そんなの、俺の前で言ってもいいのか? それこそ、お宅の国とリベラ神国との盟約だろうが」
「ふふふふふ。全くだよねえ。だけど、最初にばらしたのはファルードだし、そこはリベラ神国が責任とればいいんじゃないの?」
えっ、僕がっ? と、お鉢が回ってきたファルードが、上目遣いでロムルスを見て、ちょこっと小首を傾げてみせる。
「ロムルスは言わない、よね? だって、・・・いずれロムルスが帝国の頂点に立ったら、きっとうちともエスリーダ王国とも仲良くなってくれると思うし」
「・・・ちょっと待て。お前の頭の中はどうなってんだ、ファルード」
どうして公爵家の自分が帝国の頂点に立つということになってるのかと、ロムルスが内心の焦りを隠して指摘する。
まさか、ファルードは知っているのだろうか。帝国の今の状況を。
いや、そんな筈はない。あれはギネス伯爵だからこそ、孫娘に早馬で知らせることができた事実だ。
(第二軍の奴らに囲まれていたファルードが知る筈はない。そうだ、ただのハッタリだ)
しかし、そのファルードの言葉に反応したのはライジードもだった。帝国の頂点というのは、皇帝ということだ。いくらロムルスが皇位継承権を持つ人間とはいえ、帝国には皇子がいた筈だと、頭の中で帝国の情報を反芻する。
「やだなあ、ロムルス。僕だってのほほんと君の為にお洗濯ばかりしていたわけじゃないんだよ。帝国のたった一人の幼い皇子様、体が弱いらしいね。しかも、・・・皇帝陛下の本当の子供じゃないことは公然の秘密ときたもんだ。なら、次の皇帝は、今の皇帝陛下の弟君、つまりハイアレティ公爵か、その長男である君になる可能性が高い」
ライジードが目を大きく見開いた。
帝国の幼い皇子が皇帝の実子ではない? それはどういうことか。不義の子ということか。
見れば、ロムルスはファルードの本心を探ろうとするかのような冷徹な眼差しを浮かべていた。
ファルードはロムルスの心を見通すかのような表情になって、静かに言う。
「分かってる筈だ、ロムルス。このままでは帝国は自滅する。けれど、・・・君ならば出来る。紛れもなく直系、そして健康で伸びやかな君に、希望を見出している人は多い。君は、野心など無いって言うんだろうけど」
ファルードの心に、無力な人々の顔がよぎる。だから、そこで一度は俯いた顔を上げて、縋るように、そして諭すように言った。
「僕がここに来たのは、帝国がエスリーダ王国を攻めるとしたらテルノス領からだろうと思ったこともある。同時に、君ならばそんな愚行はしないと信じている。そしてロムルス。僕は急いでルーセット神殿に戻る」
「・・・何が言いたい?」
ロムルスはそこで問い返した。
なるほど、ファルードは今の帝国の状況を知らぬままに、皆からの噂話を集め、そういう結論に辿りついていたのだろう。
さすが抜け目がない。そう、このお綺麗なツラに騙されてはいけないのだ。
「僕の養父であるイディラート様は、あれでかなりの実力者だ。ルーセット神殿に出向かれても、未だに大神殿に大きな影響力を持っていらっしゃる。・・・今の幼い皇子と、それを次の皇帝にしようとしている皇妃様が実権を振るっている帝国になど、リベラ神国は何も期待していないどころか、かなり警戒している。だけど、・・・君なら信じられるって思うんだ」
「ファルード・・・」
ああ、誰も彼もが・・・。
ロムルスは瞼を伏せた。全てがまるで自分を大きな流れに放り込もうとしているかのようだ。
ジルードにしても、ギネス伯爵のバックアップでそれを望んでいる。
そしてリベラ神国に属するファルードもまた、そうなのだろう。
「そういうことなら、エスリーダとしても考えることが出てくるな」
そこでライジードが口を挟んだ。ロムルスとファルードが振り向くと、誰もが甘く優しいと言うであろう顔立ちに真剣なものを漂わせ、ライジードが指先を口元に当てて何かを考え込んでいる。
「皇子が皇帝の子ではないというのが本当なら、他国の人間であるファルードまで知ることができた時点で、それはもう秘密でも何でもない。血統というのはどこに出しても間違いなく正しいから価値があるのであって、そうなると今はまだ幼いから誰もが様子見しているだけだ。いざ幼い皇子が皇帝になろうとした瞬間に、人々は一気に離反するだろう。そうなると、帝国はおしまいだ」
歴史上、不義の子を国王の子だと偽るケースは何度もあった。しかし、そういうケースで無事に国王になれたことは、まず無い。なれても、すぐに追い落とされてきた。今までも、そして恐らくこれからも。
ライジードはロムルスを見る。
「皇帝は病に倒れて長いと聞く。二人目の皇子は望めまい。・・・本当は分かってるんじゃないのか?」
ロムルスは答えなかった。
そうだろうなと、ライジードも思う。こんな大事なことを、軽々しくロムルスも口には出せまい。
ファルードだって、これが私的な場で、周囲に誰もいないからこそ言えたのだ。
自分の離宮と領地のことを考えながら、ライジードは言葉を継いだ。
「ロムルス。私は第三王子だが、王太子としての立場も持っている。だから既に自分の領地もあるのだが、・・・何なら軍を動かしてやってもいい」
ロムルスとファルードが、警戒するような視線になる。
「勿論、タダでとは言わん。いずれロムルスが皇帝になった暁には、エスリーダとの不可侵条約を結ぶなどといった礼は、当然、期待する」
ライジードは、貴族の令嬢ならば誰もが顔を赤らめるような優しい微笑を浮かべてみせた。
「美談だと思わないか? 帝国の血統が汚されることに耐えきれずに兵を挙げて道を正した若き皇帝と、それを支援したエスリーダ王国。我が国としても、帝国との初めての絆を結ぶという結果を出せるのであれば悪い話ではない。勿論、簡単には切れぬ絆にしてもらいたいものだが」
「ちょっと待ってくれる、ジード? 言っとくけど、その初めての絆とやらは、うちのリベラ神国に優先権があると思うんだけど」
元より、ファルードもそのつもりだったのだ。
今、ロムルスに味方して得られるメリットはかなり大きい。ただし勝てれば、の話ではあるが。
ただ、そんな大きな話になると、ファルードでは何も出来ない。だからこそ急ぎルーセット神殿に戻り、イディラートに相談する必要があったのだ。
(いいよな、王子様は。自分の一存で全て決められるんだから)
羨ましすぎる話だ。一般庶民の苦労を舐めているとしか思えない。
ファルードは恨みがましくそう思った。
リベラ神国とて、それなりの神兵は揃っている。そして、ロムルスが皇帝となったなら、あの無駄な侵攻は止まるだろう。その侵攻を食い止めるのにリベラ神国が一役買ったとあれば、悪い話ではなく、更にリベラ女神の威光を世界に轟かせることができる。
だからこそ、これにはイディラートの協力も得られるだろうと踏んでいたのだ。イディラートが持ちかければ、大神殿も考える。勿論、エスリーダ王国にも協力してもらえるならそれに越したことはないので、テルノス辺境伯に持ちかけるつもりだってあった。
だが、しかし。
どうしてテルノス辺境伯が国王陛下に相談してそれから・・・な話が、よりによって王子様が来ていたことですっぱり決まると思うのか。
これでは一番乗りの意味がなくなってしまう。
「気にするな。リベラ女神は寛容な女神でいらっしゃる。二番手でもかまわないと思ってくださるさ」
「やだなあ、この王子様ったら。ここは女神に敬意を表して、人はその後に続いてくれればいいだけだと思うんだけど」
「・・・いや、お前達。ちょっと待て。何だか話がいきなり大きくなってないか?」
ハイアレティ公爵家にも兵がないわけではないが、他国の援助もあるとなれば更に心強い。だが、・・・それで帝国に侵出されたのではたまらない。ロムルスとしても、簡単な返事はできなかった。
「そんなことないよ。そうだな、・・・ああ、そうだ。たしかロムルス、さっき、私を帝国の公爵家に招待してくれるって言ってたよね? なら、是非遊びに行かせてもらおうかな」
「・・・軍を率いて、遊びに来るってか」
言わんとする意味を悟り、ロムルスがそうぼやく。
「まあね。悪いことじゃないだろ? ロムルスが皇帝になる時には協力してあげる。その代わり、・・・もし私が兄弟達と王位争いでもすることになった日には、ロムルスが帝国の総力を挙げて私に味方してくれればいいよ。ね、悪い話じゃないだろう? これでも、腹違いの兄はいるし、色々とありそうなんだよね」
「・・・そういえば第三王子がどうして王太子なんだ。おかしいだろ、それ」
そこでロムルスが指摘する。普通、王太子と言えば、第一王子だ。
「兄上達は、妾腹なのさ。正妃の産んだ最初の王子が私。兄上達は私が王位を継ぐということで納得してるけど、・・・周りはどうかと言うとね」
「ああ、なるほど」
そこはすぐに理解するロムルスだ。たしかにそうなると国内での争いも煩わしいことになるだろう。
他国の、それも帝国とのパイプがあるとなれば、ライジードを軽く扱えなくなる。・・・その為には、まずロムルスが帝国の皇帝の座に就くという前提が必要だが。
(こうなると、父上がどう出るやら・・・)
皇籍を離脱して公爵家に婿入りした、かつての第二皇子。ロムルスの父親。
まさか自分がここでエスリーダ王国の第三王子兼王太子殿下と、しかもリベラ神国でも有力な神官長の養子に、こんな協力体制を申し出られていると知ったなら・・・。
(さっさと協力を取りつけて一気に動けっておっしゃるだろうな)
しかし、ライジードもファルードも、まだ十六の少年だ。
その意味も分からずに、ただ、その場の感情だけで動こうとしているだけかもしれない。そんな脆い話に乗っかることができるものだろうか。
「まあ、何にしてもそういうことは、よく考えてから持ち出すものだぞ、二人とも」
だから、ロムルスはあえてそう言った。
ライジードが面白そうな顔になって反論する。
「生憎、油断したら寝首を掻かれる身分に生まれ育ってきたものでね。常によーく考えてるさ。自分が生き延びる方法を。私は、ロムルスにそれを見ている」
ファルードも澄まして言ってのけた。
「これでも僕も、色々な人生の岐路には立ち続けてきたんだよね。・・・自慢じゃないけど、ここぞと思って動いた時の結果って、僕、負けたことはないんだ」
ファルードの脳裏を、寝台から起き上がれなくなった妹リデル、夜中に逃げ出そうとしていたレイラ、男に利用されて捨てられたレルネーゼ、自分から情報をとろうと手練手管を駆使していたローズの姿が通り過ぎていく。
人生は、常に過酷だ。弱い存在が踏みにじられては、ぼろぼろにされていく。
「ねえ、ロムルス。僕達が何かしようとしても何も変わらない。僕達の、この手は無力だ。誰も救えない。だけど・・・」
そう、それでも何かが変わることはあるのだ。
「僕達のような一人一人の力は小さいけど、君が頂点に立つことで、大きな変化が起こることってのはあると思うんだよ。たとえば、帝国が侵攻よりも帝国内の充実を優先するようになったり、父親が兵士になって家を出て行くんじゃなくて、ちゃんと毎日おうちに帰ってくる普通の暮らしをするようになったりとかね。それで笑顔になれる子供が増えたりするってことはあると思うんだ」
「ファルード・・・」
「言っただろ、僕は養子だって。・・・僕はイディラート様に助けられて養子にしてもらって、だからこうして神官として人を助ける立場になれたけれど、誰もがそんな風に救われるわけじゃない。いつだって、今だって、世界のどこかでは飢えた子供達がいるし、病気になっても薬が買えない家庭がある。だけど、・・・少しずつ変えることはできる。そう、君ならば」
帝国の占領下にある、ナリス王国のリーング地方。
ああ、そうだ。まだあそこには自分の家族がいるのだ。帝国の浮き沈みは、彼女達にも無関係ではない。
「その代わり約束する、ロムルス。急いで僕は帰って、イディラート様を説得する。そうして、もしそれが駄目でも・・・」
ファルードはロムルスをまっすぐ見つめた。
「その時は、僕一人でも君の所に戻って味方する。君を一人で戦わせるようなことはしない。これでも僕、それなりにはお役立ちだよ? 何と言っても、暗殺だってお手の物だし」
「ファルード」
「見ただろ? 少なくとも周囲の兵士を倒すぐらいはできるし、必要とあれば毒殺なんてのも出来る」
ライジードは、その視線を少し彷徨わせた。
自分には分からない。飢えたことがないから。薬が与えられなかったことがないから。
だからファルードが語るその痛みを、想像することはできても、本質的には理解できないのだろう。けれども、ファルードが言う意味は分かる。
そう、自分達の行動が、人々に大きな影響を与えるという意味を。
(私も、考えねばならないことなのだろう)
そして常に自分に問いかけ続けなくてはならないことだ。
為政者として。領民の生活を背負う立場として。
だから、ライジードも顔を上げた。
「帝国に滅びてもらうわけにはいかない。多くの難民が他国に流出することになる。・・・どの国とて、全くの無関係ではいられない。・・・ロムルス。私達は恐らく、それをちゃんと分かってる筈だ」
「・・・・・・そうだな。ああ、そうだ」
ロムルスは目を閉じた。
帝国の皇帝。・・・そんな重責をどうして自分が背負いたいだろう。あまりにも広大すぎる国家。
けれども、あの皇妃とその一族では駄目なのだ。無茶な侵攻などをし続けたように、あまりにも考えなしに彼らは権力を好きに使い、帝国の屋台骨を瓦解させようとしている。
けれども、そこで正統な皇位継承者として名乗り出ることができるのは・・・・・・。
(ち、父上に押しつければいいだけだな、うん)
何と言っても、かつての第二皇子は人望もある上、紛れもなく現皇帝の弟だ。
しかし、ハイアレティ公爵家も大きな名家である。今更、父が公爵家をロムルスに譲って皇帝になるかと言えば怪しい限りだが、そこは息子として泣き落とせばどうにかなるかもしれない。
「ありがとうな、二人とも。・・・まだ状況が分からないが、その時には協力を頼むかもしれない」
「一番にだぞ。どうせなら華々しく一番手はエスリーダがもらいうけたい」
「いやいや。そこは遠慮してよ、ジード。何事もレディーファーストだろ。ましてやうち、普通の女性じゃないんだよ? 女神様なんだよ?」
「そりゃ女神を祀ってはいるだろうが、リベラ神国のトップは真っ白お髭なご老体じゃないか」
「・・・しょうがないだろ。誰だって年老いたら白髭になるよ。言っておくけど、大神官様だって若い時はブイブイ言わせてたってのが自慢なんだから」
そこでライジードは呆れたような顔になった。
「それを真に受けてどうする。年寄りの自慢話は、90%は差っ引いて考えておいた方がいい。真実はその一割程度だ」
「・・・・・・」
宮廷で、様々な年寄りの自慢話を聞かされ続け、きちんと裏をとってみたら・・・ということが積もり積もってしまったライジードだ。はっきりと言いきる。
さすがのファルードも、何となくそんな気はしていたので黙りこんだ。
「いや、お年寄りは敬うべきだぞ、ジード」
そこは一番堅実かつ紳士的なロムルスがそう言ってはみたが、ライジードとファルードは、それにはそっと視線をずらした。
ロムルスは、レイラに関してはちゃんとファルードが引き取って連れて帰るだろうと思っていた。何より、今の自分は母親の暴挙と父親の反旗を翻した件があり、すぐに戻らねばならぬ身である。
そこまでの内情を、現時点で知られてしまうと、ロムルスを捕まえて皇妃に差し出そうとされることも考えられた。だから、あえて朝食はゆっくりとテルノス辺境伯夫妻ととったものの、それが終わるや否や、宿に戻ってジルードと共にすぐに帝国へ向けて出発した。
ファルードと共にいた第二軍の人間も、自分達に同行するのと、後から追いかけてくるのと、二手に分けてある。
「なるほど。どちらからとも協力をとりつけたのですね。上出来です、ロムルス様」
「いや、ジルード。けど、あくまで俺達の酔っ払った上での合意ってだけで・・・」
それこそ協力を取り付けるのならば、押しも押されもせぬ立場を確立しているテルノス辺境伯との間にすべきではなかったのかと、ロムルスが自信なさげに言うと、ジルードは首を横に振った。
既に荷物はかなり処分してきた。今、すべきは早く帝国に帰りつくことだ。
二人は馬を走らせながら、互いの情報を打ち合わせる。馬上の方が、誰かに話を聞かれることもない。
第二軍の、同行する騎士達は、先行する者と、後続とに分けていた。
先行させているのは、斥候が目的だ。後をついてきているのは、あまりに大勢で移動していると、変に目をつけられやすいから分けただけである。
「いいえ。エスリーダ王国にしても、ライジード王子だからこそ問題なかったのです。帝国に手を出して、これでもしロムルス様が失敗したとしても、その時は『子供同士、友情が行き過ぎただけでしょうな』と、適当に殿下にお灸をすえて終わりにすることでしょう。しかし、うまくロムルス様が成功したなら、エスリーダ王国はそれだけ先見の明がある王太子を戴いていると、内外にアピールできます。だからこそ分かった上で、辺境伯も席を外していたのですよ」
「・・・・・・・・・汚い。汚すぎる」
「暗黙の了解とは、そういうものです」
ついでに、この伯爵家令嬢も汚すぎる。分かっていてあの状況に持っていったのか。彼女の忠誠心は一体誰に向けられているのか。
(俺では、・・・ないよな。いや、いいんだが)
本当にロムルスを未来の皇帝陛下と思い、忠実な臣下とやらをしてくれているのなら、説明ぐらいはあってもいいだろう。ジルードは、あまりにも言葉が足りなすぎる。
それとも、あえて何も言わないことで、ロムルスに変な重圧が掛からないようにとしてくれていたのか。
「後はファルードですね。その養父である神官長がどこまで動き、そしてどこまでの権限を持っているかは分かりませんが、そちらがかなり重要となります」
「・・・重要って。だが、リベラ神国はさほど大きな国じゃないぞ?」
エスリーダ王国こそが大国の一つであり、こちらが重要視されるべきだろう。
そう指摘したが、ジルードは馬を走らせながら、いいえと答えた。
「リベラ神国は、様々な国に神殿を建て、神官を派遣しております。そしてその神官は、様々な国とリベラ神国を繋ぐばかりか、民衆にも深く係わり、影響を与えています。リベラ神国の協力があるなら、様々な国がそれに倣うということです。ファルードもそれを分かっているからこそ、同じく今日、発つと言っていたのでしょう」
そうかと、ロムルスの胸に熱いものが広がる。
養父への報告を急いでしなくてはならないと言っていたが、勿論それもあるのだろうが、恐らくファルードは、それに要する時間も考えて一刻も早く帰国しなくてはと思ってくれたのだろう。
(約束する、ファルード。お前が望む未来の為に、力を尽くすと・・・)
レイラが自分の腕に飛びこんできたことが縁で知り合った、性格の悪い同い年の少年。美少女としか思えない顔立ちの癖に、酒場では綺麗な女性とばかり消えていた。
しかし、彼の本当の姿は慈悲深い神官・・・・・・かどうかはともかく、少なくとも様々なことを考えた上で、人々のことを思いやる少年だった。
彼がいたから、ライジードとも知り合えた。いや、全てはレイラから発していたのか。
「そういえば、レイラには会えないままでしたね。仮病なんて使わなくても、誰も怒らないのに」
「ああ。だが、ファルードがちゃんと連れて帰るだろ。さすがにこっちじゃ危ないだけだからな」
「そうですね。まあ、また会うこともあるでしょう」
結婚するならレイラしか考えられないなどとぬかしてくれたロムルスだが、今の状況が惚れた腫れただのを言い出せる状況でないことは、二人とも分かっている。
しかも、今のロムルスは生きて皇位に就くか、死んで謀反人として首を晒されるかの二つに一つを突きつけられている立場だ。
レイラを連れていける筈がなかった。
どうせ実の兄妹じゃないと言っても、ファルードがあんなにも大事にしていたのだ。いずれ命があれば、そのリベラ神国のルーセット神殿とやらに行けば会えるのだろうと、ロムルスは高を括っていた。
(いつかまた会おう、レイラ)
そう、君がもっと年頃になった時に。
その時はファルードと自分と、どちらを彼女は選んでくれるのだろうか。
そんなことを考え、ロムルスの頬が少し緩む。
基本的にロムルスはフェアプレイを重んじる人間だ。そしてファルードともそれなりにつるんでいたので、レイラの意思を無視して彼が何かをする筈がないことも分かっていた。
「ジルード、・・・ありがとうなっ」
「礼なら、今のあなたじゃなくて、皇帝陛下になった時に言ってもらいたいものですね。皇帝に感謝を捧げられるだなんて、さぞ、気分がいいに違いありません」
「言ってろっ」
素直じゃないセリフに、ロムルスも苦笑する。
二人はクッと笑いながらも、更に馬を飛ばして駆けていった。
一方、ファルードもテルノス辺境伯夫妻と朝食を取った後で出発の用意をしていた。
今まで泊まっていた宿には、既にこの城の家人が行って荷物を取ってきてくれている。その荷物すら、要不要を分けてしまえば、後は旅立つだけだ。
「この度はお世話になりました。しかも、まさか護衛の騎士様方まで貸し出していただけるとは・・・」
「いやいや。勿論、リベラ神国に送り届けるまでが、盟約の内。これは至極当然のこと。どうか遠慮なくお連れになっていただきたい」
テルノス辺境伯がそう答えるが、実は本来よりも護衛の数を多くし、更に馬車もいいものを用意させた。
それもこれも、あの王子様が原因である。
ファルードの実妹がイディラートの実子でないと知り、妃に迎えられないならばメイドとしてでもいいから城へ連れて帰ると言い出したのだから。
彼らは話し合い、あと少しだけレイラを傍に置いておけばその執着も弱まるのではないかと、ここは消極的な解決法に逃げることにしたのだ。
正直、胃が痛いのはレンダーだけではない。
やがてライジードがレイラをかまうのに飽きてくれれば、それから丁重にレイラには沢山のお土産を持たせて帰らせてあげようと、そうテルノス夫妻は話し合っていた。
「ところで、レイラのことなのですが・・・」
「ええ。レイラ様でしたら、後程、私が責任を持っておうちに送り届けさせていただきますわ。本当に可愛らしいお嬢様で、とても気に入ってしまいましたの」
慌てて辺境伯夫人がそう身を乗り出す。
ファルードは、妹のリデルをこの辺境伯夫人が気に入って可愛がっていたとレンダーから聞いていたものの、まさかレイラまでもと思わず、
「あ。そうでしたか」
と、その勢いにやや仰け反りながら相槌を打つ。
まさかそのリデルとレイラが同一人物だなどと、思いつく筈もなかった。
(よほど小さな女の子がお好きだったのかな。小さい子はこの城にいないという話だったし。レイラは天真爛漫な子だし、リデルは引っ込み思案な子だけど、容姿も性格も全く違うから、見ていて楽しかったんだろう)
何にしてもレイラの故郷はチェンジン国のリミダ村だ。自分としても今の状態でそこまで送っていく時間のロスは避けたい。
辺境伯夫人はとても可愛らしい雰囲気を持つ上品なおばあちゃまだし、これならリデルもレイラも安心して任せられると、そうファルードは思った。
「ご迷惑をおかけしますが、そういうことでしたら・・・。どうぞよろしくお願いいたします」
「迷惑だなんてそんな・・・。本当にとても可愛らしくて、うちの孫にしたいぐらいですの。大事に大事にさせていただきますから、本当にご心配なさらないで」
「ありがとうございます」
リデルもレイラも平民だ。まさか本気で孫だなんて考えていないだろうと思いつつも、そこまで気に入ってくれたなら、きちんと送り届けてもらえるだろうと、ファルードも安心する。
偏屈老人と言われていても、テルノス辺境伯はかなり生真面目な人柄でも知られていた筈だ。
そもそも、フェイ・ゲオランドを受け入れる為の前振りとして、わざと変な噂を流したりする程度に、堅物で真面目なのだ。
疑う理由がなかった。
そう、まさか自国の王太子殿下のロリコン変態疑惑の情報操作の方が彼らにとって大きな意味を持つなどと、どうしてファルードに考えつけただろう。
「どうか、妹達にもよろしくお伝えください。それでは、お暇申し上げます」
「道中、どうぞお気をつけていかれよ。・・・ライジード様も見送りをしたがってはいたが、こんなこととなってはすぐに王都へ戻らねばならぬと、それゆえに朝食の席にもおいでにならなかったのだが」
テルノス辺境伯が、もっともらしい理由を述べる。
ファルードが、妹ではなく妹達と言ったのには気づいていたが、言い間違いだろうと判断し、そこは流したのだ。
尚、ライジードが朝食の席に来なかったのは、ファルードやロムルスをレイラと朝から会わせて里心がついては困るという、とても身勝手な理由だった。皆で朝食の席を囲み、そのまま連れて行かれてはたまらない、と。
どこまであの王子様はレイラにご執心なのか。
「とても心強いことです。ロムルス様にとっても、今回の舞踏会はとても有意義なものだったでしょう。勿論、私にとりましても」
成長具合は遅かったとはいえ、あんなにも健康そうになった妹の姿を見ることができた。それだけで全ては間違っていなかったのだと、ファルードには思える。
自分を売った金を置いて家を出た時、自分の未来など全く分からなかった。
けれども今、自分は未来を考えて生きることができる。そう、ロムルスやライジードに託せるものを自分は知った。
「どうぞお気をつけて。妹君のことは心配なさらないで。ええ、本当に大事にいたしますから」
「ありがとうございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。何かありましたら、ルーセット神殿にまでご連絡を。その際はすぐに駆けつけます」
辺境伯夫人に微笑むと、ファルードは馬車に乗りこむ。
「皆様に、リベラ女神の微笑みが共にありますように」
そうして、馬車が出発する。それを見送りながら、テルノス辺境伯夫妻とレンダーはそっと溜め息をついた。
「殿下はどうしておられる?」
「はあ。それが、・・・あのお嬢さん用の侍女服を仕立てろと言い出しました」
レンダーが疲れきった声で辺境伯に答える。
「あらまあ。侍女服など、幾らでも城に戻ればおありでしょうに。レイラ様ぐらいのメイドもいるんじゃなくて?」
「いえ、それが・・・。侍女というのも傍に置いておく名目にすぎませんから。あくまで他のメイドとは差別化をはかり、色合いも変えて上質な物を仕立てるようにと。おかげで先に彼女の採寸したそれを、離宮に早馬で出したぐらいです」
「まあ。本当にライジード様ったらレイラ様がお気に入りなのね」
辺境伯夫人は、ジルードから既にレイラが描いたというドレスのデザイン画を受け取っている。かえってレイラ自身にデザインさせた方がいいのではないかと思いつつも、ライジードはどこまでファルードの妹に執着しているのだろうと、困ったように小さく首を振った。
このバタバタしている状態だからファルードにも誤魔化せたが、あまりにも長くレイラをこのエスリーダ王国に留めておくわけにもいかないだろう。
早くあの王子がレイラに飽きてくれればいいのだが。
「まあ、お戻りになったら陛下も注意してくださるだろう」
ライジードを窘めることができるのは、父親である国王しかいまいと、そうテルノス辺境伯はまとめることにした。
今時の若いもんの考えることは分からんと、ぼやきながら。
考えてみれば、自分はロムルスと踊っていないのだ。
ファルードと踊ったのはいい。ライジードと踊ったのもいい。
だが、どうして自分はロムルスと踊らなかったのだろう。
レイラにとって残念なのがそこだ。
「ロムルスもファルードも慌てて帰国しちゃったからね。今更ダンスだなんて・・・」
「うー。ロムルスのあの紺色の正装した格好、とっても素敵だったのにぃ。ジルードもカッコ良かったのにぃ」
顔が違うのがばれるから会えないと思ってはいても、やはり踊ってはみたかったので、ついぼやいてしまうレイラだ。
ライジードの膝の上に座りながら、ぶつぶつと文句を言っている。
「ジードはあんまり紺色の服、着ないし」
どちらかというと、ライジードは黒っぽい色を着ない傾向がある。同じ青でもロムルスならダークブルーの衣装だが、ライジードなら水色に近いスカイブルーなのだ。
「レイラが望むなら黒でも紺でも着るよ。それじゃ駄目?」
「・・・ううん、いいの。ロムルスにはまた会ったら踊ってもらうもん。それにジードは明るい色がとても似合うから、そういう服を着てる方がいい」
恐らく、これが最後ではない。
自分達は再び出会うだろう。そう、ロムルスともファルードとも。
その時の自分は、ストロベリーブロンドに光の加減によって色を変える灰色の瞳をしたレイラの姿なのだろうか。それともザイの姿なのだろうか。
「ライジード様。馬車の用意が整いました」
「分かった。まずは辺境伯に挨拶に行こう」
「お嬢様は先に馬車へと案内いたします。奥方様も、お嬢様の旅が快適になるようにと、可愛らしいクッションを沢山用意なさいました。お気に召していただけると幸いです」
「なら、レイラは先に馬車へ行っておいで」
「うん。・・・ありがとうございます。奥方様にもお礼をお伝えくださいますか?」
「かしこまりました」
自分も辺境伯夫妻には挨拶した方がいいのではないかと思ったが、子供はいない方がいいこともあるのだろうと、レイラは大人しく先に馬車に乗ることにする。
レイラに申し訳ない気持ちが大きすぎて、辺境伯夫妻も合わせる顔がないのだとは思いつかなかった。
だから侍女達に馬車へ案内されたレイラは、可愛いクッションの上に座りながら、小鳥の首に掛けられていた首輪の筒から紙を取り出す。
「スズちゃん、ちょーっと見せてね。何が入ってるのかなぁ?」
それは使用説明書だった。
「えーっと、まず、なるべく日光に当てましょう。あまりに太陽の光に当てないと、動かなくなることがあります、ね」
つまり太陽光エネルギーで動いているのだろうか、この小鳥は。しかし、そんな技術がこの世界にあるとは思えないのだが。大体、電気もないというのに。
「もし、あるようなら油を飲ませましょう。油の量は、右の翼の先が水色に染まっていくことでどれだけの量が蓄えられているか分かります、か」
どうして油が必要なのか分からないが、この場合の油はどんな油でもいいのだろうか? 鯨油でも植物油でも? まあ、いいのだろう、きっと。
見れば、小鳥は全体的に茶色だが、右側の翼の先端はどれも水色になっている。今の時点で満タンということなのか。
「もし、鍛冶屋を見つけたら、翼から刃を抜き取って研ぎに出しましょう。刃を使いきったら同じ物を注文して作成してもらい、差し込んでおけば、いつでもあなたのボディーガードがそこに・・・って、刃って何っ!?」
恐る恐る小鳥を見れば、可愛らしくチュンッ? と小首を傾げてくる。
「あの・・・、スズちゃん。翼に刃って何のことかなぁ?」
すると小鳥は器用にも左の翼だけ広げてみせた。そしてキンッと音がすると、左の翼の下から幾つかの薄い刃が一列になって出てきて翼の先に装填される。
「ま、まさか・・・。それ、何かを切ることができる・・・とか?」
フッと、小鳥が軽くその翼をひと振りした。すると、馬車の向かい側の席に、その翼から飛び出た刃の一つが突き刺さる。
「・・・・・・・・・」
軽く翼をはためかせてその刃が刺さった所に行くと、嘴でそれを抜き取り、小鳥は再度装填した。どこか得意そうである。
(ま、まさかの・・・殺人小鳥)
こんなにも可愛いのに。いや、心強いのかもしれないが。
しかし座席の布張りされた部分ではなく、その枠である木の部分にあそこまで深々と刺さったなどと、・・・どう考えてもちょっとした護身用具レベルではない。
完全に凶器だろう。
(い、いやいや。私が命じなければいいことなのよ。ええ)
それに林檎を剥いたりする時とか、人参を切りたい時とかには便利かもしれない。
レイラはそう考えることで、その機能が目的とする用途を気づかなかったことにした。
「えーっと、それから、もし、あるようならお酒を飲ませてください。お酒は小鳥の中で純度を高めていくので、どんな度数でもかまいません。お酒の量は、左の翼の先が桃色に染まっていくことでどれだけの量が蓄えられているか分かります、とな」
何の為にお酒を飲ませておくのか分からないが、酒の純度を高めるということはアルコール度数を高めるということなのだろうか? 何の為にそんなことをするのだろう。
見れば、茶色い小鳥の左翼の先はどれも桃色になっている。どうやらアルコールも満タンなのだろう。
(き、訊いちゃいけないような気がする。その油だの酒だので、スズちゃんに何が出来るのかなんて絶対に訊いちゃいけない気がする)
いくら可愛い雀でも、そのスペックは可愛いというものをぶっちぎっている気がしてならないレイラだ。
「尚、この説明書は誰にも見られないように焼き捨ててください。そしてこの小鳥は伝書鳩にも使えます。その際には、この使用説明書が入っていた筒に手紙を入れて飛ばせばいいです。・・・ほう、何とお役立ちな」
やっとほのぼのとした内容が出てきたような気がして、一安心したレイラだ。
しかし、ここで焼き捨てろと言われても、どうすればいいのか。後で、焚き火か何かの中に入れればいいのか。
そんなことを思っていたレイラの指から、はらりと使用説明書の紙が落ちる。
「あ」
すると。
小鳥の嘴から炎が飛び出て、ぱひゅっと使用説明書が一瞬で灰になった。
「・・・え?」
今のは幻だろうか。
あり得ないものを見たような気がして、レイラはパチパチと目を瞬かせる。
馬車の床には黒っぽい灰色の何かが落ちている。
「ま、まさか・・・。いや、そんな・・・」
ちょうど吹いてきた風によってその灰っぽいものが、さあぁっと形を塵に変え、外へと流れていく。
そこにもう、使用説明書は影も形もなかった。
(ま、まさか油と酒って、スズちゃんのこの火炎放射に使われるとか・・・・・・)
レイラは、そこは良心的に、野宿で火をつけなくちゃいけない時に便利だよねと、そう考えることにする。そう、自分は平和的な思考の持ち主なのだ。
火炎放射器ではない。これはライター。そう、ライターなのだ。
それ以外の使い方?
あるわけがない。あるわけがないのですよ。奥さん。
「スズちゃん。・・・人の命は地球よりも重い、筈はないけど、命は大事なのです」
くるりっと、小鳥が首を傾げる。意味が分からないのだろう。
レイラは分かりやすく言い直した。
「なるべく平和主義で」
こくっと小鳥が頷く。
(分かってくれた、よね? うん、そうだよね)
レイラの身の安全を最優先するというプログラムが入っているとは思いもせず、にこぉっと笑うことでその話を終わらせて、レイラはお行儀悪く、クッションの上にだらぁっと寝そべった。
すると小鳥も羽ばたいてレイラの座席の上方にある木枠へと移動する。
「スズちゃん、何か鳴いてみて?」
すると小鳥は、「ホーホケキョッ」と鳴いた。
「鶯かいっ」
一気に脱力したレイラだ。きょとんと首を傾げた小鳥は、どうやらレイラのお気に召さなかったようだと考えたらしい。
すぐに、「カァ、カァ」と鳴き始めた。
「なして烏っ」
どうして可愛らしい雀から、そんな腹に響く烏の鳴き声を出されなくてはならないのか。
レイラは自分の命令が悪かったのだと反省した。
「ごめん、スズちゃん。普通の、チュンチュンっていう鳴き声が好きかな」
何だ、それでいいのかと言わんばかりに、小鳥が「チュンッ、チチチチッ、チュンッ」と、囀り始める。
「今日は寝起きが悪かったから、・・・一緒に寝ましょ、スズちゃん」
レイラは大きな口を開けて欠伸をした。小鳥もレイラの肩の所まで下りてくる。
「おやすみ、スズちゃん」
「チュンッ」
そうして一人と一羽は、すやすやと眠り始めてしまった。
待ちくたびれたというのもある。
やがて、色々と打ち合わせをしてからやってきたライジード達は、それを覗きこんでつい、笑いを誘われてしまった。
「まあまあ。お可愛らしいこと。・・・このバスケットにはレイラ様が喜びそうなお菓子もいれてありますから、是非食べさせてあげてくださいましね」
「ありがとう。きっとレイラも喜ぶ」
やはり名残惜しくてやってきた辺境伯夫人が、バスケットをライジードに差し出す。本当はレイラに直接渡すつもりだったのだが、寝ている子供を起こすこともないだろう。やはり、昨夜の舞踏会の疲れが抜けていないに違いない。
(せめてレイラ様だけでも後から向かわせればいいのに・・・)
しかし、後からの別行動となれば、自分達は適当な理由をつけてレイラをリベラ神国に送り返すだろう。それが分かっているから、ライジードもレイラを手元から離さないのか。
レイラが疲れている理由は、朝っぱらから蛸に巻きつかれている夢で体力消耗しただけだったのだが、そんなこととは知らぬ侍女達も大人用のひざ掛けがレイラにとってはちょうどいい毛布になるだろうと持ってくる。
「ライジード様。それでも彼女はファルード殿の実の妹君。決して無体な真似はしてはなりませんぞ」
「分かっているとも。ちゃんとこれ以上はないという程、丁重に扱うさ」
丁重に扱うどころか、泣かせてばかりいたのを知っているレンダー達はそっと横を向いた。
ああ。自分達の王子様は、どうしてこんなことになっているのだろう。
それまでは普通の同世代の少女に憧れる健全さを持ち、性格も優しく、誰にでも笑顔を振りまく、どこに出しても恥ずかしくない王子様だったのに。
「どうぞお気をつけて。陛下にもよろしくお伝えくださいませ、殿下」
「この度は本当に世話になった。・・・父上もたまには出てきてくれればいいのにとぼやいておいでだ。今度は是非、王都で会いたいものだな」
「有り難きお言葉なれど、我が身はこの地にて国外への睨みをきかせておかねばなりませぬ。それこそが陛下の心に寄り添うということ」
「・・・羨ましいな、父上が」
ライジードの声に弱さが滲み、それを誤魔化そうとするかのように、彼は馬車へとさっと乗り込んだ。
そうして、いつもの快活な調子に戻って辺境伯への返事とする。
「父上には、先程の言葉をしかと伝えさせていただこう。さすがはテルノス辺境伯だと、父上も心強く思われるに違いない」
辺境伯を先頭にした人々が、揃って頭を下げる。
馬車の扉が、ゆっくりと閉められた。
「レイラ。寝ててもいいから、手を振ってあげなさい」
それだけの会話があっても目覚めないレイラを抱き起こすと、膝の上に座らせてライジードはその顔を小窓からテルノス辺境伯達に向ける。
「んー。・・・も、お腹、いっぱ・・・」
むにゃむにゃと呟いたかと思うと、すぅっとレイラはまた寝てしまう。
さすがに辺境伯も、
「いえ。寝かせてあげておいてください」
と、苦笑せずにはいられなかった。よく似た兄妹なのに、あの冴え冴えとした美貌で騎士達を無力化した兄と、こうしてのほほんと眠っている妹と、それはとても対照的だ。
やがて馬車が動き始める。
(まだまだだな、私は)
ライジードは笑顔を浮かべ、小窓から皆に手を振りながらそう思った。
そう、今回のこの訪問は決して無駄ではなかった。
この辺境の地にあって、テルノス領が持つ心の豊かさを見ることができたのだから。
そうして、ロムルスやファルードとも知り合えた。
(私は、彼らに恥じない自分でいられるか・・・?)
世継ぎの王子として五体を損なうわけにいかなかった自分は、戦う剣を知らない。けれどもロムルスの心に沿ってやれるだろうか。
王族として生きてきた自分は、ひもじい思いをしたことがない。それでもファルードの理想を理解してやれるだろうか。
本質的にそれらを知らなくても、それでも想像すること、そして互いに力を合わせることはできるだろう。そう信じたい、今の自分がいる。
(知ってるか、レイラ。お前が私を揺さぶったんだ)
ライジードは、レイラの紫の髪を優しく撫でた。熟睡しているのか、撫でられた拍子に口をぱくぱくさせているのが魚のようで可愛い。本当に食べてしまいたいぐらいだ。
諦めるしかないのだと、自分には他の人生などないのだと、そう思っていた。
けれども、自分の懐に飛び込んできたこの子供の為に動いた時から、何かが変わった。
まるで自分の中にあった固定観念が破壊されてしまったかのように。
自分でも、望めば変えられる、そして手に入れられるものがあるのだと、そう思えたのだ。
(レイラ。お前だけをいつか・・・・・・)
やがて街を出て、街道を走り始めた馬車の外に澄みきった青空が広がる。
この空を、ロムルスとファルードも見ているだろうか。
(お前が、私をあいつらに会わせたんだ)
大きく息を吸う。
長らくライジードの中にあった鬱屈が、いつしか消えていたのだと、その時に気づいた。
抵抗しても、無駄だった。
「やめてっ、お兄様っ」
「お前が悪いんだろうっ。どうして皇子を奪われたりしたんだっ」
これは罪だ。
いいえ、元から自分は罪人だった。
マティリアの瞳から涙が零れていく。
「もう一度、皇子を産むんだっ」
「いやっ」
それでも人払いしたこの部屋に近づく人間はいない。
そう、誰も自分を助けてくれはしないのだ。
(ああ。誰か・・・・・・)
誰か、自分を殺して・・・。
マティリアは二度とないと思っていた悪夢の再現に、気が狂いそうになった。
ああ、そうだ。
あの時も自分はこうして兄に・・・。
だから自分は、産まれた息子を実家のタイガルース侯爵家に差し出したのだ。
そう、自分はあの子を人身御供に差し出した。皇子を差し出せば、自分はお役御免になると分かっていたから。それからはもう、ひっそりと世間に関わらず生きていこうと。
「やめてっ。もう陛下が起き上がれないのはどなたも知っていることっ。今更私が身ごもったところで、皇子などと誰も認めはしませんっ」
それでもマティリアは気を取り直し、必死で抵抗する。
しかしミレイドは、ニヤリと笑って言った。
「認める? そんなこと、どうでもいいさ。認めさせるんだ。大体、皇妃が皇帝以外の男と不義密通しただなどと、どうして帝国が認められる? だからお前が産んだ子は紛れもなく皇帝の子さ」
何ということだろう。
あまりにも神をも恐れぬ傲慢さがそこにはあった。
マティリアが茫然として兄を見返せば、ミレイドが馬鹿にしたかのように笑う。
「お前の存在価値は、皇子を産んで我がタイガルース侯爵家の傀儡とすることにある。黙って従うがいいっ」
「いやぁっ」
それでも助けが来るわけがなかった。
この後宮ですら、既にタイガルース侯爵家の思うがままだ。
(エディナートお兄様。・・・どうして、助けに来てくださらないの)
一番上の兄であるエディナート。彼ならば、こんな暴挙を許すことはなかっただろう。
けれどもエディナートがここに来ることはない。真面目な彼は、皇妃となった妹がいる後宮に、兄とはいえ男が出入りすべきではないと考えるタイプだった。
「諦めて子を産め、マティリアッ」
「嫌ですっ」
本来は皇帝しか知ることのない体を、実の兄に踏みにじられ、子まで産ませられた。
そうして子供がハイアレティ公爵夫人に攫われたと思えば、取り戻すことが難しいからと、兄に再び子を産めと強要される。
(ああ、私は何の為に・・・)
吐きそうになる心に耐えながら、マティリアは死にたいと願い続けた。




