ゆかな、事務所へ
父、卒然者の説得に成功し、篠宮家内での手打ちが済んでから数日後。
ゆかなはガーリーなかわいらしい私服、徐如林はこの日のために買ったスーツで、ゆかなをスカウトした男の事務所に向かっていた。
学校から帰ると2人は即座に出かけたのだが、制服は男にこちらの身元が知れてしまうので着替えることにした。
これから徐如林と男が話しあった結果、交渉が決裂する可能性もある。
あまり血を流さない形で終わらせるためにも、そうするべきであったし「ステルス アイドル プロジェクト」を始める上でもそれは重要なことであった。
ゆかなをスカウトした男には、今から男の事務所に行くことは連絡していなかった。
あらかじめ徐如林が調査し、その日のその時間に男が事務所にいることはわかっていたし、仕事で使っている諜報機関の知り合いに男が事務所にいるかどうか事前確認してもらっていた。
急に現れることで男の虚を突き交渉を有利にするという部分もあったが、これから「ステルス アイドル プロジェクト」を説明するにあたりその雰囲気を感じてもらうためでもあった。
めずらしく緊張した面持ちで固まり電車に揺られるゆかな。
それを徐如林は優しく微笑んで見守っていた。
「ゆかな、臆することはありません。いつもの仕事と同じように臨むのです。ゆかながアイドルになりたいのと同じで、相手の男も…佐伯…まあ一応社長で良いのか…佐伯社長もゆかながアイドルになってくれないと困るのですから」
徐如林がゆかなの緊張を解こうと話しかけると、ゆかなは熱い正義のオーラを立ち上らせギュッと両手を握りしめた。
ゆかなの両目には燃兎眼が真っ赤に燃え上がった。
「わかりましたのです!お兄様!ゆかなはいつでも全力なのです!!!!!」
真剣な眼差しで徐如林を見上げるゆかなを見て、徐如林はこれはついて来て正解だったなと思った。
ゆかなは殺し屋として天才でも、まだ14歳の女の子なのだ。
しかもある意味過保護に育てられているので世間知らずのところもある。
卒然者が自分をゆかなのマネージャーに指名したのはあながち間違いではなかったなと、徐如林は卒然者の的確な即断即決に感心していた。
「良いですか、ゆかな。芸能界というのは人間が商品となり、それを売買する恐ろしいところです。佐伯社長は芸能界の泥沼にハマり込んでいない反面、芸能界の底辺で失敗続きです。ですがそれはゆかなを大事に扱ってくれるということでもあります。佐伯社長は人脈もなくお金もなくてプロモーションがうまくいかない、つまり我々の世界で言えば、手持ちの武器を全て失った挙句、逃走ルートを塞がれ囲まれてしまったのと同じ…」
「お兄様!ゆかなはどんな時でも頑張るのです!必ずどんな時でも敵には隙ができるのです!」
「そうですね、ゆかな。我々篠宮家は代々あらゆる逆境を跳ね除け、ここまで生き延びてきました。さあゆかな、見せてやりましょう。全てを失ったところから勝ち上がるからこそやる価値があるのです。今までの芸能界のやり方に従わない方法で私達は独自に生き延びるのです。作戦を練り現場では臨機応変に動き回り成功へ向かうのです。それが人を売り買いするような悪しき風習から脱却する唯一の方法。アイドルになっても幸せでいられる方法です」
徐如林は芸能界は殺し屋の世界よりも質が悪いと考えていた。
殺し屋は一見命がけではあるが、油断こそしないものの慣れてしまえば、近所のコンビニにアイスを買いに行くように仕事て帰ってくるだけのこと。
内容によっても変わるのだが、篠宮家が受けるような「高い仕事」は、普通の人が1年かかっても稼げない報酬が一晩で手に入る。
しかしアイドルはどうだろう。
どうも見ているとタダ働きも多いようで、タダでも仕事があるだけ良いというもの。
事務所の関係先で水商売をやらされたり、広告代理店やスポンサーなどを相手に枕営業も存在する。
それも「こういうことも先々成功するためのチャンスなんだよ!」などと言葉巧みに大人がまだ世間を知らない子供を騙し、挙句の果てに端金しか渡さないのだ。
その端金すらもらえないかわいそうな子達もたくさん存在する。
徐如林にはアイドルが「顔を世に晒す水商売」にしか見えなかった。
そして芸能界全体が、巨大な売春組織としか思えなかった。
その悪い渦の外でゆかなをアイドル活動させるためにも「ステルス アイドル プロジェクト」は必要なものであった。
「お兄様!ゆかなはファンの方々が喜んでくれるようなアイドルになりたいのです!たくさん人気が出なくても良いのです!みんな幸せを分けるのです!」
「そうですね、ゆかな。できるところまで頑張ってみましょう。とにかく、今日は佐伯社長に『ステルス アイドル プロジェクト』を認めてもらうのが目標です。ゆかなはそのままアイドルになりたい熱意を佐伯社長に伝えてください」
「わかりましたのです!ゆかなはみんなが笑顔になれるアイドルになりたいので頑張るのです!」
どこか噛み合わない2人の会話。
徐如林は、自分とゆかなが目指しているゴールが別なものなのだということにいまさらながら気がついた。
徐如林はこの機会を大きな成功につなげようとしているのに対し、ゆかなはアイドルとして成功するというよりは温かな人との繋がりを構築していきたいように見えた。
最終目標が違えば、当然戦略的に失敗する。
途中で空中分解するのは目に見えている。
徐如林はそれに気がついたものの、本当にうまく行き始めた時に意見をすり合わせれば良いだけのことと軽く考えていた。
まだこの時点ではゆかなが日本を揺るがすようなアイドルになるとは到底思えず、徐如林自身も目標は高く掲げつつもそこまで成功するとは考えていなかった。
これが先々起こる事件の発端になるとは、まだ誰も気づいていなかった。
後々これに関して徐如林は自分の脇の甘さを猛省することになるのであった。
2人は中野駅を降りると、駅から離れたところにある雑居ビルに向かい、そのビルの地下に続く階段を降りると、「女神【チョーゼツカワイイ】プロモーション」と書かれた名札が貼ってある古びた扉の前についた。
「お兄様…アイドルの事務所なのに、何だか古い所についたのです…」
それはアイドルを夢見ていたゆかなが最初に見た現実であった。
ゆかなは悲しんでいるわけでも驚いているわけでもなかった。
小さなゆかなが呆然と扉を見上げる様子は、騙された人間が騙されたことに気がついた時にする顔そのものであった。
普段はウサギとして周りを煙に巻くゆかなではあったが、ゆかなにとって仕事の現場よりも、まだ見ぬ芸能界の方が得体のしれない世界なのであった。
「まあまあゆかな、テレビに出ている有名人を集めた芸能事務所でも、こういう感じのところなんていっぱいありますから。佐伯社長は苦労している割にはケチらず事務所を構えているだけ偉いんですよ」
「そうなのですか…ゆかなはキレイな大きいビルの中にあると思っていたのです…」
「うーん、ゆかなが一晩、仕事をすれば、そんなことは簡単なんですけどね…しかしゆかな、ゆかなの力でこの古いビルからキレイで大きいビルに事務所が引っ越せるくらい稼げば良いのです。アイドルとはビジネスなのです。私達が目標を殺し対価を得るように、ゆかなにたくさんのファンができれば自然にその対価が集まってくるでしょう」
「そうなのですか…ゆかなはそういうことは考えていなかったのです。ファンの方々に喜んで欲しいのにお金をもらうのは何だか変なのです…」
ゆかなはどことなく悲しそうな顔をすると、徐如林は優しく微笑みながら首を振った。
「いやいや、ゆかな。ゆかなのことが大好きなファンの人達は、ゆかなに頑張って欲しいからお金を払うのです。私達もお金をもらわずに頼まれるがままに仕事を繰り返すなどできないではないですか。ただそのお金を悪いことに使うのか、ファンの方々のために使うのか、それはゆかな次第なのですよ。しかしそういう話は後にしましょう。もうここは仕事の現場と同じ、今は目の前のことに集中するのです」
「わかりましたのです!今は目の前のことに集中するのです!」
「では、ゆかな、手はず通り行きましょう。これは仕事。篠宮家の威厳にかけて成功させなくてはなりません。『孫子の兵法虚実篇 進みて禦ぐ可からざるは、其の虚を衝けばなり』です。相手が油断し隙がある今こそ出陣のときです」
徐如林の作られた優しい目が、若干鋭いものに変化する。
それに呼応するようにゆかなも力強く頷くと、目の前の古い扉を叩き始めた。
「すみません!この間、スカウトしてもらった者です!佐伯社長はいらしゃいますか!」
するとゆかなのかわいらしい声に即座に反応し扉の中でドタバタ音がしたかと思うと、この間ゆかなをスカウトした男である佐伯社長が物凄い形相で中から出てきた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!良く来てくれたね!もう会えないかと思っていたよ!」
カジュアルな服装の佐伯社長は額に汗をかき顔を真赤にしながらゆかなの手を両手で強く握った。
ゆかなも佐伯社長が悪い人ではないのは分かっているのだが、どうしてもこの勢いには馴染めず怯えた様子で固まっていた。
それをにこやかに眺めていた徐如林であったが、じっくりと佐伯社長と部屋の中の様子を観察し始めていた。
「佐伯社長はじめまして。私、こういう者なのですが…」
おおよそ観察し終えた徐如林は興奮冷めやらない佐伯社長に声をかけると、全く徐如林に気がついていなかったのか佐伯社長はハッとした表情で顔を上げた。
「あ…あなたは???」
状況を把握できていない佐伯社長の様子を見て、徐如林は戦術通りにことが運んでいるなと思うのと同時に、佐伯社長から悪いものを全く感じなかったので胸をなでおろしていた。
徐如林はゆっくりと優しく微笑むと、軽くお辞儀しながら名刺を一枚差し出した。
「宝龍コーポレーション?中国の方ですか?」
佐伯社長は名刺の名前の所に「徐如林」とだけ書かれていたので、どう読むのかもわからず不安そうな顔で徐如林を見上げた。
「いいえ、私は生粋の日本人です。それは最近流行りのキラキラネームというもので『サイレント』と読みます。実は佐伯社長にご相談がございまして本日はお伺い致しました。もし少しお時間がよろしければお話させて頂けないでしょうか?きっと良いお話になると思います」
優しい笑顔で丁寧に挨拶する徐如林を見て、そろそろ頃合いだと思い熱いオーラを燃え上がらせながらゆかなは佐伯社長の目を見た。
「佐伯社長!お願いしますなのです!」
佐伯社長としては今何が起きているのか把握できなくても、ゆかなにお願いされてしまったら「うん」というしかない。
佐伯社長は少し考える間を取ったが、特にこれといったアイデアが浮かぶわけでもなかった。
「はあ…良くわかりませんが…散らかっていますが中へどうぞ…」
そうゆかなと徐如林を事務所の中に通す佐伯社長。
ゆかなと徐如林は、自然な形で佐伯社長との交渉の席につくことに成功した。
全ては徐如林の作戦通り。
まだ名前を名乗らないゆかなに不信感を抱かせない流れ。
敵の虚を突いたからこそ、徐如林にイニシアティブがある。
自然体でゆかなと徐如林は事務所の中に入るのであった。




