第6話 公爵令嬢は、育つ前から囲い込んだと言われる
エマがレインフォード公爵家の仮見習い候補として認められた翌朝、王都の空気は少しだけ変わっていた。
学園の噂が、とうとう学園の外で形を持ちはじめたのだ。
「聞いたか。 レインフォードが平民の娘を上げたらしい」
「しかも公爵令嬢自ら見出したとか」
「平民を、だぞ」
「文書補助に回すそうだ。 将来の側近候補ではないかという話まで出ている」
そんな噂は、当然のように学園へも逆流してくる。
エウラリアが教室へ入った時には、すでに空気が昨日までと違っていた。
単なる好奇心だけではない。
値踏み。
警戒。
そして、ごく一部の者が抱く焦り。
「おはようございます、エウラリア様」
「おはようございます、ミレイユ様」
挨拶を交わしながら席に着くと、ミレイユが控えめに声を潜めた。
「今朝は、令嬢方の雰囲気が少し違います」
「そのようですわね」
「昨日までは面白がっている方が多かったのですけれど……今日は少し、本気で警戒しているような」
エウラリアは首を傾げた。
「警戒、ですか」
「はい。 たとえば……平民の少女を見出して公爵家へ入れるなら、没落寸前の家の子や、立場の弱い子まで拾われるのではないか、というような」
「まあ」
エウラリアは本当に意外そうにした。
「拾われる、などと」
「ですが、そのように見えているのだと思います」
ミレイユは少しだけ苦笑した。
「わたくしも、最初はそうでしたから」
自分もまた、この人に拾われた側だった。
そう思うと、否定しきれない。
エウラリアは少しだけ考え込んでから、静かに言う。
「わたくしは、手を差し伸べたいと思っただけですのに」
「はい。 皆さまも、そこが分からないから余計に怖いのです」
怖い。
その言葉に、エウラリアは目を瞬いた。
自分が誰かを怖がらせることなど、ほとんど考えたことがなかった。
だが確かに、何も狙っていない者ほど読みにくい、というアシュレイの言葉も思い出す。
少しだけ納得しそうになった時だった。
「レインフォード様」
不意に、教室の前方から声が掛かった。
見れば、数人の令嬢がこちらを見ている。
中心にいたのは、昨日まで直接話しかけてくることのなかった、赤茶の巻き髪の令嬢だった。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
エウラリアが応じると、その令嬢はやや探るような笑みを浮かべる。
「少し伺ってもよろしいかしら」
「ええ」
「平民の見習いの件ですわ。 あれは、レインフォード公爵家として正式なお考えなのですか」
教室の空気が、ぴたりと静まった。
まっすぐな質問だった。
だが、それだけに重い。
エウラリアは少しだけ考えた。
「家として正式に決まったのは、仮見習いの機会を設けることですわ」
「つまり、見込んでおられるのですね」
「見込んでいる、という表現でよろしいのかは分かりませんけれど」
エウラリアは穏やかに答える。
「埋もれてしまうには惜しい方だと思いましたの」
その返答に、何人かの令嬢が息を呑んだ。
やはり、という反応だった。
赤茶の髪の令嬢は笑みを崩さないまま続ける。
「それは、平民であっても、ということですのね」
「もちろんですわ」
「身分に関わらず?」
「助けるかどうかを決める基準にはなりませんでしょう?」
ざわめきが広がる。
その答えは、貴族社会では綺麗事に聞こえてもおかしくない。
だが目の前の公爵令嬢は、少しも綺麗事を言っている顔をしていなかった。
本当にそう思っている顔だった。
だからこそ重い。
「……そうですの」
令嬢は一歩引いた。
だがその目には、単なる反感ではないものが宿っていた。
測りきれないものへの警戒。
あるいは、興味。
「ありがとうございました、レインフォード様」
「どういたしまして」
短いやり取りが終わったあとも、教室の空気はしばらく戻らなかった。
ミレイユが小さく息を吐く。
「今の方、たぶん様子を見に来たのだと思います」
「様子を、ですか」
「はい。 何を考えていらっしゃるのか、知りたかったのでしょう」
「わたくし、そんなに分かりにくいのでしょうか」
その問いに、ミレイユは思わず笑いそうになる。
「はい。 とても」
昼休み。
今日は珍しく、エウラリアのもとへ伝言が来た。
差出人はアシュレイだった。
「殿下が?」
「はい。 中庭の東側、古い温室の前で少し話がしたいと」
侍女見習いから伝えられ、エウラリアは目を瞬いた。
「わたくしに、ですの?」
「ほかにどなたが」
「そうですわね」
エウラリアは素直に頷き、ミレイユへ向き直る。
「少し外してまいりますわ」
「はい。 お気をつけて」
温室の前に着くと、アシュレイはすでにそこにいた。
側近の姿はない。
ひとりだけだ。
「ご機嫌よう、殿下」
「ご機嫌よう、レインフォード令嬢」
彼は少しだけ肩の力を抜いた様子で、温室脇の石柱にもたれていた。
「今日は誰も連れていらっしゃいませんのね」
「君と話すのに、余計な証人は少ない方がいい」
「まあ」
「変な意味ではない」
「まだ何も申し上げておりませんのに」
アシュレイが小さく息を吐く。
「君は本当に、無自覚に人を翻弄するな」
「そうなのですか?」
「そうだ」
きっぱりと言い切られ、エウラリアは少しだけ黙った。
アシュレイはそんな彼女を見てから、本題へ入る。
「エマの件だ」
「はい」
「君は、周囲がどう見ているかをどこまで理解している」
「かなり大ごとになっている、とは伺いましたわ」
「かなり、では済まん」
彼の声は静かだったが、軽くはなかった。
「今の王都では、武門レインフォードが平民層にまで独自の人材網を築き始めた、という話になっている」
エウラリアは目を瞬いた。
「そんなふうに、ですか」
「そんなふうに、だ。 貴族の家は、落ちた者を拾うことはある。 だがそれは縁故か、情か、打算だ。 君のように、学園で見つけて、そのまま家へ繋ぐのは異質すぎる」
エウラリアは少しだけ考え込み、それから素直に尋ねた。
「異質だと、よろしくないのでしょうか」
「よろしくない時もある」
アシュレイはまっすぐ彼女を見た。
「君は善意でやっている。 それは分かる。 だが、善意は時に権力より扱いが厄介だ」
その言葉は、以前よりもずっと踏み込んでいた。
エウラリアはその意味をゆっくり飲み込む。
「……止めた方がよいと、仰りたいのですか」
「いや」
アシュレイは首を振った。
「止めろと言っても、君は止めないだろう」
「はい」
「即答か」
「止める理由になりませんもの」
あまりにもまっすぐで、アシュレイは思わず笑ってしまった。
ほんの短く、呆れと感心の混じった笑いだった。
「そういうところだ」
「では、なぜお呼びになったのですか」
「警告と確認だ」
彼は表情を戻して続ける。
「君がこれから先も人を拾うなら、周囲はもう偶然とは見ない。 方針だと判断する」
エウラリアはそこで、初めて少しだけ困ったような顔をした。
「方針……」
「そうだ。 レインフォード公爵令嬢エウラリア・レインフォードは、見捨てられそうな者を選び、拾い、育てる。 そういう人物だと見られる」
「……事実に近いので、否定しにくいですわね」
「否定できないのか」
「できませんわ」
アシュレイはまた短く息を吐いた。
「だから厄介なんだ」
少しの沈黙のあと、エウラリアは静かに問い返す。
「殿下は、それをどう思われますの?」
「個人としてか。 王族としてか」
「両方、でしょうか」
その答えに、アシュレイはしばらく空を見た。
温室の硝子に春の光が反射している。
「個人としては」
彼はゆっくり言う。
「……嫌いではない」
エウラリアが少しだけ目を見開いた。
「王族としては、目が離せない」
「それは良い意味でしょうか」
「半々だな」
彼は苦笑する。
「君は人を拾っているつもりなのだろうが、実際には人心を集めている。 しかも貴族だけではなく、下働きや使用人、落ちかけた家の子まで」
それは、まさに今起きていることだった。
ミレイユ。
エマ。
そしてまだ名も知らぬまま、こちらを見ている多くの者たち。
「君が何も企んでいないことが、かえって厄介だ。 意図していない網ほど、警戒しにくいものはない」
エウラリアはしばらく黙った。
それから、ほんの少しだけ眉を下げる。
「わたくしは……」
「うん?」
「誰かを網にかけたいわけではございませんの」
その声音には、珍しくわずかな傷つきが混じっていた。
アシュレイはそれに気づいたのだろう。
少しだけ声音を和らげる。
「分かっている。 だからこうして直接言っている」
「……」
「誤解するな。 君を咎めたいわけではない。 ただ、自覚しておけと言っている」
エウラリアはゆっくり頷いた。
「自分が何をしているか、ですわね」
「そうだ」
「善処いたしますわ」
「それを聞くのは三度目だ」
「けれど、前よりは少し分かった気がいたしますの」
その答えに、アシュレイは興味を引かれたように目を細めた。
「何が」
「わたくしが手を差し伸べることで、相手だけではなく、周囲まで動いてしまうのだということが」
「それを理解した上で、やめるつもりは」
「ございませんわ」
即答だった。
あまりにも迷いがない。
アシュレイはついに諦めたように天を仰ぐ。
「本当に君は……」
「困っている方を見た時に、見なかったことにはできませんもの」
その返答には、家訓も、父の教えも、母の教えも滲んでいた。
守るべきものの前に退くな。
その言葉を、この少女は本当に生きているのだ。
「せめて、相談しろ」
不意にアシュレイが言った。
「え?」
「君ひとりで全部抱えるな。 拾うたびに周囲が揺れるなら、少しは事前に考える相手を持て」
エウラリアはその言葉に少し驚いたようだった。
「殿下に、ですか」
「違う」
彼は即答した。
「いや、必要ならそれでもいいが、まずは家だ。 父君、母君、兄君。 あの家は君を止めるためではなく、形にするためにいるのだろう」
それは驚くほど正確な理解だった。
エウラリアはしばらく黙り、それから小さく微笑んだ。
「……はい。 その通りですわ」
「なら、それを使え」
「使う、という言い方は少しだけ語弊がございますけれど」
「意味は分かるだろう」
「はい」
その時、温室の向こうからチャイムが鳴った。
昼休みの終わりを告げる音だ。
「お時間ですわね」
「ああ」
二人は並んで少しだけ歩き出す。
だが校舎へ戻る曲がり角で、アシュレイがふと立ち止まった。
「レインフォード令嬢」
「はい」
「今日の午後から、君を見る目はまた少し変わるぞ」
「なぜですの?」
「私が君と二人で話していたからだ」
エウラリアはそこでようやく、はっきりと困った顔をした。
「まあ……」
「今さらだな」
「そのようなことになるとは思いませんでしたの」
「だから無防備だと言っている」
アシュレイは半ば呆れたように、それでもどこか面白そうに笑った。
「せいぜい、また変な噂を立てられないよう気をつけろ」
「殿下も、ではなくて?」
「私はもう手遅れだ」
それだけ言い残し、彼は先に歩いていく。
エウラリアはその背を見送りながら、少しだけ首を傾げた。
何がどう手遅れなのか、いまひとつよく分からなかったからだ。
だが、校舎へ戻った途端、その意味は半分だけ理解できた。
何人もの視線がこちらへ向いている。
しかも今までより、ずっと熱を帯びていた。
「今、殿下と……」
「二人で?」
「何のお話を……?」
「まさか」
ざわつきの中、ミレイユがそっと額に手を当てる。
「……増えましたね」
「何がでしょう」
「噂の火種です」
エウラリアは珍しく、はっきりとため息をつきたくなった。
その日の夕方には、新しい噂がもう出来上がっていた。
レインフォード公爵令嬢は、平民を囲い込み、公爵家で育て始めた。
しかも第一王子とも密かに協議しているらしい。
武門レインフォードと王家は、水面下で何を始めようとしているのか。
もちろん、それはほとんど全部が誤解だった。
平民の少女エマは、今ごろ必死に書類の束ね方を習っているだけだ。
エウラリアもまた、帰りの馬車の中で思っていたのはひとつだけだった。
明日は、エマの様子を見に行けるかしら。
それだけである。
その日、エウラリア・レインフォードは、ただ忠告をひとつ受けただけだった。
だが周囲はそれすら、大きな意味があるものとして受け取ってしまう。
翌朝にはもう、
――レインフォード公爵令嬢は、王子とすら水面下で話を通しながら、人を集めている。
という噂が、学園中に根を張り始めていた。




