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エウラリア・レインフォードは何も企んでいない  作者: 玉響すばる


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第7話 公爵令嬢は、育てるつもりはなくても育ってしまう

 翌朝の学園は、いつも以上に視線が多かった。


 エウラリアが教室へ入る前から、すでに噂はいくつも枝分かれしていた。


 レインフォード公爵令嬢は、平民を拾って公爵家で育て始めた。


 第一王子とも水面下で話を通している。


 しかも次は、学園内の没落貴族や立場の弱い者まで囲い込むつもりらしい。


 どれもこれも、当人に言わせれば首を傾げるしかない話ばかりだった。


 だが、噂とはそういうものだ。


 誰かの善意は、別の誰かにとっては意図に見える。


 ましてエウラリアのように、立場も影響力もある者が動けばなおさらだった。


「おはようございます、エウラリア様」


「おはようございます、ミレイユ様」


 教室へ入ると、ミレイユはいつものように席で待っていた。


 その表情は落ち着いているようでいて、少しだけ困った色が混じっている。


「何かございましたか」


「……少しだけ」


 ミレイユは周囲を気にしながら、小声で続けた。


「今朝、廊下で知らない方に声を掛けられました」


「まあ」


「レインフォード様は、どなたでも拾ってくださるのですか、と」


 エウラリアは目を瞬いた。


「どなたでも、ではございませんわね」


「はい。 わたくしもそう思います」


 ミレイユは苦笑する。


「けれど、周囲にはそう見えているようです」


 それはたしかにそうだろう、とエウラリアも思った。


 ミレイユのような伯爵令嬢。


 エマのような平民の少女。


 立場も事情も違う二人に続けて手を差し伸べれば、そういう見え方にもなる。


「わたくし、少しだけ考えたのです」


 ミレイユが言う。


「エウラリア様は、弱い方を助けているのではなくて、落ちていく方を見過ごせないのではありませんか」


 エウラリアは少しだけ黙った。


 それはかなり正確だったからだ。


「……そうかもしれませんわね」


「やはり」


「弱いかどうかは、あまり考えておりませんの。 ただ、このままでは駄目だと思った時に、手を伸ばしてしまうのでしょう」


 ミレイユは静かに頷いた。


 その答えを聞いて、かえって納得したようだった。


 この人は最初から、哀れんでいたのではない。


 落ちていくものを、そのまま落としたくなかっただけなのだ。


 午前の講義が終わる頃、教室の空気は少しずつ緩み始めた。


 だが昼休みに入ると、また別のざわめきが立った。


 今度は、教室の入口に立つひとりの男子生徒が原因だった。


 同学年の制服を着ている。


 だが立ち姿に少しだけ周囲との距離があった。


 癖のある黒髪。


 目つきは鋭く、整った顔立ちも愛想のなさでかなり損をしている。


 それでもただ者ではないと分かる気配があった。


「あの人……」


 ミレイユが小さく呟く。


「ご存じですの?」


「はい。 たしか特待で入った方です。 剣の成績がずば抜けているとか」


 その男子生徒はまっすぐエウラリアの方へ歩いてきた。


 周囲の空気が一瞬で張る。


 誰もが、何か面倒が起きる予感を抱いた。


「レインフォード公爵令嬢」


 呼び方は無礼ではない。


 だが親しみもない。


「はい」


 エウラリアは穏やかに応じた。


 男子生徒は数秒だけ彼女を見てから、低い声で言う。


「礼を言いに来たわけじゃない」


「そうですの」


「だが、ひとつだけ確認したい」


「何をでしょう」


「平民でも拾うという噂は本当か」


 教室が静まり返る。


 あまりにも直截な問いだった。


 ミレイユが思わず息を止める。


 だがエウラリアはほとんど表情を変えなかった。


「拾う、という表現はあまり好みではございませんけれど」


「否定はしないんだな」


「必要なら手を差し伸べることはございますわ」


 男子生徒の目が、ほんの少しだけ細くなる。


「必要なら、か」


「ええ」


「基準は何だ」


 それは、かなり本質に近い問いだった。


 エウラリアは少しだけ考え、それから静かに答える。


「埋もれてしまうには惜しいかどうか、でしょうか」


 男子生徒は黙った。


 周囲も黙った。


 その答えが予想外だったからだ。


 情でも、身分でも、損得でもない。


 惜しいかどうか。


 あまりにもエウラリアらしい基準だった。


「そうか」


 男子生徒は短く言う。


「なら、俺は違うな」


 そう言って踵を返しかけた、その瞬間だった。


「剣がお強いのでしょう?」


 エウラリアが自然に声を掛ける。


 男子生徒がぴたりと止まる。


 教室中の視線がさらに集まった。


「……誰から聞いた」


「ミレイユ様からですわ」


 突然名を出され、ミレイユが肩を震わせる。


 男子生徒は無言でミレイユを見たが、すぐに視線を戻した。


「それが何だ」


「惜しい方なのだろうと思いましたの」


 今度こそ、教室の空気が固まった。


 エウラリアは本当に、そういうことを言ってしまう。


 本人は何でもない顔で。


 相手が一番揺れる言葉を。


「……会ったばかりだろう」


「はい」


「それで分かるのか」


「全部は分かりませんわ」


 エウラリアは穏やかに言った。


「けれど、教室へ入る時に誰とも目を合わせず、まっすぐこちらへいらっしゃったでしょう?」


「……」


「礼を言いに来たわけではない、と最初に仰ったのも、借りを作りたくないからではなくて、変に期待を持たせたくなかったからではなくて?」


 男子生徒の目が、はっきりと揺れた。


 そこまで見抜かれるとは思っていなかったのだろう。


「あなたはたぶん、不器用なだけですわ」


 エウラリアは静かに結論づける。


「そのような方ほど、周囲には誤解されやすいのではなくて?」


 男子生徒は、しばらく何も言わなかった。


 ミレイユは胸の内で思う。


 ああ、まただ。


 この人はまた、本人すら言語化できていないところを見つけてしまった。


 だから人が落ちる。


 好きとか嫌いとか、そういう前に。


 理解された、と思わされてしまう。


「……名前を聞いても」


 男子生徒がようやく口を開く。


「まあ」


 エウラリアは少し嬉しそうにした。


「エウラリア・レインフォードですわ」


「それは知ってる」


「そうでしたわね」


 ごく自然に返され、男子生徒はほんの少しだけ毒気を抜かれた顔になった。


「お前のじゃない。 俺のを聞いても、って意味だ」


「失礼いたしました」


 エウラリアは素直に詫びる。


「ぜひ伺いたいですわ」


「リオン・ヴァルツ」


「リオン様」


 その名を丁寧に呼ばれた瞬間、リオンの眉がわずかに動いた。


 平民や特待の生徒を、令嬢たちは名前で呼ばないことも多い。


 まして、あのエウラリア・レインフォードが。


「覚えましたわ」


「……そうか」


 それだけ言って、彼は今度こそ背を向けた。


 だが先ほどまでとは違う。


 教室を出る足取りには、少しだけ迷いが減っていた。


 ざわめきは、彼が去ったあと一気に戻った。


「今の、何ですの……?」


「ヴァルツって、特待生の?」


「レインフォード様が名前を……」


「また……」


 また、である。


 また何かが起きた。


 また誰かが目を向けた。


 また話が広がる。


 ミレイユは額に手を当てたくなった。


 エウラリアはといえば、不思議そうに首を傾げるばかりだった。


「わたくし、何かいたしましたかしら」


「……かなり」


 ミレイユは小さく答える。


「しかも無自覚に」


 昼休みのあと。


 当然のようにその件は学園中に広がった。


 レインフォード公爵令嬢が、今度は特待生の男子にまで声を掛けた。


 しかも名前を呼んだ。


 しかも一目で本質を見抜いたらしい。


 話は瞬く間に膨らみ、夕方には「武門レインフォードが剣の才ある平民男子にまで目を付けた」という噂に変わっていた。


 その日の放課後。


 エウラリアは屋敷の使用人棟へ向かった。


 もちろん、エマの様子を見るためである。


 侍女頭の許可を得て、文書補助の初歩を学んでいる部屋の前まで行くと、中からエマの声が聞こえてきた。


「こちらを先にまとめて、次に印を揃えて……」


 昨日より、ずっと落ち着いた声だった。


 扉の隙間から見える横顔も、まだ緊張はしているが、潰れそうな色はない。


 エウラリアはほっと息をつく。


 その時だった。


「姉上!」


 軽い足音とともに、セドリックが駆けてきた。


「しっ。 今はお仕事中ですわ」


「ごめん」


 小声になった弟は、それでも目を輝かせていた。


「ねえ、あの子すごいよ。 文書係の人が、覚えが早いって褒めてた」


「そうでしょう?」


「うん。 姉上、やっぱり見る目あるよね」


 その素直な賞賛に、エウラリアは少しだけ笑う。


「どうでしょう。 ただ、惜しいと思っただけですわ」


「それが見る目って言うんじゃないの?」


 セドリックの率直さに、エウラリアは答えに詰まった。


 そこへ、後ろからヴィオレッタの声が届く。


「その通りよ」


 振り向くと、母が静かに立っていた。


「お母様」


「エマの様子を見に来たのでしょう?」


「はい」


 ヴィオレッタは娘の隣に立ち、扉の向こうをそっと見やる。


「いい顔をするようになってきたわね」


「ええ」


「まだ怯えは残っているけれど、昨日とは違う。 あの子、自分がここにいてよいのか、少しずつ信じ始めているのだわ」


 その言葉に、エウラリアは小さく頷く。


 それが何より大きいのだ。


 技術はこれからでも身につく。


 けれど、自分がここにいてよいと思えなければ、人は育たない。


「エウラリア」


「はい」


「今日、また誰かと話したでしょう」


 あまりにも自然に言われ、エウラリアは目を瞬いた。


「……なぜ分かりますの?」


「顔を見れば分かるわ」


 ヴィオレッタはやわらかく笑う。


「ひとり増えた時の顔ですもの」


 その表現に、セドリックが吹き出しそうになる。


 エウラリアは少しだけ困った顔をした。


「増えた、とは」


「あなたが気に掛ける相手が増えた、という意味よ」


 図星だった。


 今日のリオン・ヴァルツのことが、少しだけ頭に残っていたからだ。


 ヴィオレッタは娘の横顔を見て、静かに続ける。


「気に掛けるのは構わないわ。 けれど、今度は少し慎重になさい」


「慎重に、ですか」


「ええ。 あなたは相手の核を見つけるのが早すぎるの。 それは美点だけれど、相手によっては逃げ場をなくすわ」


 エウラリアはその言葉を真面目に受け止めた。


 たしかに、今日のリオンの目はかなり揺れていた。


 あれは良いことばかりではなかったかもしれない。


「……気をつけますわ」


「そうなさい」


 ヴィオレッタは娘の頭をそっと撫でるように視線を落とし、それからくすりと笑った。


「でも、もう遅いかもしれないけれど」


「お母様?」


「あなた、あの特待生の子にも、きっともう忘れられないわよ」


 その断言に、エウラリアは本当に不思議そうな顔をした。


 自分はただ、思ったことを言っただけだ。


 けれど周囲は、だいたいそういう時に限って大きく動いてしまう。


 その夜。


 学園の男子寮の一室で、リオン・ヴァルツは自室の机に肘をつき、昼間のことを思い出していた。


 不器用なだけ。


 誤解されやすい。


 惜しい方。


 そんな言葉を、あの公爵令嬢は何でもない顔で言った。


 腹が立つほど、まっすぐだった。


 そして腹が立つほど、間違っていなかった。


「……何なんだ、あいつ」


 吐き出した声は、驚くほど弱かった。


 その日のエウラリア・レインフォードは、平民の少女の成長を見守り、特待生の少年と言葉を交わしただけだった。


 だが周囲は、それをただでは終わらせない。


 翌朝にはもう、


 ――レインフォード公爵令嬢は、平民の少女だけでなく、剣の才ある特待生にまで目を付けた。


 という新しい噂が、学園中へ広がり始めていた。

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