第5話 公爵令嬢は、試す場にも立ち会う
エマがレインフォード公爵家の仮見習いを望んだという話は、その日のうちに屋敷へ届いた。
もっとも、それはまだ決定ではない。
あくまで、道がひとつ開いたにすぎない。
だがエウラリアにとっては、それで十分大きな前進だった。
翌日の学園でも、その話題は消えていなかった。
「やはり本当でしたのね」
「平民を公爵家へ、ですって」
「見習いとはいえ、前代未聞ではなくて?」
「レインフォード公爵令嬢は、いったい何をお考えなのかしら」
教室のあちこちで声がひそめられる。
けれど、噂の中心にいる本人は、今日も落ち着いたものだった。
エウラリアは席に着くなり、ミレイユへやわらかく微笑む。
「おはようございます、ミレイユ様」
「おはようございます、エウラリア様」
ミレイユはそれに挨拶を返しながら、少しだけためらうように言った。
「……エマさん、決められたのですね」
「はい。 まだ仮見習いですけれど」
「それでも、すごいことです」
ミレイユはそう言ってから、自分の指先を見つめた。
「たった数日で、あの方の人生が変わってしまうのですね」
その言葉に、エウラリアはほんの少し考えるような顔をした。
「変わる、のでしょうか」
「え?」
「わたくしは、道が増えただけだと思っておりますの」
ミレイユは目を瞬く。
やはりこの人は、こうなのだ。
相手の人生を大きく動かしておきながら、本人の感覚はあくまで「選択肢を増やした」程度に留まっている。
だからこそ、していることが余計に大きく見える。
「エウラリア様らしいです」
「そうでしょうか」
「はい。 とても」
講義が始まると、ひとまず噂話は途切れた。
だが昼休み前になると、再び空気がざわつき始める。
今日は別の理由だった。
エマの仮見習いの話が、すでに使用人たちの間にも伝わっていたのだ。
廊下を歩いているだけで、視線の質が変わっているのが分かる。
好奇心。
警戒。
驚き。
そしてごくわずかな、期待。
学園の下働きや雑用を担う者たちにとって、平民の少女が名門公爵家の見習い候補になるなど、夢物語に近い。
だからこそ、現実味がない。
だからこそ、皆が見ている。
エウラリアはその視線に気づいても、特に何も言わなかった。
ただ昼休みになり、侍女見習いからひとつの伝言を受け取った時だけ、少し表情を和らげた。
「お屋敷からですか」
「はい、エウラリア様。 本日、エマの簡易適性確認をなさるとのことです」
「今日のうちに?」
「はい。 旦那様が、早い方がよいと」
それはたしかにアルベルトらしい判断だった。
見込んだなら、無駄に引き延ばさない。
だが情だけで決めもしない。
試すべきところは、すぐ試す。
「そうですか」
エウラリアは小さく頷いた。
「では放課後、わたくしも立ち会えますかしら」
「旦那様は、エウラリア様が過度に口を出さないなら構わないと」
「……お父様らしいお言葉ですわね」
その返答に、侍女見習いが少しだけ笑う。
ミレイユが控えめに尋ねた。
「適性確認、とは何をなさるのですか」
「おそらく、文書整理や物品管理、指示理解などだと思いますわ」
エウラリアは静かに答える。
「レインフォード家は、拾った者をそのまま内側へ入れることはいたしませんの。 まず、その方がどこで立てるかを見ます」
ミレイユはその言葉に、胸の内で少し安堵した。
ただ情で抱え込むのではない。
ちゃんと立てるように整える。
だからこの家は強いのだろう。
放課後。
レインフォード公爵家の屋敷の一角、使用人棟に近い実務室で、エマは緊張のあまり背筋を固くして立っていた。
目の前には家令、壮年の侍女頭、文書係の補佐役、そして少し離れた場所にアルベルトとヴィオレッタ。
オルディアンも壁際で腕を組んでいる。
セドリックは来たがったが、今日はまだ早いと止められた。
エウラリアは母の隣に立ち、ただ静かに見守っていた。
エマの手は、わずかに震えている。
それでも逃げ出さなかった。
家令が淡々と口を開く。
「エマ。 本日は仮見習い適性の確認を行います。 難しいことはいたしません。 ただし、ここでは誰もあなたを哀れみません」
エマの肩がぴくりと揺れた。
「できることはできる、できないことはできないと見ます。 その上で、どこに置くのが最もよいか判断します」
「……はい」
「緊張しているようですが、それ自体は問題ではありません。 緊張の中で、どこまで崩れないかを見ます」
「はい……!」
最初の課題は、文書整理だった。
三十枚ほどの帳票と、数冊の小型台帳。
順番を崩した状態で置かれたそれを、見本に合わせて並べ直す。
制限時間もある。
エマは机の前に立ち、深く息を吸った。
そして手を伸ばす。
最初の数枚で、すでに違いは見えた。
ただ慌てて掴まない。
紙質、端の折れ、紐の癖、記号の位置。
それらを見て、元のまとまりを拾っていく。
エウラリアはそれを見て、小さく安堵する。
やはり、自分の見立ては間違っていなかった。
オルディアンがそれに気づいたのか、視線だけで妹を制した。
口を挟むな、と。
エウラリアは素直に口を閉じる。
数分後。
家令が並びを確認し、ひとつ頷いた。
「速いですね」
文書係の補佐役が感心したように言う。
「しかも、帳票ごとの束を癖で見ています」
エマは自分が褒められているのか分からないような顔をした。
だが次の課題はさらに難しかった。
侍女頭が、テーブルに七種類の小物を並べる。
封蝋、蝋燭、鍵、リボン、糸切り鋏、手帳、小さな銀鈴。
「これを一度見て覚えなさい」
「……はい」
「では、こちらを向いて」
エマが振り向く間に配置が変わる。
「何がどう変わったか、答えてください」
エマは一瞬だけ目を見開いた。
そして、視線を並びへ戻す。
「……銀鈴が右端から左へ移っております。 糸切り鋏が手帳の上から横へ移って、蝋燭が一本減っています」
侍女頭が目を細めた。
「よく見ていますね」
エマは息を呑み、かすかにうつむく。
褒められるたびに、まだ信じられないのだろう。
ヴィオレッタが静かに微笑んだ。
アルベルトは黙ったまま、だが確実に見ている。
三つ目の課題は口頭指示だった。
家令が一度だけ、早口ではないが情報量の多い指示を出す。
「東棟二階の文書室へ行き、青の背表紙の帳簿を二冊、白封筒を三通、封蝋箱をひとつ持ってきなさい。 ただし、帳簿は大きいものではなく中型。 白封筒は机上のものではなく、引き出しの二段目のものです」
エマは緊張しながらも頷いた。
「はい」
そして戻ってきた時、手にしていたのは正しい品だった。
家令がようやく、はっきりと評価の色を見せる。
「なるほど」
オルディアンが腕を組んだまま低く言う。
「文書系と補助系の適性が高いな」
文書係補佐も頷いた。
「記録、整理、補助連携に向いています。 人の指示を聞き取って崩さない」
侍女頭はそこへ少し違う角度から言葉を足す。
「人の顔色もよく見ていますね。 怯えすぎると弱点ですが、補佐役としては長所にもなります」
エマは、自分のことを話されているのに、まるで他人事のような顔で聞いていた。
理解が追いついていないのだ。
アルベルトがそこで初めて口を開いた。
「エマ」
「は、はいっ!」
「問う。 なぜ、お前はここへ来たいと思った」
部屋の空気が変わる。
これは技量を見る問いではない。
本人の芯を見る問いだ。
エマは怯えたようにアルベルトを見る。
だが、その眼差しには軽蔑も憐れみもなかった。
ただ、見極める者の目があるだけだった。
「……いまの場所に、いたくないから、では駄目でしょうか」
小さな声だった。
けれど、嘘ではない。
アルベルトは即答しない。
「半分だな」
エマの肩が強張る。
「逃げたいだけの者は続かん。 だが、逃げたいと思うほどの場所から離れる判断自体は間違いではない」
低く重い声が落ちる。
「もう半分を言え」
エマの唇が震えた。
しばらく黙り込み、何度か息を吸って、ようやく声を絞り出す。
「……あのまま終わりたく、なかったです」
エウラリアが、ほんのわずかに目を見開く。
エマは続けた。
「わたしは、誰にも見えていないと思っていました。 失敗しないようにして、怒られないようにして、それで終わるものだと」
涙をこらえながら、それでも言葉を紡ぐ。
「でも、レインフォード様は見てくださいました。 だったら、終わりたくないと思いました」
沈黙が落ちる。
ヴィオレッタは静かに目を伏せた。
オルディアンは何も言わない。
家令も侍女頭も、口を挟まなかった。
アルベルトだけが、まっすぐエマを見て言う。
「よろしい」
その一言で、場が動いた。
「見習い候補として受け入れる。 まずは文書補助と侍女補佐の基礎からだ。 ただし、甘やかしはない」
「……はい!」
「泣くな」
「っ、はい……!」
もう泣いている。
だが、その声は昨日までのものとは違った。
潰れそうな者の声ではない。
怖くても前へ出ると決めた者の声だ。
エウラリアはそこで初めて、ほっと息をついた。
ヴィオレッタが小さく囁く。
「口は出しませんでしたわね」
「……我慢いたしました」
「えらいわ」
そのやり取りに、オルディアンがわずかに口元を緩める。
アルベルトは娘の方を見ずに言った。
「見立ては悪くなかった」
それだけだった。
だがエウラリアにとっては十分だった。
「ありがとうございます、お父様」
エマはまだ夢の中にいるような顔で立っていた。
侍女頭が近づき、実務的な声で告げる。
「泣いている暇はありませんよ。 今日から覚えることが山ほどあります」
「は、はい……!」
「返事はよろしい。 ではまず、歩き方からです」
「歩き方、ですか……!?」
その反応に、部屋の空気が少しだけやわらいだ。
ヴィオレッタが静かに笑う。
「そう。 この家では、書類を持つ手も、扉を叩く指先も見られますのよ」
エマは真っ青になりながらも、必死に頷いた。
エウラリアはその姿を見て思う。
きっと大丈夫だ。
怖がりながらでも、この子は崩れない。
その日の夜には、噂はまた新しい形になっていた。
レインフォード公爵家は、平民の少女を正式に選抜したらしい。
いや、もう公爵令嬢の近くに置くらしい。
文書補助として育てるらしい。
将来の側近候補ではないか。
噂は相変わらず勝手に膨らんでいく。
だが、その中心にいる当人は、自室へ戻る前に、使用人棟の廊下で足を止めていた。
新しい部屋へ案内されるエマが、何度も後ろを振り返っていたからだ。
「エマ」
「は、はいっ」
「本日はよく頑張られましたわ」
エマの目がまた潤む。
「……ありがとうございます」
「お礼は不要ですの。 あなたが自分で掴んだ道ですもの」
その言葉に、エマは今度こそ深く頭を下げた。
それはもう、昨日までの怯えた礼ではなかった。
まだ未熟で、震えていて、けれど確かに前を向いた礼だった。
その日、エウラリア・レインフォードは、拾った相手が立ち上がるところまで見届けただけだった。
けれど周囲は、それをそんなふうには見ない。
翌朝には、
――レインフォード公爵令嬢が見出した平民少女が、公爵家の育成枠に入った。
という噂が、王都の社交界にまで届き始めていた。




