第4話 公爵家は、拾われた者を試す
翌朝。
エウラリアが学園へ向かうより早く、レインフォード公爵家の屋敷では、すでにひとつの話題が食卓に上っていた。
「平民の少女を、公爵家の見習いに、か」
低く落ち着いた声でそう言ったのは、レインフォード公爵アルベルトだった。
壮年の武人らしい厳めしい顔立ちに、朝の光が淡く差している。
彼は新聞も報告書も持っていなかったが、昨夜のうちに概要は聞かされていた。
向かいには公爵夫人ヴィオレッタ。
その隣には長兄オルディアン。
少し離れて末弟セドリックも座っている。
そして話題の中心であるエウラリア本人は、紅茶の湯気の向こうで、不思議そうに瞬きをしていた。
「お父様。 そのように仰ると、まるで決まったことのようですわ」
「お前がその気でないと言うのなら、話は終わる」
「その気がないわけではございませんの」
エウラリアは素直に答えた。
「あのまま学園で雑に扱われ、潰れてしまうには惜しい方だと思いましたの」
セドリックがぱっと顔を上げる。
「姉上、また見つけたんだね」
「見つけた、というほどではありませんわ。 エマは最初からそこにおりましたもの」
その言い方に、ヴィオレッタが小さく笑う。
オルディアンは額を押さえた。
「お前は昔からそうだ。 見えていなかったものを、最初からそこにあったような顔で拾う」
「そこにあったのでしょう?」
「そこが問題なんだ」
兄のいつもの調子に、セドリックがくすくすと笑う。
アルベルトは黙ったまま娘を見ていた。
その沈黙に、食卓の空気が自然と整う。
「エウラリア」
「はい、お父様」
「その少女を拾いたい理由を三つ言え」
問いは短く、鋭い。
だがエウラリアは慌てなかった。
少しだけ考え、それから静かに答える。
「第一に、よく見て、よく覚えていらっしゃる方です。 雑務の中でも順序を崩さず戻せるのは才だと思いましたの」
「次」
「第二に、叱責されても手が止まりませんでした。 怯えても仕事を投げないのは、根が折れていない証ですわ」
「最後だ」
「第三に」
エウラリアはまっすぐ父を見た。
「今のままでは、その二つが無駄になります」
食卓が静まる。
ヴィオレッタが目を細めた。
オルディアンは妹の答えを聞き、少しだけ視線を伏せる。
セドリックは何だか嬉しそうな顔をしていた。
アルベルトだけが、変わらぬ表情で言う。
「情ではなく、見立てで語ったな」
「情もございますわ」
エウラリアは素直に続ける。
「けれど、情だけで家に入れるのは違うと思いましたの」
その言葉に、ヴィオレッタがそっと茶器を置いた。
「よく言えました」
アルベルトは短く息を吐く。
それがこの場では、かなり前向きな反応だった。
「拾うのは構わん」
低い声が落ちる。
「だが、レインフォードは保護小屋ではない。 入れるなら試す。 働けるか、学べるか、立てるかを見る」
「はい」
「それでも拾うか」
「はい」
即答だった。
アルベルトは娘を見て、それからわずかに口元を緩めた。
「ならば家令に回せ。 身元確認の上で、見習いとしての適性を見せる」
セドリックが嬉しそうに身を乗り出す。
「じゃあ姉上、その子ほんとに来るかもしれないんだ」
「まだ決まってはおりませんわ」
「でも道はできたんでしょう?」
「……そうですわね」
ヴィオレッタはそんな兄妹を見ながら、やわらかく口を挟んだ。
「エウラリア。 大切なのは、救って終わりにしないことよ」
「はい」
「その子がこの家で立てるようにして差し上げなさい。 あなたの善意にしがみつかせるのではなく、自分の足で立てるように」
「承知しておりますわ」
オルディアンがそこで、ようやく現実的な話を口にした。
「問題は学園側だ。 使用人見習いをそのまま引き抜く形になれば、話が面倒になる」
「引き抜く、ではございませんわ」
「お前はそう思っていても、周囲はそう見ない」
「またそれですの」
「またそれだ」
兄妹の応酬に、セドリックがくすくすと笑う。
アルベルトは席を立ちながら言った。
「オルディアン。 学園側との筋は通せ」
「承知しました」
「ヴィオレッタ。 家の中での受け皿は任せる」
「ええ」
「エウラリア」
父に呼ばれ、彼女は顔を上げる。
「拾った以上は最後まで見る。 中途半端は許さん」
「はい、お父様」
その返答に、アルベルトはそれ以上何も言わず、食堂を後にした。
残された空気が、ようやく少しだけ緩む。
セドリックはすぐに身を乗り出した。
「姉上、その子ってどんな子なの」
「エマと申しますの。 とてもよく見ていらっしゃる方ですわ」
「優しい?」
「優しいかどうかは、まだ分かりませんわね」
「姉上でも分からないことあるんだ」
「ありますわ」
エウラリアは本当に不思議そうにした。
「優しい方かどうかは、少し時間をかけて見なければ」
ヴィオレッタがその言葉に満足そうに頷く。
オルディアンは椅子にもたれ、淡々と告げた。
「今日の放課後、学園側の責任者と話をつける。 本人が望むなら、まず短期の仮見習いだ」
「仮見習い」
「いきなり家の中に深く入れるわけにはいかない。 厨房補助か、文書整理か、侍女見習い補佐か。 適性を見て決める」
「では、やはり試すのですね」
「当然だ」
兄はそう言ってから、少しだけ視線を和らげる。
「だが、お前の見立ては信じている」
エウラリアはほんの少しだけ目を見開いた。
オルディアンはこういう時、滅多に甘いことを言わない。
「ありがとうございます」
「礼は早い。 外した時が面倒だから、当て続けろ」
「兄上、それ褒めてないよね」
「褒めていない」
食卓に、ようやく自然な笑いが落ちた。
その日の学園では、当然のように新しい噂が生まれていた。
レインフォード公爵令嬢が平民を引き取るらしい。
いや、もう家の方で話が通ったらしい。
第一王子が黙認したらしい。
ヴァルンハイム伯爵令嬢に続き、平民の使用人見習いまで囲い込むつもりだ。
話は例によって、勝手に大きくなっている。
エウラリアが教室へ入ると、何人かの令嬢が露骨に会話を止めた。
ミレイユはすでに席に着いていたが、その顔には心配が浮かんでいる。
「おはようございます、エウラリア様」
「おはようございます、ミレイユ様」
「……昨夜のうちに、さらに噂が広がってしまったようです」
「そうなのですか」
「はい。 もう学園の外にも届いているかもしれません」
エウラリアは少しだけ考えた。
「では、余計にきちんとした形を取らなくてはなりませんわね」
ミレイユは瞬きをする。
「きちんとした形、ですか」
「ええ。 エマにとって不利な形では困りますもの」
その返答に、ミレイユはほんの少しだけ笑ってしまった。
やはりこの人はそうなのだ。
噂の大きさより先に、当人が困るかどうかを考える。
「エウラリア様は……やはり、変わっていらっしゃいます」
「そうでしょうか」
「はい。 とても」
だが、その「変わっている」は悪い意味ではなかった。
むしろ、救われた側にとっては、何よりありがたい異常さだ。
昼休み前。
エウラリアは呼び出しを受けた。
向かった先は学園の応接室だった。
中には、学園の事務責任者である中年の文官風の男と、昨日の女使用人、そしてアシュレイがいた。
さらに少し遅れて、オルディアンまで入ってくる。
「兄上?」
「話が学園の運営に関わるなら、家の者が出るのは当然だ」
エウラリアは少しだけ納得した。
アシュレイがそのやり取りを見て、小さく息を吐く。
「本当に来たな、レインフォード次期公爵」
「来いと言ったのはそちらでしょう、殿下」
「そうだが、もう少し穏便に済ませる道はなかったのか」
「それはうちの妹に言ってください」
「言った」
「でしょうね」
兄と王子のやり取りは、妙に息が合っていた。
事務責任者が咳払いをひとつする。
「本日は、学園の使用人見習いエマの処遇について、確認をと思いまして」
エウラリアは背筋を伸ばした。
「わたくしとしては、本人が望むならば、レインフォード公爵家で仮見習いとして受け入れる道を考えております」
事務責任者がわずかに目を見開く。
昨日の噂の段階ではなく、正式な言葉としてそれを口にしたのだ。
「理由を伺っても?」
「才能が埋もれるのは惜しいからですわ」
あまりにも飾りのない答えに、場の数人が一瞬言葉を失う。
オルディアンが静かに補足した。
「家としては、情だけで入れるつもりはありません。 身元確認、適性確認、短期見習い。 その上で本人の意思を確認します」
「つまり、正式雇用ではなく」
「現段階では候補です」
アシュレイがそこで口を挟む。
「学園側の面子も潰さず、本人の道も閉ざさない。 その形なら妥当だろう」
事務責任者は何度か頷いた。
「エマ本人の意向が最優先になりますが……」
「もちろんですわ」
エウラリアは即答する。
「望まぬ道を押しつけるつもりはございませんの」
その言葉に、アシュレイがちらりと彼女を見る。
こういうところだけは、本当に筋が通っている。
だから厄介で、同時に否定しづらい。
話し合いののち、結論は出た。
エマ本人が望むなら、休暇期間を利用し、レインフォード公爵家で短期の仮見習いを行う。
評価がよければ正式見習いの話へ進む。
学園側の記録にも、それは「推薦付き実務見習い」として残る。
応接室を出たあと、オルディアンは妹へ目を向けた。
「ほらな。 きちんと筋を通せば、話は形になる」
「はい。 ありがとうございます、兄上」
「礼は早い。 本人が望むかどうかはまだ別だ」
「……そうですわね」
そこで初めて、エウラリアの表情に少しだけ不安が差した。
彼女は自分が望むことを押しつけたいわけではない。
あくまで道を示したいだけだ。
だが、相手がその道を怖がることもある。
アシュレイはそんな彼女を見て、わずかに口元を緩めた。
「君でも、そういう顔はするのだな」
「どういう顔でしょう」
「少しだけ、相手の返答を恐れている顔だ」
エウラリアは目を瞬く。
「……分かりますの?」
「分かる。 君は自分のことには鈍いが、他人のことには敏い。 だから逆に、相手に委ねた時だけ少し弱い」
その指摘に、エウラリアは珍しく言葉を失った。
オルディアンが低く言う。
「殿下。 うちの妹をあまり正確に分析しないでいただけますか」
「事実だろう」
「それが面倒なのです」
兄の即答に、アシュレイは少しだけ笑った。
その日の放課後。
東屋ではなく、静かな応接室の一角にエマが呼ばれた。
目の前にはエウラリア。
その隣にはヴィオレッタ付きの侍女がひとり。
少し離れてミレイユも座っている。
エマは緊張で真っ青だった。
「本日はお呼び立てしてごめんなさいね」
「い、いえ……!」
「怖がらなくてよろしいのよ」
エウラリアはやわらかく言った。
「今日は、あなたに選んでいただくためのお話ですわ」
エマはその言葉に、そろそろ慣れ始めたはずの胸の痛みを、また強く感じる。
この人はいつもそうだ。
助けると言いながら、最後は自分に選ばせる。
そこが、ありがたくて、恐ろしい。
エウラリアは丁寧に、学園側と家側で話がついた内容を説明した。
短期の仮見習い。
身元確認。
適性確認。
正式な採用ではないこと。
嫌なら断ってよいこと。
すべて話し終えたあとで、彼女は静かに言った。
「エマ。 これはお願いではありませんの」
「……え」
「恩返しでも、忠誠でもなくてよいのです」
エウラリアはまっすぐ彼女を見た。
「あなたが、今よりよい場所で働けるかもしれないと思ったから、道をお見せしただけですわ」
エマの目に涙が滲む。
まただ。
またこの人は、自分が縋りつきたくなる言葉を、そんな顔もせずに言ってしまう。
「……わたし、でも」
「はい」
「ちゃんと、できるか分かりません」
「分からなくて当然でしょう?」
エウラリアは優しく答えた。
「ですから、最初から試すのですわ」
その言葉に、エマはとうとう泣きながら笑った。
怖い。
でも、行きたい。
今のまま潰れていくのは、たぶんもっと怖い。
「……やって、みたいです」
小さな声だった。
けれど、たしかに自分の意思で言った声だった。
エウラリアは、心から安心したように微笑んだ。
「それはよかったですわ」
ミレイユはその光景を見て、静かに胸の奥で思う。
ああ、やっぱりこの人は、拾うだけではないのだ。
ちゃんと相手が歩き出すところまで見ている。
だから皆、落ちてしまう。
その日の夕方には、噂はまたひとつ形を変えていた。
レインフォード公爵家が、ついに平民の少女を実務見習いとして迎えるらしい。
しかもそれは公爵令嬢エウラリア自ら見出した者だとか。
伯爵令嬢に続き、平民まで拾い、公爵家の人材へ変えていく。
あの令嬢はいったい何を作ろうとしているのか。
もちろん、その答えを知る者はほとんどいない。
当の本人だけは、帰りの馬車の中で、ただ静かに窓の外を見ながら思っていた。
これで少しは、エマが安心して働けるかもしれない。
それだけだった。
その日、エウラリア・レインフォードは、拾った相手に道をひとつ増やしただけだった。
だが周囲は、そうは受け取らない。
翌朝にはもう、
――レインフォード公爵令嬢が、平民を自ら選抜し、公爵家の実務人材へ組み込んだ。
という噂が、王都の貴族街にまで流れ始めていた。




