第2話 公爵令嬢は、落とした順番まで覚えている
翌朝の王立エーデルシュタイン学園は、どこか落ち着かなかった。
入学直後らしい華やいだ空気はある。
けれどそれ以上に、昨日ひとつ落とされた小石が、池の水面に波紋を広げ続けているようなざわつきがあった。
「聞きまして?」
「ええ、昨日の回廊でのことですわよね」
「レインフォード公爵令嬢がヴァルンハイム伯爵令嬢を庇ったとか」
「しかも、その場で相手を退けたそうですわ」
「武門のレインフォードですもの……やはり何か意味がございますのかしら」
その噂の中心にいる当人はといえば、そんな声が飛び交っていることなど気にも留めず、正門から校舎へ向かう石畳の上を静かに歩いていた。
エウラリア・レインフォード。
名門レインフォード公爵家の令嬢。
父から剣と覚悟を、母から品格と人を見る目を教わって育った少女は、今日も変わらず穏やかな顔をしている。
その足が、ふと止まった。
「エウラリア様?」
後ろに控えていた侍女見習いが、不思議そうに声をかける。
エウラリアは花壇の縁へ歩み寄り、風に折られたらしい白い小花を見下ろしていた。
「踏まれてしまいそうですわね」
しゃがみ込み、そっと拾い上げる。
茎は折れていたが、花弁はまだ綺麗なままだった。
「せめて、これ以上傷まない場所へ」
彼女は花壇の石縁の上に、その花を静かに置き直した。
たったそれだけのことだった。
だが少し離れた場所でその様子を見ていた令嬢たちは、感嘆したように小声を漏らす。
「まあ……」
「お花にまで」
「なんてお優しいのかしら」
エウラリアは何も聞いていない。
というより、聞こえていたとしても、きっと同じことをしただろう。
母ヴィオレッタはよく言っていた。
――小さく踏まれるものを見過ごす癖は、やがて大切なものを見落とす癖になりますよ。
父アルベルトはこう言った。
――守るべきものの前に、退くな。
エウラリアにとって、それは特別な教えではない。
朝に起きて、身支度を整え、学園へ向かうのと同じくらい自然なことだった。
校舎へ入ると、昨日より明らかに視線が多い。
それでもエウラリアは歩調を変えない。
ただ教室へ向かい、扉の前で立ち尽くしている見覚えのある少女へ声を掛けた。
「ミレイユ様。 おはようございます」
「……あ、おはようございます、レインフォード様」
ミレイユ・ヴァルンハイムは、昨日よりも少しだけ顔色が良かった。
けれど、周囲の視線を気にしているのは明らかだった。
「本日もご一緒していただけます?」
「よ、よろしいのですか」
「昨日も申し上げましたでしょう?」
エウラリアは小さく微笑んだ。
「わたくしはお約束を反故にする趣味はございませんの」
それだけで、ミレイユはまた言葉を失ってしまう。
教室の中では何人もの生徒がこちらを窺っていた。
昨日の件が事実であると確認するような目。
レインフォード公爵令嬢が本当にヴァルンハイム伯爵令嬢と並ぶのかを見定める目。
エウラリアだけが、それを何でもないことのように受け流していた。
午前の講義は、入学直後らしい基礎説明と簡単な確認ばかりだった。
やがて昼休みが近づき、教室の空気が緩みはじめる。
その時だった。
廊下の向こうから、何かが派手に落ちる音がした。
紙の散る音。
帳面が床に打ちつけられる音。
小さく息を呑む、少女の声。
エウラリアは自然に立ち上がった。
「エウラリア様?」
ミレイユが戸惑ったように見る。
だがエウラリアは、すでに教室の外へ出ていた。
音のした先は、事務棟へ続く回廊の角だった。
そこには、小柄な平民の少女がしゃがみ込み、散らばった書類や帳面を必死に拾い集めていた。
年の頃は十三か十四ほど。
粗末ではないが簡素な使用人見習いの服を着て、顔を青くしながら震える指で紙をかき集めている。
「だから気をつけなさいって言ったでしょう!」
脇では年かさの女使用人が苛立たしげに声を荒げていた。
「それ全部、順番が決まってるんだよ! 入れ替わったら最初からやり直しなんだからね!」
「も、申し訳ありません……!」
「謝って済むなら苦労しないよ!」
少女は叱責に肩をすくめながら、それでも手だけは止めなかった。
エウラリアは数歩近づき、その動きを見て、わずかに目を見開く。
拾い方が違う。
ただ目についたものから掴んでいるのではない。
床に散らばった順ではなく、元の重なり方を思い出すように、少女は書類を拾っている。
帳面の下にあった紙、上にあった紙、封の順番。
怯えているのに、手順だけは崩れていない。
エウラリアは躊躇なくしゃがみ込み、一枚の書類を拾い上げた。
「ひ……っ」
少女が息を呑む。
叱っていた女使用人も、その場で凍りついた。
「レ、レインフォード様……?」
エウラリアはその声にすぐには答えず、手元の書類を少女へ差し出した。
「こちらでよろしいですか」
「え……」
「この帳面の下にございましたでしょう?」
少女は呆然としたまま、こくりと頷いた。
「……は、はい」
「では、合っていたようでよかったですわ」
エウラリアはごく自然にそう言って、今度は少し離れた場所の紙束へ手を伸ばした。
「れ、レインフォード様、そのようなことは……!」
女使用人が慌てて止めようとする。
だがエウラリアは穏やかに首を傾げた。
「この方は困っていらっしゃるのでしょう?」
「そ、それは、そうですが」
「でしたら、手を貸すのはおかしなことではありませんわ」
そして、少女の手元をもう一度見て、静かに言った。
「鈍い方ではありませんのね」
「……え」
少女が顔を上げる。
その瞳は信じられないものを見るように揺れていた。
「落とした順番どおりに拾い直していらっしゃいますもの」
エウラリアは静かに続けた。
「ひどく動揺していらっしゃるのに、元の重なりを崩していない。 よく見ていらっしゃるのですね」
少女の唇が、わなわなと震えた。
女使用人は虚を突かれたように目を瞬かせる。
今まで彼女の失敗しか見ていなかった。
この公爵令嬢は、その後の手元を見ていたのだ。
「この子が不注意だったのは事実でして」
女使用人がどうにか言い繕うように口を開く。
「それに、ひとりで運べると言ったのはこの子で――」
「そうですの?」
エウラリアは穏やかなまま視線を向けた。
「では、この量をひとりで持たせるのが適切かどうかを判断なさるのは、どなたでしたか」
逃げ道のない問いだった。
「それは……」
「人手が足りないのに、段取りを覚えられる方を潰してしまうのは惜しいことですわね」
やわらかな声だった。
けれど、女使用人は言葉を失う。
少女の方もまた、固まったようにエウラリアを見つめていた。
「お名前を伺っても?」
エウラリアが尋ねる。
「え……わ、わたし、ですか」
「ええ」
少女は慌てて姿勢を正そうとしたが、うまくいかない。
それでも必死に答えた。
「エマ、です」
「エマ」
エウラリアはその名を丁寧に繰り返した。
「続きをご一緒しても?」
エマは完全に言葉を失った。
公爵令嬢が。
自分のような平民の雑用見習いと一緒に床にしゃがみ、書類を拾う。
そんなことが、本当にあってよいのか。
「だ、駄目です……!」
ようやく絞り出した声は掠れていた。
「そのようなこと、レインフォード様にさせるわけには……」
「どうしてですの?」
「え……」
「わたくしは今、手を貸したいと思っておりますの。 それでは足りませんか?」
あまりにも自然な問いだった。
気まぐれでもない。
施しでもない。
ただ、必要だと思ったからそうしているだけ。
その真っ直ぐさに、エマの胸の奥が苦しくなる。
気づけば、通りかかった生徒たちが足を止めていた。
昨日の一件で注目を集めているレインフォード公爵令嬢が、今度は平民の少女と並んでしゃがみ込んでいるのだ。
視線が集まらないはずがない。
「何をなさっているの……?」
「平民の子でしょう?」
「まさか、お助けに?」
「そんな……」
ひそひそと囁かれる声の中、エウラリアは気にする様子もなく、拾った書類をエマへ順に渡していく。
「こちらはこの帳面の下でよろしいですか」
「は、はい……」
「では、こちらはその次ですわね」
「……はい」
やりとりを重ねるうち、散らばっていた書類は元の順に戻されていった。
すべて拾い終えた時、エマの目には薄く涙が浮かんでいた。
けれど彼女は泣くまいと必死にこらえている。
「これで大丈夫ですか?」
「……はい」
「それはようございました」
エウラリアが微笑む。
その笑顔があまりに穏やかで、エマはかえって泣きたくなった。
「あの……」
「はい」
「どうして、そこまで……」
問いは、ほとんど無意識に零れたものだった。
エウラリアは少しだけ考えるように目を伏せ、それから答えた。
「埋もれてしまうには惜しい方だと思いましたので」
その言葉はあまりにもあっさりとしていた。
「それに、働き手が必要なのであれば、なおさら潰してはなりませんでしょう?」
エマは息を呑む。
惜しい。
自分が。
そんなふうに言われたことなど、一度もなかった。
「少し、お休みになった方がよろしいのでは?」
エウラリアは続けた。
「顔色があまりよくありませんわ」
「い、いえ、わたしは……」
「昼休みですもの。 お茶くらいは召し上がれますでしょう?」
エマはますます青ざめた。
断るべきだと頭では分かっている。
けれど、どう断ればよいのか分からない。
その時だった。
「やはり、君は面白いことをするな」
回廊の向こうから、よく通る少年の声が響く。
ざわめきがぴたりと止んだ。
そこに立っていたのは、第一王子アシュレイ・フォン・エーデルシュタインだった。
数人の側近候補を従えたその姿に、周囲の生徒たちが一斉に頭を下げる。
エウラリアは立ち上がり、淑やかに一礼した。
「ご機嫌よう、殿下」
「ご機嫌よう、レインフォード令嬢」
アシュレイはどこか面白がるような、しかし警戒も滲ませた目で現場を見回した。
「昨日はヴァルンハイム伯爵令嬢。 今日は平民の使用人見習いか」
「困っていらっしゃいましたので」
「君は本当に、そればかりだな」
「そうでしょうか」
きょとんとした顔で返され、側近たちが小さく息を呑む。
「少なくとも、周囲はそうは見ない」
アシュレイは淡々と言う。
「昨日の件だけでも十分に騒がれている。 そこへ今日のこれだ」
「これ、と申しますと」
「平民の少女に、公爵令嬢自ら手を貸したことだ」
「あら」
エウラリアは本当に意外そうに目を瞬かせた。
「書類を拾うくらい、珍しいことでしょうか」
「君の立場でなければな」
その返しに、エウラリアは少しだけ考え込むような顔をした。
だが結局、結論は同じだったらしい。
「けれど、困っている方を前にして、立場を理由に退くのはよろしくありませんわ」
静かな声だった。
「少なくとも、レインフォードではそのように教わっておりませんもの」
その場の空気が変わる。
武門レインフォード。
その家名を背負う令嬢が、王子の前で、平民を助けることに迷いはないと口にしたのだ。
アシュレイはわずかに目を細めた。
「なるほど。 やはり、何も企んでいないように見えて厄介だ」
「厄介、でございますか」
「ああ」
王子は断言した。
「打算で動く者なら読みやすい。 だが君は違う」
「そういうつもりはございませんのに」
「そこだ」
アシュレイはそう言って、エマへ視線を移した。
「名は?」
「……エ、エマ、でございます……!」
「そうか」
短く答えた王子は、再びエウラリアを見る。
「君はその少女の何を見た」
「落とした後の手元ですわ」
エウラリアは迷いなく答えた。
「ひどく叱られていても、順番を崩さず拾っていらっしゃいました。 よく見て、よく覚えておられる方です」
「それだけで?」
「埋もれてしまうには惜しいと判断するには十分かと」
王子は数秒、何も言わなかった。
それから小さく息を吐く。
「……本当に、君はそうなのだな」
「はい?」
「いや、何でもない」
彼は踵を返しかけ、最後に一度だけ振り向いた。
「レインフォード令嬢」
「はい」
「君はもう少し、自分が何をしているのか自覚した方がいい」
「善処いたしますわ」
「たぶんしないだろうな」
「……そのように見えます?」
「見える」
やりとりを残し、アシュレイは去っていく。
側近たちも慌てて後を追った。
回廊に残された生徒たちは、誰ひとりすぐには動けなかった。
第一王子と、公爵令嬢と、平民の使用人見習い。
その組み合わせ自体が、もはや異様だった。
エウラリアだけが、何事もなかったようにエマへ向き直る。
「驚かせてしまいましたわね」
「……え」
「殿下はお優しい方のようですけれど、少しお言葉が鋭うございますもの」
エウラリアはそう言って小さく首を傾げた。
「それで、やはりお茶は難しそうですか?」
エマはとうとう耐えきれず、ぽろりと涙を零した。
「ご、ごめんなさい……」
「謝らなくてよろしいのですよ」
「こんなふうに……言ってもらえたこと、なくて……」
自分は怒鳴られる側の人間だと思っていた。
失敗すれば叱られ、うまくやって当然で、誰にも見えないまま働くのだと。
なのにこの人は、自分の失敗ではなく、その後ろにあるものを見つけた。
それが、たまらなく苦しかった。
エウラリアは少しだけ困ったように笑い、それでも優しく言った。
「でしたら、なおさら少し休みましょう」
「……でも」
「働ける場所も、お茶を飲む席も、選んでよろしいのよ」
その一言に、エマはまた大きく目を見開く。
選ぶ。
自分が。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
いつの間にか教室前まで来ていたミレイユも、その言葉を聞いていた。
彼女は静かに息を呑む。
この人は本当に同じなのだ。
昨日、自分に向けた手と。
今、平民の少女へ向けた手が。
身分も立場も違うのに、そこにまるで差がない。
「……よろしければ」
ミレイユが、少しだけ勇気を出して口を開く。
「わたくしもご一緒いたします」
エウラリアは嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、それはよかったですわ」
平民の少女エマは、目の前の二人を信じられないものを見るように見比べた。
伯爵令嬢と、公爵令嬢と、自分が。
同じ席へ向かうなど、どう考えてもおかしい。
けれど目の前の公爵令嬢は、それを少しもおかしいと思っていない顔をしていた。
その日の午後、学園中には新しい噂が駆け巡った。
レインフォード公爵令嬢は、ヴァルンハイム伯爵令嬢に続き、今度は平民の使用人見習いにまで目を掛けている。
しかも第一王子の前でそれを隠しもしなかった。
学園内の人材を見定めているのではないか。
いずれ公爵家で引き取るつもりではないか。
武門レインフォードは、下働きに至るまで囲い込みを始めたのではないか。
もちろん、その中心にいる当人は、そんな話になっているとは夢にも思っていなかった。
放課後。
帰り支度をしながら、エウラリアはミレイユへ静かに言う。
「エマは、とてもよく見ていらっしゃる方ですわね」
「……はい」
「埋もれてしまうには惜しい方です」
ミレイユはその横顔をそっと見つめる。
この人は、誰も気づかなかったものを見つけてしまう。
見捨てられ、踏まれ、埋もれていくものの中から、当たり前のように光を拾い上げてしまうのだ。
そして、本人だけが、それを特別なことだと思っていない。
その日、エウラリア・レインフォードは、書類を落とした平民の少女に手を貸しただけだった。
だが翌日には、
――レインフォード公爵令嬢が、平民まで公爵家の人材候補として見定めている。
という噂が、学園中を駆け巡ることになる。




