第1話 公爵令嬢は、ひとりを放っておけない
王立エーデルシュタイン学園の入学初日。 春の陽光に照らされた白亜の校舎は、今年もまた、選ばれた貴族子女たちを迎えるために静かにその威容を誇っていた。
磨き上げられた石畳の中庭。噴水の水音。手入れの行き届いた花壇。学院付きの使用人たちが慌ただしく行き交い、色とりどりのドレスや制服に身を包んだ新入生たちが、それぞれ期待と緊張を胸に歩いている。
その中でも、自然と人の視線を集める一団があった。
「レインフォード公爵家のご息女ですって」 「まあ……あの、辺境防衛の英雄と名高いアルベルト公爵閣下の」 「武門の名家も名家でしょう。近寄りがたいわ……」 「お綺麗だけれど、厳しそうなお方ね」
ひそやかに交わされる声の先で、ひとりの少女が静かに歩いていた。
エウラリア・レインフォード。
艶やかな蜂蜜色の髪をゆるやかに結い上げ、陽光を受けた青灰色の瞳は、どこまでも澄んでいる。姿勢は美しく、歩幅は乱れず、何よりその立ち居振る舞いには、名門公爵家の令嬢として長く叩き込まれた品格があった。
だが彼女の纏う空気は、世間が勝手に抱く「武門の令嬢」の印象とは、少しだけ違っていた。
鋭さではなく、落ち着き。 冷たさではなく、静かな温かさ。
もっとも、それに気づける者はまだ少ない。
「エウラリア様、本日はお疲れになりましたら、無理はなさらないでくださいませ」 後ろに控える侍女見習いのひとりが、緊張した様子でそう言うと、エウラリアは小さく微笑んだ。
「ありがとう。けれど、まだ何も始まっておりませんもの。むしろ、皆さまの方がお疲れでしょう」
柔らかな声音だった。 その一言だけで、侍女見習いの表情がわずかに緩む。
ただ、それを見ていた他家の令嬢たちは、また別の受け取り方をした。
「使用人にまであんなふうに……」 「やはり余裕が違うのね」 「公爵家ともなると、慈悲深さを見せるのも自然なのかしら」
エウラリア本人は、そんな視線にも噂にも気づいていない。 正確にいえば、気づいても気にしていなかった。
父アルベルトから教わったことがある。
――人の目を気にして立てなくなる者に、守るべきものは守れん。
そして母ヴィオレッタからはこう言われた。
――けれど、立つなら美しく立ちなさい。あなたの強さで、誰かの尊厳を傷つけては駄目よ。
その両方を、エウラリアは幼い頃から当たり前のように胸に収めてきた。 それだけのことだった。
入学式前の学園はまだざわついており、案内役の教師や上級生が新入生を誘導している。 だが、エウラリアはふと、正面玄関ではなく校舎脇の回廊へと視線を向けた。
何か、妙な空気がしたのだ。
声は大きくない。 怒鳴り声でもない。 だが、そこには人が人を追い詰める時にだけ生まれる、息苦しい静けさがあった。
「……少し、失礼いたしますね」
侍女見習いにそう告げ、エウラリアは歩みを変える。 止める間もなく、彼女は回廊の奥へと向かっていた。
石造りの柱の向こう、日陰になった一角で、三人の令嬢がひとりを囲んでいた。
「ですから、わたくしたちは親切で申し上げているのです」 「ここにあなたの居場所はありませんのよ」 「ご自分でもお分かりでしょう? そのようなお立場で、同じ教室にいられるのはおつらいでしょうに」
囲まれている少女は、淡い栗色の髪を肩のあたりで揃えていた。華やかな美貌ではない。だが整った顔立ちの、まだあどけなさの残る令嬢だった。 彼女は唇を引き結び、目を伏せたまま、必死に何かを耐えているようだった。
「……わたくしは、正規の手続きを経て入学しております」 ようやく絞り出した声は細い。 けれど、震えながらも折れてはいない。
「あら、手続きの問題ではなくてよ」 「空気の話をしておりますの」 「婚約も家の後ろ盾も失った方が、どのようなお顔でここに?」
最後の一言に、囲まれている令嬢の肩がびくりと揺れた。
なるほど、とエウラリアは思う。 事情までは知らない。だが、あの反応だけで十分だった。
相手が一番触れられたくないところを、わざわざ選んで踏みにいっている。
よくない。
エウラリアは迷わず、その場へ足を踏み入れた。
「その方が嫌がっていらっしゃるようですけれど」
澄んだ声が、静かな回廊に落ちる。 三人の令嬢が一斉に振り向いた。
その瞬間、彼女たちの表情が固まる。
「レインフォード……様……?」 「どうしてこちらに……」 「い、いえ、これは……」
エウラリアは、囲まれていた令嬢の前に立った。 庇うように、ではない。 ただ、ごく自然に、そこにいるのが当たり前であるかのように。
「お話の途中でしたか」 エウラリアは柔らかく言う。 「けれど、続けるほどのことには見えませんでしたので」
「わ、わたくしたちは、ただこの方のためを思って……」 「そうですの?」 首を傾げる仕草は上品で可憐ですらあったが、言葉の逃げ道は狭い。 「では、なおさらお止めになった方がよろしいかと。親切は、受け取られる相手が苦しくならない形で差し上げるものですわ」
令嬢たちの頬が引きつる。 反論したいのに、正面からは返せない。相手はレインフォード公爵家の令嬢だ。しかも言葉に隙がない。
もっとも、それを言葉で追い込んでいる自覚は、エウラリアにはほとんどなかった。
彼女にとっては、事実をそのまま述べただけである。
「……ご高説を、ありがとうございます」 囲んでいたうちのひとりが、かろうじて笑みを作った。 「ですが、家の事情もご存じないまま口を挟まれるのは、いかがなものでしょう」
「そうかもしれません」 エウラリアはあっさり頷く。 「けれど、事情があれば、相手を傷つけてもよいとは存じませんでした」
あまりにも真っ直ぐな返しに、一瞬、空気が凍った。
囲まれていた令嬢が、思わず顔を上げる。 その目に宿っていたのは、驚きだった。 こんなふうに、誰かが自分の前に立つとは、思ってもいなかったのだろう。
沈黙に耐えかねたのか、別の令嬢が小さく舌打ち混じりに息を吐いた。 そして、囲まれていた令嬢の腕を掴んで引き寄せようとする。
「っ……」
その瞬間だった。
エウラリアの身体が、わずかに動く。
大げさな動きではない。 踏み込みは半歩。相手の手首に触れる角度と、体重の流し方だけで十分だった。
「――危のうございますわ」
静かな声とともに、掴もうとした令嬢の腕がするりと外れる。 さらに重心が崩れ、相手は一歩よろめいた。
「きゃっ……!?」
転びそうになったその身体を、エウラリアは逆の手で軽く支えた。 倒しもしない。恥もかかせない。ただ、これ以上は駄目だと分かる程度に、完全に制しただけだ。
空気が変わった。
三人の令嬢は、目を見開いてエウラリアを見る。 囲まれていた少女もまた、息を呑んでいた。
今のは、何だ。
剣を抜いたわけではない。 暴力でもない。 だが、令嬢らしからぬ洗練された体捌きは、見た者に十分すぎる印象を残した。
武門レインフォード。 辺境防衛の名門。 その名が、ここでようやく現実味をもって立ち上がる。
「ごめんなさいませ」 エウラリアはよろめいた令嬢の袖をそっと整えた。 「転ばれては危ないと思いましたの」
言い方だけ聞けば、どこまでも穏やかである。 だが、もう誰も次の手を出せなかった。
三人の令嬢は互いの顔を見合わせ、やがて苦々しい笑みを浮かべる。
「……失礼いたしましたわ、レインフォード様」 「どうやら、わたくしたちが余計なお世話をしていたようですものね」 「ええ。では、これで」
彼女たちは取り繕うように頭を下げ、その場を去っていった。 去り際の足取りは速い。
回廊に静けさが戻る。
エウラリアは振り返り、残された少女を見た。
「お怪我はございませんか?」 「…………え」 「お腕を掴まれていらっしゃいましたでしょう。痛みません?」
少女は、何を言われたのか分からないような顔をしていた。 今しがた自分を庇ったことではなく、腕の心配をされたからだろう。
「だ、大丈夫、です……」 「それはようございました」
エウラリアはほっとしたように微笑んだ。 少女の喉がかすかに鳴る。
その微笑みはあまりにも自然で、打算や誇示の色が欠片もなかった。
「あの……」 少女はようやく声を出した。 「どうして……わたくしなんかを……」
その問いは、思わず零れた本音だったのだろう。 助けてもらえる理由が分からない。庇われる価値が自分にあると思えない。そういう声だった。
エウラリアは少しだけ目を丸くしてから、不思議そうに首を傾げた。
「どうして、と申されましても」 彼女はごく自然に答える。 「お困りのようでしたので」
少女は言葉を失った。
そんな理由で、人は動くのか。 そんな簡単な顔をして、目の前に立てるものなのか。
今までの彼女の世界では、それはあり得ないことだった。
「……もし差し支えなければ、お名前を伺っても?」 エウラリアが尋ねる。
「ミ、ミレイユ・ヴァルンハイム、です」 「ミレイユ様」 エウラリアはその名を丁寧に呼んだ。 「よろしければ、このあとの昼食をご一緒しませんか」
「え……?」 「おひとりでは、あまり楽しくないでしょう?」 あまりにも当然のような言い方だった。 「わたくしも、まだ親しい方がおりませんの。ですから、お願いしてもよろしくて?」
それは明らかな気遣いだった。 だが、施しの形を取っていない。あくまで対等な申し出として差し出される。
母ヴィオレッタの教えが、こんなところにも息づいている。
ミレイユの目が揺れた。 今にも泣きそうなほど揺れて、それでも必死に堪える。
「……ご迷惑では、ありませんか」 「もちろん」 エウラリアは即答した。 「むしろ、お話し相手ができて嬉しく思いますわ」
ミレイユは、それ以上何も言えなかった。 小さく、震えるように頷くのが精いっぱいだった。
その頃。 回廊から少し離れた二階の窓辺から、一連の様子を見ていた者たちがいた。
「見ましたか、殿下」 「見ていた」
黒髪の少年――第一王子アシュレイ・フォン・エーデルシュタインは、窓辺に片手をついて下を見下ろしていた。 その隣には、淡金の髪を持つ側近候補の少年が立っている。
「レインフォード公爵家のご令嬢が、あのヴァルンハイム伯爵家の娘を」 「拾った、ように見えたな」 「はい。しかも、あの場で明確に庇いました。ヴァルンハイムは昨年の一件で社交界から距離を置かれています。あれを公然と庇うのは……」 「派閥形成、か」 「少なくとも、そう見る者は出るでしょう」
アシュレイは黙っていた。 だがその視線は、回廊を後にして並んで歩き始めた二人の少女に向けられたままだった。
ミレイユは明らかに硬い。緊張と困惑で足取りすらおぼつかない。 一方でエウラリアは、そんなことに気づいているのかいないのか、昼食の献立の話などをしている。春野菜のスープは好きか、甘い焼き菓子は平気か、そんな他愛のないことばかりだ。
それが逆に、不気味だった。
「……企んでいるようには見えないな」 アシュレイがぽつりと呟く。
「ですが殿下、あの方はレインフォードです」 「分かっている」 「武門の公爵家。しかもヴァルンハイムを拾うのは、いささか象徴的です」 「だからこそ、だ」
アシュレイは目を細めた。
「何も企んでいないのだとしたら、それが一番厄介だ」
側近候補の少年が息を呑む。
確かにそうだ。 打算で動く者なら読める。利で繋がる者なら制しようもある。 だが、善意だけであれをやられると、周囲の計算はすべて狂う。
下では、エウラリアがふと立ち止まり、ミレイユに何かを差し出していた。 おそらく、先ほど落ちかけていたハンカチだろう。 ミレイユは驚いたように受け取り、胸元で握りしめる。
たったそれだけの光景が、妙に目に残った。
「殿下、どうなさいますか」 「何もしない」 アシュレイは視線を逸らさずに答える。 「今はまだ。ただ、見ておく」
その声には、わずかな警戒と、興味が混じっていた。
エウラリア・レインフォード。
武門の名門に生まれた公爵令嬢。 噂では、父から剣を学んだともいう。 そして今、社交界で腫れ物扱いされている伯爵令嬢を、何の躊躇いもなく拾った。
それがどんな意味を持つのか。 本人だけが、おそらく何も分かっていない。
その日の昼、食堂の一角で、レインフォード公爵家の令嬢とヴァルンハイム伯爵家の令嬢が並んで席についたという話は、驚くべき速さで学園中を駆け巡った。
午後には、 「レインフォードがヴァルンハイムを庇護した」 「新たな派閥の芽ではないか」 「公爵令嬢自ら動いたらしい」 「しかも相手に手を出しかけた令嬢を、一瞬で制したらしい」 と、話は尾ひれをつけて広がっていく。
その中心にいる当人は、そんなこととは露ほども知らず、向かいに座るミレイユへ穏やかに問いかけていた。
「お口に合いませんでした?」 「い、いえ……とても、美味しいです」 「それはよかったですわ」 エウラリアは心から安堵したように微笑む。 「でしたら、次は焼き菓子もご一緒しましょう。学園のものは評判がよいと聞きましたの」
ミレイユはただ、呆然と彼女を見つめるしかなかった。
その日、エウラリア・レインフォードは、ただひとりを放っておけなかっただけだった。
だが翌日、学園ではすでに、 ――レインフォード公爵家が動いた。 という噂になっていた。




