第九章 非対称
六月。サロンで透と向かい合った凪は、自分の変化を透に悟られないようにした。
透は変わらず穏やかだった。河野の死から二ヶ月が経ち、悲しみは消えていないが、落ち着きを取り戻していた。凪の世界観が提供する「魂の移行」という枠組みが、透を支えていた。
透がそう話すとき、凪の胸の奥で何かがせり上がった。
「先週、河野の夢を見たんです。夢の中で河野はすごく元気で、何か伝えようとしてるんだけど声が聞こえなかった。それでも……凪さんに言ったら笑われるかもしれないけど、あれは本物だと思った。会いに来てくれたんじゃないかって」
「……そうですね」
「凪さんは、夢での接触は、意識の境界が緩むことで可能になる、と言ってましたよね。睡眠中に」
「ええ」
「だとしたら、河野は続いているんですね。どこかで」
凪は頷いた。
頷きながら、肋骨の間から何かが滲み出るような感触があった。
透は私が提供した答えの上に立っている。その答えを、私はもう確信できなくなっている。私は薬を処方した医師で、自分はその薬が効かない病に罹っている。透は薬が効いているから穏やかな顔をしている。私は今、何をしているのか。
「凪さん、大丈夫ですか」
「ええ」
「最近、少し……疲れているように見えます」
「そうかな」
「目の奥が、少し違う気がして」
凪は透の観察眼に驚きながら、
「たくさんのクライアントを見ていると、こういう季節に疲れることがあります。それだけです」
と言った。
嘘ではなかった。しかし本当でもなかった。
翌週、透は来なかった。仕事が立て込んでいると連絡があった。凪はその夜、一人でシャワーを浴びながら、自分がどれだけ透の訪問を待っていたかに気づいた。
それが余計に、凪の内部を不安定にさせた。
透を必要としている。その感覚が、凪には初めてだった。これまで人を必要としたことがなかった。見えるという能力が凪に孤独を与えたが、同時に自足を与えてもいた。世界の理を知っている者は、孤独であっても孤立しない。
しかし今、世界の理が揺らいでいる。そして透がいない夜は、その揺らぎが際限なく広がる。
「あなたは今、本当にわかっているの? 頭で理解して、安心しているだけじゃないの?」
次に透が来たとき、凪は言った。
透は戸惑った顔をした。
「どういうことですか」
「河野さんの夢の話。魂の移行という枠組みで納得していた。でもそれは本当に納得なんですか。それとも、そういうことにしておくことで、恐怖を管理しているだけですか」
透の目が細くなった。
「……厳しいですね、今日」
「正直に聞いているだけです」
「凪さんが教えてくれた枠組みです。それが問題なんですか」
「枠組みは道具にすぎない。道具に寄りかかることと、自分で歩くことは、別の話です」
透はしばらく沈黙した。
「凪さん、何かあったんですか」
「何もありません」
「嘘をついている顔をしています」
沈黙。
テーブルの傷を、凪は爪で軽くなぞった。
「今日はここまでにしましょう」
透は玄関で靴を履きながら、振り返った。
「次の週にまた来ます。何かあれば、その前でも連絡してください」
凪は頷いた。玄関の引き戸が閉まった。
凪はその場で少しの間立ったまま、扉の向こうで透の足音が遠くなっていくのを聞いていた。




